緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

武満徹作曲「遮られない休息」を聴く

2017-07-30 22:32:21 | ピアノ
武満徹のピアノ曲はシンプルな構成のものが多いが、初期、中期の作品は難解で理解するのに苦労する。
ピアノ作品の中でも「遮られない休息」(第1曲:1952年、第2、第3曲:1959年)という曲は装飾、形式といったものが何もない、感覚が全てのような曲だ。

この曲は瀧口修造氏の「遮られない休息」という詩を題材に作曲された。
瀧口修造氏については未だ殆ど何も知らないが、日本でシュルレアリスム(超現実主義)を広めた美術評論家、詩人であったという。

「遮られない休息」は「妖精の距離」という詩集に収められた短い詩である。
読んでみると非常に難解、何を意味しているか全くというほど分からず、理解に苦しむ。
著作権の関係で全文を記載できないが、いくつかのキーワードを下記に挙げておく。

跡絶えない翅
巨大な瓶の重さ
雪の記憶
球形の鏡

武満徹の「遮られない休息」は短い3曲からなる。

第1曲:ゆっくりと悲しく、話しかけるように
第2曲:静かに残酷な響きで
第3曲:愛のうた

全て無調の暗い曲だ。
理解するのに多大な時間と労力を要するのが、前衛時代の音楽であり芸術である。
見たり聴いたりして瞬時に美しいとか、素晴らしいとか、感情を刺激され陶酔するようなものではない。
人間は心地よく、瞬間的に感動や癒しを与えられるものに惹き付けられるものである。

音楽のみならず、詩、文学、哲学、絵画、造形などの芸術分野で一昔前にとても難解で、従来の美の極致を追求したのとは全く価値観を別にした作品がたくさん作られた。
難解な作品は鑑賞者が一瞬で感覚的に理解し、評価することを求めていない。

分かりやすい芸術のみに親しみ、楽しむこともいいが、難解なものに挑戦して、忍耐しながら長い時間をかけて理解しようとすることも楽しめるのではないか。
一つのジャンルに凝り固まって、その狭い枠で深めていくのも一つの価値観であり、誰もそれを否定できるものではないが、その枠を一歩出て、思いもしなかった作品に触れて、何か今までと違った感じ方を体験することもあるかもしれない。

先日、仙台市の某美術館に行って、古典的手法の絵画から前衛作品まで見てきたが、前衛作品も意外に抵抗なく鑑賞できた。
前衛芸術に批判的な目を向けたり、拒絶反応を起こす人は多いが、芸術は「美しくあるべきもの」という先入観をいったん取り払い、まっさらな気持ちで対峙すれば前衛芸術も鑑賞の入り口に立てると思う。

【追記】
第3曲「愛のうた」は、武満徹の「ヴァイオリンとピアノのための 悲歌」と対をなす曲だと言われている。
この曲は和波孝禧氏の録音で聴ける。

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Nコン高等学校部の名演 マイ・ベスト10

2017-07-20 22:46:47 | 合唱
Nコンを聴くようになって約7年。
高等学校の部だけしか聴かないが、数多くの演奏を聴いてきた。
3年くらい前からはブロック大会や全国大会にも足を運び、生演奏にも接するくらい好きになっていた。
歌を歌うことなど小さい頃から大嫌いで、学校の音楽の授業で歌を歌わなければならないときは惨めであり、恥ずかしさの極みであったことを思いだす。
だから音楽鑑賞を趣味にするようになってからも合唱というジャンルとは無縁であった。
それが7年ほど前にあることがきっかけで合唱曲、それも高等学校の合唱にのめりこんだ。
毎日Youtubeで高校生の演奏を探しては聴き、それに飽き足らず入手しにくいNコン全国大会のCDもかなりの数を入手して繰り返し聴いてきた。
CDで入手できない過去の録音は上野の音楽資料室で聴かせてもらった。
歌大嫌い人間である私が何で合唱曲にのめりこんだか不思議であるが、今振り返ってみると、聴くことで多大な精神的作用が自分に働いていることが分かった。
自分は歌を歌うことは嫌いであるが、聴くことが好きな人間であることにやっと気づいた。
色々な演奏を聴いていると、理屈とか次元とか、そういうものを超えた、ちょっと変な表現ではあるが、人間の深い核となる部分から何か強く放射されるエネルギーのようなものを感じる演奏に、いくつか出会うことが出来た。
それがこのジャンルにのめりこんだ理由だと思う。
これらの演奏は聴き手である私の心の奥底にまでとどき、私の眠ったまま堆積していた感情を引き出してくれた。

合唱曲を聴き始めた当初は合唱演奏の良し悪しの判断は未だ未熟だったが、数か月たった頃から学校により色々な歌い方の違いが判別できるようになってきた。
そしてどの演奏が本物なのかも分かってきた。
それは器楽の演奏や鑑賞を長い間やってきた経験によるものだと思う。

いい演奏って何なんだろう、と考えた時、その答えは一言で言えるものではないが、自分なりに感じていることを言わせてもらえるならば、先に言ったように「聴き手が普段感じたことのない、奥底に眠っている感情を引き出す演奏」なのではないかと思う。
その「奥底に眠っている感情」とは、人間が誰でも本来備わっている根本的なものであろう。
それは「前向きに生きようとする躍動感」であったり「痛烈な悲しみ」であったり、「人の純粋な優しさに触れた時の感動」であるかもしれない。
しかし現代の生きるのが難しくなってきた時代にあって、このような非日常的感情を感じることは殆ど困難になってきているのが現状だ。
人にもよるだろうが、生まれながらにしてもっているこれらの人間的感情を凍土の下に眠らせ、一度も感じることなく一生を終える人は案外、結構いるのではないか。

前置きが長くなったが、今まで聴いてきたNコン高等学校部全国大会の演奏に絞って、自分が先のような感情を引き出してくれた演奏のいくつかを、今日ここに紹介しようと思ったのである。
順位をつけるのはあまり好みではないが、今回は素晴らしいと感じた順にあげていきたい。

1.あの空へ ~青のジャンプ 作詞:石田衣良 作曲:大島ミチル (平成21年度大会)
  演奏:愛媛県立西条高等学校

この演奏が今まで数多く聴いてきたNコン全国大会の演奏で最高の演奏である。
これほど躍動感に溢れ、気持ちが高揚する演奏を聴いたことはない。
この高校の特徴はまず女声の音色が艶やかでかつ繊細、力強くもありかつ優しさも感じ、女性らしい透明感が感じられることである。そして何よりも感情の表出が素晴らしい。
テノールのレベルも非常に高いが、私はまずこの女声に惹き込まれる。
「すべてを乗り越え進みたいんだ」や中間部のスキャット部、最後の方の「さよならさよならもういく」や終結部の「Let’s JUMP JUMP UP!」の部分などでより一層魅力を感じる。
また前半部の「Let’s All the boys and girls」の「boys and girls」男声の歌声が素晴らしい。
この歌い方がこの曲の演奏のキーポイント。
ここまでストレートに歌えるだろうか。よほど自信が無いとできることではない。
聴いている方が物凄く力が鼓舞される
そして中間部の伴奏のピアノソロがまた凄い。
アルペジオのあとの和音の力強い連打とその後の難しいパッセージが淀みなく、胸のすくようなこれ以上ないというくらいの演奏なのだ。思わず「凄い!」と心の中で叫ぶ。
伴奏という位置付けながら正統的な解釈でかつ強弱やテンポの変化をよく理解した演奏。
スキャット部は過剰なパフォーマンスにしなかったところが素晴らしい。
このスキャット部は地味であるが、どの学校よりも聴き応えがある。
この西条高等学校の演奏は、二十数名という少ない人数で女声、男声、伴奏全てが最高度の力を結集して作り上げた類稀な演奏だと確信している。




2.混声合唱のための「ラプソディ・イン・チカマツ[近松門左衛門狂想]」から壱の段
 作詞:近松門左衛門 作曲:千原英喜  (平成21年度大会)
 演奏:愛媛県立西条高等学校

この演奏も「1」と同じメンバーによる演奏。
難易度の高い曲であり、完成度の高い演奏でないと人に聴かせられない。
少人数でありながらよく、ここまで歌い上げたと思う。
逆に言うと、少人数だからこそそれぞれのメンバーの個性が発揮できた演奏だったとも言える。
恐らくこの曲で、この西条高等学校を超えるレベルの演奏はもう現れないであろう。
Poco piu mossoからの次第に強まっていくソプラノの、ホールの最上段の一番奥まで突き抜けていくような歌声とテノールとのハーモニーが特に素晴らしく感動する。
このような歌声を出せる学校を他に聴いたことはない。
Tempo Ioから繊細さと力強さが交錯する部分の対比を経て、Poco meno mossoからの「曾根崎心中」の一節を歌う各メンバーの裏声が凄い。
「せきぜき、回る」の裏声など、ぞくそくっと来る。よく表現したものだと感心する。
この曲も演奏者の物凄い集中力が伝わってくる類稀な演奏だ。
演奏している彼らには、歌に完全に同化していることの他に何も入り込む余地がないと言わざるをえないほどだ。




3.混声合唱のための「地球へのバラード」から 沈黙の名 
 作詞:谷川俊太郎 作曲:三善晃 (平成12年度大会)
 演奏:北海道立札幌北高等学校

(この続きは後日書きます)

【続き 20170721】

この演奏は上野の音楽資料室で平成12年度大会のCDを聴いて出会った。
その時、多分このCDを全曲、ひととおり聴いたと思う。
多くの曲が素通りし心に残る演奏は少なかったが、この「沈黙の名」という曲と、札幌北高等学校の演奏だけが恐らく強烈に印象に残ったのではないかと思う。
東京に出た時は、帰りに上野の音楽資料室でこのCDを借り、この演奏だけを閉館時間まで何度も繰り返し聴いたものだった。
閑散とした夜の視聴覚室で、この曲を静寂の中で聴き入ったことはちょっとした思い出だ。
1、2年前にこの大会のCDを入手してからは音楽資料室で聴くことは殆ど無くなった。

混声合唱の難曲である。出だしからしばらくの男声の伴奏がとても難しい。1つ間違えば曲を台無しにするし、弱い発声だと曲に厚みが出ない。成否は紙一重という感じ。
北高の男声は失敗を恐れない強さがある。もっとも自信が無いと出来ないだろうが。
この強さがこの曲を一層引き立たている。
女声の特徴は、聡明感があり、透明度が高い。この音色をベースとし、感情的表現の強弱の幅が広い。
「それらの小さなやさしい名が彼女らを愛に誘うだろうから」の部分の女声、男声の演奏が物凄い。
ここの部分を是非聴いて欲しいと願う。
物凄く高い集中力でもって歌っている。感情が最も引き出されるフレーズ。
「ついに呼びえなかったものの名は 夏よ ことしも黙っているがいい」
「名づけられぬものの名は 彼女らを不幸にするばかりだから」
この部分で随所に挿入される「夏よ」という歌声。
しかし何でこんなに強い感情が引き出されてくるのか。
私は演奏者達の歌声の裏から伝わってくる感情は本物だと感じる。
こればかりは技巧や均一化された美しい音色などの見かけのもので代用できるものではない。
何の混じりけのない、本当の気持ちでないと相手を動かすことは出来ない。

「沈黙の名」とは果たして何か。この曲は名曲中の名曲だと思う。
この曲も北高を超える演奏は今後恐らく現れないと思う。




4.あしたはどこから 作詞:平峯千晶 作曲:三枝成彰 (平成15年度大会)
 演奏:福島県立橘高等学校

(この続きは後日書きます)

【続き 20170722】

この平成15年度大会の課題曲の詩は一般からの公募により採用されたという。
作詞者の平峯千晶さんは、神奈川県立多摩高等学校合唱部の3年生であった。
この曲の詩を初めて読んだとき、とても感動した。
とても深い意味を持ち、大人である私も考えさせられる内容だ。このような感性を持っている高校生はなかなかいない。

この曲も上野の音楽資料室で出会った。
全国大会出場校の中で最も感動したのが福島県立橘高等学校の演奏であった。
丁度1年ほど前にYoutubeでこの高校の全国大会の動画を見つけ、歌う姿を見て心を打たれた。
この橘高等学校の最も素晴らしいところは、ピアノ伴奏の中間部の間奏の後に長調に転調されてからの演奏だ。
「私が未来をうたうときには
風だって私に引きずられて吹くだろう
春の声がともに問うだろう」
この部分を聴くと、物凄く強く感情が湧き起ってくる。
とくに「春の声が」が2回繰り返され、「ともに問うだろう」と続く部分が凄い。
もし聴く機会があったならば、是非、この転調してからの演奏を心から受け止めて欲しいと願う。
そして演奏者たちの歌う表情をよく見て欲しい。
音楽が理解できる方であれば、必ず、強く感じるものがあるはずだ。

人は長い間、闇の人生を送っても、必ず蘇生することができる。

「私と世界の付け根から
だんだん強く、だんだん確かに、
ああ、朝のひかり。」

この素晴らしい詩を見事に表現した演奏だ。




5.風になりたい 作詞:川崎洋 作曲:寺嶋陸也
 演奏:大妻中野高等学校

(この続きは後日書きます)

【続き 20170723】

演奏時間の短い課題曲であるが、完成度の高さ、音楽性、教育性の高さでは歴代の課題曲の中では屈指の曲だと思う。
とくに詩と曲がとても適合している。詩も曲もどちらも素晴らしい。
この年度の課題曲のテーマは「はたらく」であった。
この曲と出会ったのは大震災が起きた直後の事であった。
停電し、真っ暗闇の中で何度もこの曲を聴いていたのを思い出す。

「風」の、見返りを期待しない「はたらき」。
「はたらく」を根本的につきつめていくと、利害や欲とは全く無関係、次元の異なる行為であることが分かる。
「はたらく」意義を、どうとらえようと人の自由であろうが、私は人間が本来根本的に持っている、全く無垢の自然な気持ちを動機として行われる自発的な行為だと思っている。
「はたらく」意義、充実感、達成感を感じられないのは、このような根本的なものに未だ気付くに至っていない可能性がある。
例えばトイレ掃除のような雑用に価値を見出せないと思っていたとしたら、「はたらく」ことは全般的に、苦しいのではないだろうか。

この課題曲の演奏は、「はたらく」ことの根本的意義、自然な自発的動機、それは人や物に対する前向きな愛情であろうが、この気持ちを演奏者たちが「意識せずに」、自然に表出している演奏が最も素晴らしいのである。
そして全出場校の中で、この「気持ち」を最も強く、「自然な」かたちに表現しているのが、大妻中野高等学校の演奏なのである。

「風になりたい 風になって
渡り鳥を運び
潮騒の歌を
お花畑の香りを 深い森の息吹きを
遠くへ届け 星々を磨きたい」

均一化された透明感のある歌声ではないが、生気にあふれ、前向きなエネルギーに満ちている。
「上手く」歌うことに価値を置かず、聴き手に曲の持つ価値やメッセージを伝えようとする気持ちが十分に伝わってくる。
圧巻は次の部分。

「風のはたらきを心にとめて
わたしに出来る役割を担いたい」

とくに「風のはたらきを心にとめて」の部分が素晴らしい。
この部分を初めて聴いたとき、とても驚いた。
歌声の裏から、何とも表現できないが、とても優しい気持ちが感じられたからだ。
そして次の「出来る役割」の部分で、力づよい決意のようなものを感じた。
このような感情を表現できる、ということは意識してできることであろうか。
普段からこのような気持ちになっていないと出来ないのではないか。

この演奏を聴くと、頭でいろいろ曲をいじり回し、均一な理想の音色で統一された演奏が色あせてくる。このような演奏は何回聴いても感動することは無い。
大妻中野高等学校の演奏は、このような演奏とは対極にある演奏なのだ。




6.混声合唱のための「やさしさは愛じゃない」から さびしいと思ってしまう 
 作詞:谷川俊太郎 作曲:三善晃 (平成13年度大会)
 演奏:北海道立札幌北高等学校

この平成13年度大会のCDは、合唱曲にのめりこむようなるずっと以前に買っていた。
その頃、伊福部昭など邦人作曲家の曲を探していた時期で、立ち寄ったCDショップで何とはなしに買ってみたのである。平成14年の頃だったと思う。
一通り聴いて最も印象に残った曲、演奏がこの「さびしいと思ってしまう」という曲であった。
この頃は合唱曲に未だ目覚めていなかったので、この曲は5、6回聴いただけで終わってしまっていた。
それから10年近くたって、またこの演奏を聴いた。
調性はヘ短調であろうか。
恐ろしく暗く、荒涼とした曲だ。

「怖いんじゃない。寂しいの。死ぬのが」
「寂しいと思ってしまうのが、寂しい」
「もうとっくにいなくなったものたちは、今どこにいるの」
「消してしまいたい。頭の中から消して、体の中の、寂しいということ」

合唱曲の中でも難曲ではないだろうか。
技巧に偏った曲はそれなりに形を整えることができる。
見栄えが良ければ高く評価してくれる人もいるであろう。
しかし、この「さびしいと思ってしまう」のような曲は、全くごまかしが効かない。
意識されたオーバーな感情表現だとうるさく不自然に聴こえる。
感情表現を抑え、無難にしようとすれば、あるいは感情表現が借り物であれば、しらけてしまう。

詩の主人公の、この血を吐くような孤独感、死と隣り合わせの心の苦しみを真に表現することは極めて難しい。
このような、人間が最も恐れる感情を一体どれだけ表現できるのか。
札幌北高の演奏を聴くと、感情が強く湧き起ってくる。

「寂しいと思ってしまうのが、寂しい」の「寂しい」の部分は寒々としてくる。
とくに「消してしまいたい。頭の中から消して、体の中の、寂しいということ」の部分。
「体の中」の感情の高まりが物凄い。心の中の苦しさがリアルで痛々しい。

昨今の全国大会出場校の中でこれほどの表現ができる学校があるだろうか。
平成12年度大会の「沈黙の名」ととに、Nコンの歴史に残る名演だと思っている。




7.この世の中にある 作詞:石垣 りん 作曲:大熊 崇子
 演奏:福島県立安積女子高等学校

(この続きは後日書きます)

【続き 20170729】

この曲も歴代の課題曲の中でも名曲のうちに入るものと思う。
近年のNコンの課題曲でこのような素朴で完成度の高い曲は聴けなくなったのは残念であるし、不満も感じる。
この曲のNコン全国大会出場校の演奏を聴き比べ、最も素晴らしかったのが福島県立安積女子高等学校の演奏だ。
繰り返しになるが、どんなに技巧や音色を表面上磨いても、また迫力ある音量を聴かせても、歌い手たちの根本となる人間としても「心の力」を凌駕することは出来ない。
「心の力」とは抽象的な表現であるが、具体的には、無垢で純粋な優しさとか、人の淋しさとか痛みに対する感受性とか、前に進んでいこうとする精神的パワーとか、そのような根本的に人間に備わっているものが引き出されたものなのだ。
ここ数年のコンクールでの演奏で物足りなさを感じるのはこの点である。
やたら音色の均一性、統一性、表面的な技巧、頭で考え効果を意識し、自然な感情の流れを無視した無機的な演奏が多くなったような気がする。
このようなものを目指す指導者にあたった歌い手たちは不幸だ。
賞や学校の名誉など全く考えず、聴き手から多くの感情を引き出し、末永くその演奏を大事にしてくれる演奏を目指すだけでよいのである。

この福島県立安積女子高等学校の演奏で、「まるで星が飛ぶように~私はきっとなしとげるのです」の部分を是非聴いて欲しい。
何かとても強い感情が湧き起きてこないだろうか。
表面的な声とか音色ではなく、気持ちの強さを感じ取って欲しい。
この歌い手たちの声の裏から強く放射されてくる気持ちは何であるか、何を伝えようとしているのか。
この強い気持ちを出せるということが最も根本的なものであり、大切なことなのである。
この福島県立安積女子高等学校の演奏から、終始様々な感情が伝わってくるし、聴き手である私自信の心からも様々な感情が引き出される。こんな演奏を出来る学校はなかなか無い。

音楽を聴いて感動するということは、もしかすると演奏者たちの「人間」に触れて感動するものなのかもしれない。




8.海はなかった 作詞:岩間 芳樹 作曲:広瀬 量平
 演奏:東京都立八潮高校

(この続きは後日書きます)

【続き 20170802】

この曲は混声/男声合唱組曲「海の詩」の第1曲目である。
作曲者の廣瀬量平氏は北海道函館市出身の作曲家。尺八や箏などの邦楽器を取り入れた現代音楽作品が多い。「尺八とオーケストラのための協奏曲」という曲を聴いたことがある。
この「海はなかった」はNコン史上屈指の名曲、そして東京都立八潮高等学校の演奏は同じくNコン史上屈指の名演だと思う。
こういう力のある作曲家の力作を最近のNコンでは聴けなくなった。
冒頭のピアノの前奏は意表を突く、不協和音で始まる。
いかにも現代音楽作曲家らしい始まり方と思うが、前奏が終ると全く別の展開となる。
この対比が素晴らしい。初めて聴いたとき、この展開は誰も予想できない。

この曲は詩からインスピレーションを得て作曲されたのだと思う。
詩と曲がとてもマッティングしている。
岩間芳樹氏のこの詩の持つ強い気持ちが曲に表れている。
「何か」に対する、やるせない、無念のような怒りが感じられる。
表立って表現できずに胸の内にため込んだ気持ちを、文学、音楽を介在して表出している。

「~渚を走る/羽根の墓標よ
夏の旅びとの髪飾り
どの風待てば飛べるだろうか」

「生きものの
自由なはばたきを
望んでいたはずだった」

この部分の八潮高等学校の演奏が物凄い。
上手いとか、美しいとか、技巧がどうとか、そんなものははるかに超えている。
この歌声から伝わってくる気持ちは尋常でない。
決して「音量」の強さではない。「感情エネルギー」の強さである。

ここの部分から、演奏者たちが無心に伝えようとしていること=作詞者、作曲者が曲に託した気持ち、感情、メッセージを十分に感じ取れる感受性が必要とされる。

この強い気持ち、メッセージが言葉と音に変換され、それが芸術と呼ばれるまでに昇華される。
人の気持ちは文学的表現と音楽によりさらに高められる。

演奏者は普段からさまざまな感情を感じ、(人前でなくても)表現できなければ、根本的なところで聴き手を動かす演奏はできないであろう。
また詩や音楽に対する理解が欠けていれば、「鑑賞する」というところまでは行きつけない。
この2つの要素をいかに融合させ、最大限に表現できるか。
八潮高等学校の演奏はこの難しさを聴き手に教えてくれている。

近年やたら音量の強さと表面的な技巧のみが目立ち、それ以外の要素に欠ける演奏が多くなったように思える。
本当に強さを感じられるのは音の大きさではなく、放出される感情の強さである。




【続き 20170806】

9.風になりたい 作詞:川崎洋 作曲:寺嶋陸也 (平成17年度大会)
 演奏:福島県立橘高等学校

5番目と同じ曲の選出であるが、この橘高等学校も何度も聴いた。恐らく3、4百回は聴いているのではないか。この演奏も素晴らしい。
この学校の演奏の最も素晴らしいところは、低音パート(メゾソプラノ、アルト)の力強さである。
しかしこの力強さは何度も言うようでくどいが、音量の強さではなく、感情的エネルギーの強さである。
声の質も好きだ。

「深い森の息吹きを」
「うつむく人の背を押して
太陽へ一歩踏み出させたい」
「風になりたい 風になって」

繰り返し2度目の「風のはたらきを心にとめて
わたしに出来る役割を担いたい」
「風になりたい風になろう」

この部分の低音部の音に是非注意して聴いて欲しい。
何か心に強い感動が湧き起ってこないだろうか。
注意深く聴かないと、洗練されたおとなしい演奏にしか感じないかもしれない。
しかし、心を無にして聴くと物凄い演奏であることがわかる。
抽象的な言い方ばかりであるが、これだけは人の感じ方であり、具体的に表すことは難しい。
私にはこの学校の歌い手たちの気持ち、歌い手たちの普段の真剣な姿が痛いほどに伝わってくる。
だからこの演奏を何百回も繰り返し聴いてしまうのだ。




【続き 20170811】

10.また、あした 作詞:島田雅彦 作曲:三枝成彰 (平成10年度大会)
 演奏:福島県立安積女子高等学校

この演奏も随分と聴いた。歴史に残る名演だと思う。
作詞者の島田雅彦氏は某文学賞の選考委員で知られているが、相当なクラシック音楽愛好家だと紹介されていたのを見たことがある。
作曲者の三枝成彰氏はギター協奏曲(山下和仁演奏の録音がある)も作曲しているが、合唱曲は「あしたはどこから」とこの「また、あした」の2曲が素晴らしい。

思春期の多感な心情を描いた詩であるが、歌を上手く歌うことに支配された演奏は全く感動を引き起こすことはない。
部分的な声の美しさと技巧のみが場違いに際立って、妙にちぐはぐに聴こえるだけである。
この曲は、演奏者たちが詩の主人公になりきらなければ、聴き手に全くというほど曲の真価が伝わってこない。
安積女子高等学校の次の部分を注意して聴いて欲しい。

「でも君のことが好きになったから
冷たい空しさを 紛らしながら
歌っていることにしよう」

この部分を聴くと、思春期だった頃の、人を好きになり始めた頃の淡いときめき、そのことしか頭に浮かばなくなり、嬉しくもありせつなくもある気持ち、彼女たちの歌声の奥から伝えられるそんな気持ちが、遠い記憶を蘇えらせる。
詩の「主人公」の気持ちに完全に同化し、その気持ちを歌を通して表出する。
意識した表現というより、その気持ちの純粋な表出である。
優れた役者が登場人物そのものに完全に同化するのと同じである。
そこにはもはや演技というものは存在しなくなっている。
安積女子高等学校の演奏の最も素晴らしいことろがここなのである。

「友達ってなんの役に立つのですか」
ここの部分の歌声を綺麗にできるであろうか。
思春期の中高校生たちの、決して誰にも言うことの出来ない切実な叫びなのではないだろうか。

安積女子高等学校の演奏で驚くのは、上記で書いてきたことの実現とともに、人間本来の声の美しさ、それも訓練された自然な発音をしていることである。
意図的ではない力みのない、自然に逆らわない発声と言って良い。
生半可でない訓練の賜物と言ってよいが、演奏者自身の自発的な気持ち、歌うことが何よりも好きでたまらないという気持ちが無いと決して出来ないことだ。それは演奏時の目の輝きを見れば分かる。合唱をとおして、人には誰にでも最適な居場所があることを無意識に感じ取っているに違いない。
この演奏はこの高校の最盛期の演奏でもある。

この演奏はYoutubeでも聴くことができる。
是非他の学校の演奏と聴き比べをしてほしい。
この演奏を通して、合唱演奏の神髄とは何か、ということが見えてくるものと確信する。




【後記 20170812】

約20日間にわたってこの記事を書いたが、どの演奏も合唱曲の素晴らしさ、真髄を私に教え、私の音楽生活を豊かにしてくれた。
いやそれだけではない。
これらの曲、演奏は、私の心の中に長い間堆積していた、積年の未消化となっていた感情を解放してくれた。
このことは間違いなく、私の生き方に大きくプラスとなったことを強調しておきたい。
これらの演奏を聴くことで、私の感受性はますます研ぎ澄まされた。
生きることが楽になっていった。
だから感謝したいのだ。それ故にいつかこのような記事を書きたいと思っていた。

合唱曲を聴くようになってからずっと、「いい演奏とは何か」ということを考えてきた。
コンクールで金賞を取った学校?、いつも全国大会に出る学校?
そんなことは全く関係ない。
全国大会で出れなかった学校でも、人数が規定数に達せず、少ない人数であっても、物凄く素晴らしい演奏を聴いたことがある。

「いい演奏」とは、コンクールとは完全に隔絶した演奏なのだ。
いい演奏とは、「純粋な気持」そのものである。
その「純粋な強い気持ち」が、聴き手の眠っている感情を、聴き手の意思での抑制という壁を突き破り、引き出させる。
頭とか意思というものを超えた次元の領域での交流といっていい。

人は生の真実の感情に触れてはじめて対峙する人と共振する。
野心、意図的なものは必ず見破られる。人は意識していなくても無意識では本物でないと感じている。
時に、技巧的にはさほどではない演奏が、一度聴いて耳から離れなくなり、何度も聴いてしまう演奏がある。
そしてその演奏を聴かなくなって何十年経っても、その演奏を細かいところまで憶えているものがある。
ギターで言えば、ヘスス・ベニーテスの弾くアグスティン・バリオスの「大聖堂」、「前奏曲ハ短調」である(1980年代前半にエス・ツウからレコードが出された)。
技巧的には劣っていても、強烈なインパクトを感じさせる。音に信じられないほどの感情エネルギーが宿っており、聴いているうちにガーっと強い気持ちが湧き起ってくる。こんな音を出せる演奏家が今、何人いるだろうか。
作家の福永武彦が「旅への誘い」という短編小説で次のようなことを書いている。
バリトンのパンゼラが歌う「旅への誘い」の演奏をこよなく愛し、戦災でレコードを失った後でも「いつでも(中略)、詩句と音楽とそしてパンゼラの沁み通るような声とを思い起こすことが出来た」。
「記憶はより豊かに僕の中にある。そして詩句と音楽の入り混じった眩暈が僕の裡に藤沢のアパートに住んでいた頃の僕の日常をまざまざと思い起こさせた。僕はその頃自分を支配していた気分何であるかを暁りえなかった。」

音楽とその演奏は、その音楽と演奏が本物の純粋な気持ちであるが故に、聴き手に強烈な印象を刻み込む。
一時の賞による自己満足、学校の名誉などと言ったものに支配された演奏は、どんなに上手くても、ダイナミックでも、声が美しくても、それだけのものしか聴き手に与えない。

人によって音楽に対する価値観が異なるのは当然である。
音楽に対し、演奏者に対し、どんな評価を下そうが自由であり、誰も否定できない。
しかし私はあえて言いたいのは、音楽が、演奏が、聴き手に決定的な、強烈な心の変化をもたらすものが、本物ではないかということである。
人の、強い、意識を超えた本当の感情は、放射された対象の心に少なからず変化をもたらす。

今回選出した演奏は最も新しいもので平成21年であるが、それ以降の曲、とくに課題曲に聴くべきものが無い。
自分としてはもっと力のある、高校生たちの気持ちを強く引き出す曲が欲しい。

賞の結果とか、ネームヴァリューに関係なく、自分の心を白紙にして演奏を聴けば、聴き手の感受性の度合いにもよるが、物凄い演奏があることに気付くし、そのようなプロセスで出会った演奏は一生、自分を支え続けるに違いない。
私は、これらの演奏に出会って、とても大きな力をもらったことを最後に強調しておきたい。


「人は一度も会っていなくても 音楽を通して交流できる。
人は孤独で、誰とも心が触れていなくても、音楽を通して人間の生の気持ちを感じることができる。
演奏者たちの無心の、純粋な気持ちは偉大だ。
それは人の凍った心を溶かすほどの力を持っている」

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ホルヘ・ボレット演奏 ベートーヴェン ピアノソナタ第31番を聴く

2017-07-09 21:17:56 | ピアノ
ホルヘ・ボレット(Jorge Bolet、1914-1990、キューバ出身、のちにアメリカで活動)の演奏で、めずらしい、ベートーヴェンのピアノソナタ第31番のライブ録音を見つけた。
ボレットはリストとショパンを得意としており、録音もこれらの作曲家のものが多いが、ベートーヴェンは殆ど見たことがなかった。
このライブ録音は1964年のアメリカでのタングルウッド音楽祭の演奏と思われる。
ボレット50歳の時の演奏。
ボレットはこの頃は無名に近く、1974年の還暦になってカーネーギー・ホールでの演奏でようやく名声を得るに至った不遇のピアニストであった。
このカーネーギー・ホールでのライブ録音を聴くと、聴衆の異常なほどの熱狂ぶりを感じることができるが、それはむしろボレットの超絶技巧に対するものと思う。
しかしボレットは技巧派というより、私はとても繊細な感性の持ち主という印象を持つ。
そして演奏解釈も正統的である。
しかしこのような要素であればあまり記憶に残らない。ボレットの演奏に惹かれるのは、やはり静かでありながら熱い情熱を感じさせてくれるところ。
そして決して派手ではないが音の使い方が絶妙なところにある。

今日見つけたベートーヴェンのピアノソナタ第31番の解釈も正統的でオーソドックスなものであるが、この曲の演奏としてはトップレベルの一つに数えられると思う。
この曲は、ピアノ曲の中でも最も好きな曲の一つで、今まで数えきれないくらい様々な多くのピアニストの演奏を聴いてきたが、ボレットの演奏はその上位に位置するものである。
残念なのはライブ録音なので、破綻がいくつかあることと、音が非常に悪いことだ。
ボレットがベートーヴェンのピアノソナタをスタジオ録音してくれなかったことは実に惜しい。
50歳という演奏家としては最も充実した時期に録音の機会が少なかったことは、とても残念なことである。

このピアノソナタ第31番で、演奏が超一流かどうかが見分けられるフレーズとして、例えば次のような箇所が挙げられる。

第一楽章の難しいトリルとその後の和音、



第三楽章フーガの最後の盛り上がり。



この最後の盛り上がりは、どん底からの強い精神的回復を意味するものであり、感情的、精神エネルギーの高まりを最後まで上昇させなければならないが、最後の最後になって速度や音量を落としてしまう奏者が多い。
譜面には速度や音量を落とす指示は一切なく、このような演奏は石橋を叩いて演奏するようなものであり、それまでの演奏がどんなに素晴らしくても興覚めする。
ボレットの演奏の最後がどうなるか、初めて聴いたときにははらはらしたが、期待を裏切るものではなかった。

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フォーレ作曲 夜想曲第13番を聴く

2017-07-02 00:20:32 | ピアノ
2週間ほど前から、あるきっかけによりフォーレの夜想曲第13番の聴き比べをしていた。
フォーレについては今までも書いてきたが、ベートーヴェンやショパンらとともに最も優れたピアノ曲を残した作曲家だと思う。
フォーレのピアノ作品で有名なのは夜想曲と舟歌であるが、ともに13曲からからなり、フォーレが30歳くらいの頃から死の2年前まで作曲された。
夜想曲第13番はフォーレの最後のピアノ作品である。

13の夜想曲の中でもとりわけ好きなのが第1番、第6番、第7番、第13番だ。
第6番、第7番、第13番は、数多くのピアノ曲の中でも最高の部類に属すると思う。
曲の完成度からしても、芸術性の高さという意味でもピアノ曲の傑作だと思っている。
しかしフォーレのピアノ曲を手掛けるピアニストは限られている。
多くはフランスのピアニストだ。
ピアノの巨匠クラスでは、例えばホロヴィッツが第13番、ケンプが第6番、フランソワが第2番、第4番と第6番、ギーゼキングが第1番、第4番を取り上げたくらいである。
ギーゼキングはベートーヴェンのピアノソナタが乱雑な演奏でがっかりしたことがあった、このフォーレの夜想曲の演奏も乱雑で素っ気なく聴くに堪えない。

20年近く前に初めてフォーレの夜想曲を聴いた時、第1番はすぐに好きになったが、第6番、第7番、第13番はなかなかその素晴らしさに気付けなかった。
しかし第6番、第7番、第13番は、ジャン・ドワイアンの演奏に出会ってその曲の真価に物凄く感動した。
とくに第6番、第7番のドワイアンの演奏の演奏はこれ以上ないというくらいのレベルで、私のお気に入りの録音となっている。

夜想曲は7番から徐々に暗い影を落とすようになる。
第8番はもともと8曲からなる「小品集 作品84」の中の1曲だったのを、後になって夜想曲に入れたものであり、第7番と第9番との間の連続性がない。
そのため第8番は本来の夜想曲とは別にみるべきだ。
夜想曲第9番から第12番を演奏会や録音で好んで取り上げるピアニストは皆無に近い。
聴けば分かるが、聴き手が美しい甘美な物を期待しているならば必ず裏切られる曲である。

第13番はAndante2分の3拍子(2分音符=63)で始まる。



63という指定は意外に速い速度であるが、多くの奏者はこの部分を速くは弾いていない。
(ジャン・ヴェールはこの指定を守っているように思う)
静かな、対位法で書かれたこの出だしは後にも繰り返されるが、陰鬱で暗く、人生に絶望した人間が感じるような重々しく、エネルギーを失い、悲観的な感情を感じさせる。
一瞬、次のような和声の変化が見られるが、すぐにもとの感情に引き戻され、静かな感情は次第に大きく高まり、曲は次の段階に移る。





各拍子の頭に休符を置いた特徴のある低音部の伴奏に、強い感情を伴う旋律が現れる。



全体的に苦しみを伴う感情であるが、エネルギーがあり、ときに喜びや活力を感じさせる部分も垣間見せる。
しかし間もなく再び冒頭の陰鬱な重々しい、絶望的なエネルギーを失ったあのフレーズが再現される。
そして冒頭にも増して、次のような不気味な、死の入り口に引き寄せられるような半音階的伴奏が繰り返される。



そして何か感情的な大きな変化を予兆させるような強い和音の連続のあと、曲は嬰ト短調Allegro2分の2拍子(2分音符=80)に移る。





曲想は強く、エネルギッシュであるが、重々しく、何かにせかされているような不安定さを感じる。
常に下記に示されるような不安を底に抱えながら、人生を邁進してきた過去を回想するように感じる。



強いエネルギーに満ちているが幸福ではない。
何かの挫折体験から野心的な、尋常ではない向上心で精神の平安とは無縁な努力の日々を積み重ね、人生の一時、一見外からは幸福の極みにも見える高みに到達する。



しかし、またあの沈鬱な暗い冒頭のフレーズが現れる。ここがこの曲のキーとなる。
恐らく死を目前にして、自分の人生を回想し、そのはかなさ、無意味さを悟り、もうすでに幸福になれる道が閉ざされていること、いわゆる絶望感に直面しているのではないか。
次の部分の感情はすさまじい。



どうにもならない、血を吐くような苦しみを絞り出しているように聴こえる。
しかしその苦しい叫びは次第に弱まり、自己を憐れむように消えていく。
次の一瞬、持てる力を振り絞り、再び立ち上がろうとするが、すでに力は尽き、精神的死へと向かって消え入るように曲は閉じる。

この曲は、色々な解釈があるだろうが、肉体的にしても精神的にしても、人生に対する絶望を感じ、そのことを主題にしていることには間違いない。
晩年のフォーレ自身が作曲時にこのような心境にあったがどうかは分かるわけがないが、多くの解釈は、老年の衰弱と悲観、過去への飛躍と高揚、生命の回復への激しい情熱、といったものが見受けられる。後年フォーレを悩ませた聴覚異常との関連性を指摘する人もいる。
しかしフォーレの息子の著作「フォーレ・その人と芸術」において、彼は「父は、実際自分の病気にも、死の接近にも、なんら幻想を抱いていなかった。しかしこのことは音楽とはなんら関係はない。」、この作曲の時期、フォーレは「すべてのこうしたもの(妻に宛てた手紙の内容)は苦しみと後悔に満ち満ちた痛ましい作品の完成とはほとんど相応じるものがない。」と言っている。
実際フォーレは表向き、このような死を目前に悲観した日々を送っていたわけではないであろう。
70半ばまでパリ国立音楽院の院長職を務め、数々の名作を生みだし、多くの作曲家や演奏家と交流を持ち、家族たちにも恵まれていたのだから。
しかしそれでも、夜想曲の第9番から第13番までの暗く、時に狂気すら感じる音楽を聴くと、フォーレの内面に、表に表出していたものとは全く別の世界、すなわち不幸、絶望感、人生の無意味さ、荒涼とした寂寥感が無かったとは感じられないのである。
人は、実際に感じている感情以上のものを「想像」で音楽や芸術を手段に表現することは出来ないのではないか。
フォーレのこの夜想曲第13番で感じ取れる感情の強さは、想像や借り物で決して創作できるようなものではなく、作曲者自身のリアルな生の感情的体験から生み出されたものであることを否定することは出来ないのである。

さてこの夜想曲第13番はこれまでずいぶん多くの録音を聴いてきた。

エリック・ハイドシェック スタジオ録音 1962年 CD
ジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタン スタジオ録音 1956年 CD
ジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタン スタジオ録音 録音年不明(2度目の全集録音) CD
ジャン・ドワイアン スタジオ録音 1970~1972年 CD
ジャン・フィリップ・コラール スタジオ録音 1973年 CD
ジャン・ユボー スタジオ録音 1988~1989年 CD
エヴァ・ポブウォツカ スタジオ録音 2000年 CD
エミール・ナウモフ スタジオ録音 1999年 CD
ジャン=ポール・セヴィリャ スタジオ録音 1998年 CD
キャサリン・ストット  スタジオ録音 1994年 CD
イヴォンヌ・ルフェビュール  スタジオ録音 1980年 CD
クン=ウー・パイク スタジオ録音 2001年 CD
ヴラド・ペルルミュテール  スタジオ録音 1982年 CD
デヴィッド・ライヴリー スタジオ録音 1990年 CD
藤井一興 スタジオ録音 2000年 CD
ジャン=ミシェル・ダマーズ  スタジオ録音 録音年不明 CD
ウラディミール・ホロヴィッツ ライブ録音 1978年 LP
エヴリーヌ・クロシェ スタジオ録音 録音年不明 LP
ジャン・ヴェール スタジオ録音 録音年不明 CD
アンジェラ・ヒューイット スタジオ録音 2012年 CD
ドミニク・メルレ スタジオ録音 録音年不明 Youtube
キャスリーン・ロング スタジオ録音 1952年 Youtube
リー・ルヴィジ ライブ録音 録音年不明 Youtube
イゴール・コマロフ スタジオ録音 録音年不明 Youtube
ジャン・マルク・ルイサダ  スタジオ録音 1997年 CD

この中で最も聴き応えがあったのは次の3点だ。

ジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタン スタジオ録音 1956年 CD
ジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタン スタジオ録音 録音年不明(2度目の全集録音) CD
ジャン・ドワイアン スタジオ録音 1970~1972年 CD

ジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタン(1902~1987)は、オランダ出身のフランスのピアニストで、1914年に当時フォーレ自身が院長を務めていたパリ音楽院に入学し、あとにマルグリット・ロンに指導を受けたフォーレ直系のピアニストである。
しかし22歳で結婚し、5人の子供を授かり育児に専念するために20年以上も演奏活動を中断したが、1951年に再開、フォーレのピアノ独奏曲や室内楽を中心に数多くの録音を残した。
フォーレの夜想曲全集は2度にもわたり録音した。よほど思い入れがあったのであろう。
1956年の録音(testament)と恐らく1970年代と思われるシャルランの録音は今でもCDに復刻され聴くことができるが、録音状態は悪い。





とくに1956年の録音はベールに包まれたような不明瞭な音で、この録音状態の悪さが彼女の評価を実力以下にしているものと思われる。そしてフォーレ以外の作曲家の録音が殆ど無いことが追い打ちしている。
ヴァランタンの夜想曲第13番の演奏は、他の奏者には見られないタッチの強靭さ、感情的表現の強さが特徴だ。
このような超絶技巧を要する難曲に対し、タッチを軽くして凌いでいる奏者が多いが、そのような演奏とは全く対極に位置する奏者だ。
とくに中間部の転調したAllegroからの低音部の打ち付けるような和音の強さ、そして終結部近くの出口の無い絶望的苦しみを絶叫するような和音は他の奏者では決して出せないものを持っている。
技巧も素晴らしく20年ものブランクがあったとは思えない。
ただし後に出されたシャルランの録音は若干技巧と音の強さの衰えを感じる。
彼女の写真を見ると、上腕が丸太のように太い。この腕によりあの強いタッチが生み出されていると思われる。

次に心に残った演奏はジャン・ドワイアンであるが、ドワイアンも殆どの録音がフォーレであることから一般にはあまり知られていない。



しかし総合的にはフォーレのピアノ演奏では最も優れた録音を残した。
ドワイアンによる夜想曲第13番の演奏は、オーソドックスで誇張した表現は無い。
しかし打鍵は強く、感情的エネルギーは強い。技巧も正確で無理な誇張をしていない。
ドワイアンの演奏で気になるのは、終結部のフォルテへのクレッシェンドの指定を守らず、逆にデクレッシェンドしているところである。



ここを何故あえてデクレッシェンドしたのかずっと疑問に思ってきた。
恐らく、この部分の展開においては既に立ち上がるエネルギーは無く枯渇し、死に向かうのみだと解釈したのかもしれない。
私はヴァランタンの解釈が正しいと思う。

この夜想曲第13番は若い年齢で録音できるものではない。
人生体験を積み重ね、フォーレの晩年の心境を理解できるようになるまでは、技巧のみが際立って表出されるのみの演奏で終わるであろう。
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