緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

アンドレ・ジョリヴェのフルート曲を聴く

2013-10-27 00:26:00 | フルート
こんにちは。
先日のブログで宍戸睦朗(ししどむつお)の合唱曲を紹介しましたが、宍戸氏が若い頃に留学してフランスのアンドレ・ジョリヴェ(1905~1974)から指導を受けたことなどを話しました。
宍戸氏が学んだというアンドレ・ジョリヴェの音楽がどのようなものか興味を抱き、聴いてみることにした。
ジョリヴェの音楽はyoutubeでも投稿されているが、やはり自分としてはCDでちゃんと聴くことにした。購入したのは下の写真のCD(ジョリヴェの代表作を収めたもの)と有名な「赤道コンチェルト」が収録されたCDです。赤道コンチェルトの感想は別の機会に譲り、今回はジョリヴェのフルート曲の感想を述べたい。



CDで聴いたのは以下の曲です。
1. フルートと弦楽のための協奏曲第1番
  演奏者:ジャン・ピエール・ランパル(フルート)、アンドレ・ジョリヴェ(指揮)
      コンセール・ラムルー管弦楽団(オーケストラ)
2.フルートと打楽器のための協奏的組曲
  演奏者:ジャン・ピエール・ランパル(フルート)、ジャン・クロード・カサドシュな  
      ど(打楽器)
3.フルートのための5つの呪文
A.To Welcome the negotiators ― and for a peaceful interview
  (交渉相手を迎えるために、そして会見が和解に達するように)
B.For the unborn child to be a boy
  (生まれる子が男であるように)
C.For a fruitful harvest from the ploughman’s furrows
  (農夫の耕す田畑の収穫が豊かであるように)
D.For tranquil communion with the world
  (生命と天地との穏やかな合致のために)
E.At the chief’s funeral ― to win the protection of his soul
  (首長の死へ―その魂の庇護を得るために)
演奏者:ジャン・ピエール・ランパル(フルート)
4.アルト・フルートのための呪文 「イメージが象徴となるため」
演奏者:ジャン・ピエール・ランパル(フルート)

基本的に作風は無調の現代音楽ですが、同時代のメシアンほどの難解さは感じません。理論的な難解さよりもジョリヴェ自身の持つ感性や感覚的なものに従って作られた音楽だと感じます。「フルートと弦楽のための協奏曲第1番」は聴きやすい曲です。
「フルートと打楽器のための協奏的組曲」を聴いて思い出したのは、毛利蔵人氏が作曲した、アルト・フルートとパーカッションのための「冬のために」という曲です。毛利蔵人の力作ですね。小泉浩氏の名演の録音があります。
聴き応えのあったのは「フルートのための5つの呪文」と「アルト・フルートのための呪文」。
フルートというとマドンナの宝石のように美しい曲を連想させますが、このジョリヴェのフルート曲は暗く、少し不気味で怖い雰囲気が漂います。真夜中の静かな時にこれを聴くと怖くなる人もいるかもしれません。
私は現代音楽ではこういう曲が好きです。何百年という歴史を刻んできた調性音楽とは全く次元の異なる(優れている劣っている、良い悪いとかではなく)感性、領域の音楽です。
調性に従った曲のみが音楽だとは思いません。音の組み合わせによる創造は無限です。人が何かを意図して複数の音を組み合わせて創造されたもの全てが音楽になるとは思いませんが(例えば騒音のようなもの)、十分に熟考された技法や理論を用い、人間の感情や感性(それは不気味さや不快感を感じるものであっても)にしたがって創造されたものは全て音楽であり、芸術だと思っています。調性音楽だけが音楽だという見方は狭いと思う。
ジョリヴェのこのフルート・ソロの曲は難しいし、題目との関連性を音楽表現に見出すことは至難なことです。しかしこれは難解な哲学書を読むがごとく取り組みがいがあります。
どんな難解な現代音楽でも創造した人の心理的動機が必ずあると思います。この作者の心理的動機をつかむこともやりがいのあることだと思います。
私はこの2年間ほど、ある忘れ去られた邦人作曲家のギター曲に惹かれて、自己流ですが何度も弾いているうちに作曲者の気持ちがだんだんわかるようになってきました。ものすごく暗く荒涼とした曲ですが、人間が触れたくない闇の感情を描きだしたことに驚かざるを得ません。
このジョリヴェのフルート曲のような無調音楽が作曲されなくなったのは1980年代に入ってからだと思いますが、では調性音楽で聴き応えのある音楽が多数生まれているかと言えばそうは思えません。演奏家も1940年代くらいから1970年代までは巨匠と呼ばれる人がたくさんいたが、1980年代以降は巨匠クラスの演奏家は殆どいないのではないか。
現代音楽が何故作られなくなったのか。それは第二次大戦が終わり世の中が平和になり、激動の時代から安定の時代、豊かな時代に変わったことと無関係ではないと思います。
平和で変化の少ない豊かな生活の中で好まれる音楽は、軽く聴きやすい曲だと思います。
文学界でも難解な書物は敬遠され、村上春樹のような作風の書物が好まれる。
音楽でも文学でも難しいものに取り組もうとする時代ではなくなったと感じます。
現代音楽が衰退した今の音楽界に、現代音楽が多数作曲された時代のような熱気は感じられません。
今の時代に、これがまさに現代音楽だという曲を書いたら時代遅れだと言われるのかもしれません。だから今は現代音楽とも調性音楽ともいえないような中途半端な曲もある。
しかし自分としてはこのジョリヴェのフルート曲のような理解するのに長期間かかるような曲をもっと聴きたい。
筋金入りの現代音楽作曲家や演奏家がもっといたっていいのではないか。
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多湿期のギターの取り扱いについて

2013-10-26 20:59:54 | ギター
こんにちは。
台風がようやく去っていきました。しかし外は寒く、冬が一段と近づいているように感じました。
この数日雨降りが続きましたが、室内の湿度が80%まで達しました。
高い湿度はギターなどの木製楽器に良くありません。これは木が水分を吸収して膨張したり、柔らかくなったりするので、ギターの場合、表面板や裏板がアーチ状に膨らんだり、ネック(棹)が反ってしまったりするトラブルが起きやすいからです。
だから楽器にとっては常に湿度50%を維持することが理想なのですが、日本の場合、エアコンを使わない梅雨期と秋の多雨期にどうしても室内の湿度が上がってしまうので、この時期は特に注意しなければなりません。
当面簡単に出来る対策としてはギターを弾かない時に弦を緩めておくことです。
湿度が高いと先に述べたように木材が水分を吸って膨張し、柔らかくなるので、この状態で弦の張力が強くかかると木材の反りを加速させます。
よくスペインの製作家の中には、弦を緩めると表面板にストレスがかかるので緩めてはいけない、という方がいます。弦を交換する時も1本ずつ調弦しながら交換しなさいと言います。弦を常に調弦した状態にしておけるのは、スペインのように雨が殆ど降らず年中乾燥している地域だから可能なのであって、日本のように湿度や温度の差が激しい地域にはあてはまりません。
製作家は自分の楽器や環境を基準にものを言う傾向があります。湿度が常に適正な環境で、表面板の板厚も標準以上の楽器で、毎日弾くのであれば弦を緩める必要はないかもしれません。
しかし1週間に1回あるいはそれ以上に頻度の少ない使い方で、弦を緩めないでおくことはリスクがあることは否定できません。
私は以前、スペインの製作家の製作する楽器のネックを梅雨期に順反りさせてしまったことがあります。購入して数年間、ネックは真っ直ぐで反りはありませんでしたが、たまたま梅雨期の湿度の高い時に張力の強いサバレス・アリアンスという弦を張り、練習が終わった後で弦をあまり緩めないでケースにしまっておいたのですが、1週間後にケースから取り出してみるとネックが見事に順反りしていました。
これはギターが高級であろうがなかろうが関係ありません。数百万円する楽器でもネックが反って弦高が高くなって弾きづらい楽器はあります。
ギターはネックを順反りさせてしまうと大変弾きづらくなります。0.1mmでも弦高が上がるだけでも弾きづらく感じるものです。
また最近のギターの傾向として表面板の板厚が薄いものが増えてきていますが、湿度が高い時に長時間弦の張力がかかると表面板が持ち上がってしまう危険性があるので注意が必要です。ある女性ギタリストが使用しており本人が自ら推奨しているギターのブリッジ(下駒)付近の表面板の厚みが0.9mmと聞いて驚いたことがあります。このような構造のギターで高音多湿で弦を緩めないで保管していたとしたら、表面板が容易に持ち上がってしまう危険性があることは容易に想像できるのではないでしょうか。
乾燥や多湿による木材の動きは弦を緩めることで表面板にかかるストレスよりもはるかに上回ります。
私は今から30年くらいまえに初めて買った手工ギターの表面板と指板の両方を割ってしまったことがあります。それは当時冬の乾燥の厳しい北海道に住んでいた時で、購入して数ヶ月経った春先(4月初め頃)に、指板と表面板の接着部の両脇を割ってしまいました。
また購入して4年くらい経過した頃、3月頃に指板をサウンドホール側から12フレット近くまでの長さで割ってしまいました。この時はたまたまギターに近くにいたので割れた瞬間「パン!」という大きな音がしたので驚きました。
弦を緩めるか否かについては確たる定説はなく、製作家も含めて色々な見解があります。
しかし最も大事なことは自分の使用するギターの特性を、自ら良く知っておくことだと思います。私はギターを何本か持っていますが、値段に関係なく、購入した時からネックが全然変動しないもの、購入した時は真っ直ぐだったのが後で反ってしまったもの、多湿期にネックが反るが乾燥期には元に戻るものなど様々です。
自分の楽器が湿度に影響しやすいことが分かったならば、出きるだけ湿度を常に最適に保つ必要があります。それが困難であれば弦は緩めておいた方が無難です。
弦を多少緩めたぐらいで表面板にダメージを受けることなんてありません。1日に何十回も繰り返せば少しは影響が出るかもしれませんがそんなことをする人はいないでしょう。
弦を緩めることによるストレスよりも湿度の大きな変化で木が伸縮することの方がもっと楽器にとって悪い影響を及ぼします。割れたり、大きく反らせてしまったら、木材は2度と元に戻りません。
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ファリャのギター曲とドビュッシーのピアノ曲

2013-10-25 22:24:04 | ギター
こんにちは。
今日は会社の健康診断(人間ドック)で午後は今年度初の休暇をとらせてもらいました。
胃カメラを飲むのも4回目。初めて飲んだ時は死ぬかと思うほど苦しかったが、回を重ねるごとに何でもなくなってきた。
昨年以外は全て口から入れるタイプ(直径1cmくらいの硬いチューブ)でしたが、昨年だけは鼻から入れるタイプを試してみました。
鼻から入れるタイプはチューブが細いので楽だと一般的に言われていますが、私の場合、その細いチューブがなかなか鼻の中を通っていかなかったんですね。鼻の途中で止まって入っていかないのに無理やり力を入れられてねじこまれたので、しばらく鼻が痛かった。
またこの鼻から入れるタイプは喉の麻酔が弱いのでチューブが喉のところに来たとたんに、ものすごい咳き込んでしまって初めてカメラを飲んだ時のように苦しかったですね。これには懲りた。
なので今回は口からのにしてもらった。慣れれば口からの方が楽です。
私は最近テレビのCMでも聞くようになった逆流性食道炎を患っており、毎年胃カメラでチェックしているのですが、この炎症にはブロッコリーとキャベツがいいようですね。
最近本で読んで知ったのですが、試しに毎日食べ始めてから2週間、結構調子はいいです。
胃や食道が炎症を起こしていると仕事にもギターにも何でもエネルギーが出てこなくなり、やっかいです。でもこの食事療法を続けるとかなり違うようだ。
前置きが長くなってしまいましたが、数日前にマリヤ・グリンベルクの弾くドビュッシー作曲の「版画」、第2曲目の「グラナダの夕べ」というピアノ曲を聴いていたら、どこかで聴いたようなフレーズに出くわしました。
10秒くらい経ってやっと思い出しましたが、スペインのマヌエル・デ・ファリャが作曲した唯一のギター曲である「ドビュッシーの墓に捧げる賛歌」の終わり近くに現れるフレーズだったのですね。





ドビュッシーが亡くなった時、ある音楽雑誌が彼への追悼文を当時フランスで活躍していた作曲家に投稿するよう依頼したが、ファリャは追悼文ではなく短いギター独奏曲を送ったとのことだ。この曲が先の「ドビュッシーの墓に捧げる賛歌」です。
ファリャは30代の頃にフランスへ留学し、ドビュッシーなど当時フランスで活躍していた作曲家へ直接訪ねていき、自作の曲を彼らに聴いてもらい、助言を受けたり親交を結んだようです。たいしたものですね。
ドビュッシーがファリャのスペイン音楽の影響を受けたかどうかはわからないが、この「グラナダの夕べ」という曲はファリャ自身に言わせれば「1小節たりともスペイン民謡からは借用されていないにもかかわらず、作品全体が、ほとんどの細部において、スペインを見事に描き切っている(Wikipediaより抜粋)」とのこと。
ドビュッシーは実際にグラナダには行かなかったようだが、スペインの有名なアルハンブラ宮殿の美しい夕日に染まる光景、かつてアラビアのイスラム教徒の支配を受け、その名残を残す風景や音楽に思いを馳せたに違いないと思います。
だからファリャはドビュッシーがスペインを題材に作曲したこの曲のワンフレーズを追悼曲に採用したのだと思います。
この「ドビュッシーの墓に捧げる賛歌」は当時のギタリスト、ミゲル・リョベートに献呈され彼の運指が付けられて出版されたが、彼得意のハーモニックスが多用された手を加えられたものになっています。
ジュリアン・ブリームが弾くように、この曲はハーモニックスを使わないで原音で弾いた方がより挽歌として雰囲気が出るのではないか。
なおこの曲はファリャ自身により管弦楽やピアノ独奏曲にも編曲されているようです。研究熱心な方はこちらの方も聴いてみると参考になるかもしれない。
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宍戸睦郎作曲 合唱組曲「奥鬼怒伝承」を聴く

2013-10-20 18:59:15 | 合唱
こんにちは。
今日は1日中どしゃぶりの雨で寒い1日です。この秋初めて暖房を入れました。
外は雨降りなので今日は家の中でゆっくりと音楽鑑賞でくつろぐことにしました。
今日たまたま宍戸睦郎のCDが目に付き聴いてみました。
宍戸睦郎氏(1929~2007)は北海道出身で、フランスのパリ国立音楽院に留学し、作曲家のアンドレ・ジョリヴェに個人指導を受けたといわれる作曲家です。代表作に「交響曲」や「ピアノ協奏曲第Ⅰ番、第Ⅱ番」、器楽曲に「ピアノのためのトッカータ」や「ギターのためのプレリュードとトッカータ」があります。
宍戸氏自身の言によれば、ベートーヴェンの音楽を敬愛し、最も強く影響を受けているとのことだ。
私が宍戸睦郎の曲を初めて聴いたのは、確か1990年ごろだったと思いますが、ギタリストの中峰秀雄氏が出したアルバム「祈り」の中で収録されていた先の「ギターのためのプレリュードとトッカータ」に出会った時です。





その後10年くらいたってこの「ギターのためのプレリュードとトッカータ」が東京国際ギターコンクールの本選課題曲に採用されたのですが、会場で聴いてその独特な日本的情緒溢れるこの曲を改めて聴いて大いに感動し、すぐに楽譜を買って弾きました。
この曲は5年くらい前にも東京国際ギターコンクールの本選課題曲の選ばれていましたね。審査委員長の野田暉行氏が講評で、この曲のことをギターの名曲だと高く評価していたのが思い出されます。
この曲はピアニストの宮沢明子(めいこ)氏が宍戸睦郎に依頼して書かれた「ピアノのためのトッカータ」という曲をギタリストの小原聖子氏が聴いて、ギターでもこのような曲を作って欲しいと頼んだことが作曲のきっかけだと言われています。
この「ピアノのためのトッカータ」が入ったCDが確かあったはずなのですが、どこかへしまいこんでしまい出てきません。整理整頓が出来ないので聴きたいときに望むCDが出てこず、長時間探すはめになってしまいには聴く気持ちが失せてしまうことが多々あります。これに懲りて整理整頓を心がければいいのですが、しないので困ったものです。
宍戸睦郎氏の録音は驚くほど少なく、今手に入るのはフォンテックから出ている「宍戸睦郎 作品集」くらいだと思います。



今日このCDに収録されている、合唱組曲「奥鬼怒伝承」(作詞:高内壮介、1985年作曲)を聴いてみました。
演奏は森明彦指揮、Akademie Chor Japan。
CDの解説書を読むと宍戸氏は、「私は以前より、日本的情感の中で、哀しさ、静寂、又、赤裸々な迫力を、合唱曲で、まとめてみたい意図をもっていた」と言っているように、この組曲は古来から脈々と伝承されていた日本独自の素材を用いた独特でまたなかなか聴き応えのある曲です。
このCDを買ったのが今から10年くらい前で、この時この曲は全くと言うほど関心を持てなかったが、今改めて聴いてみると現在殆ど聴く事が出来なくなってしまった、かつて日本人のみが持っていたであろう独自の情感を感じることができる。
5曲からなる組曲であるが、感動したのは「Ⅰ 姫ヶ淵悲歌」と「Ⅲ 奥鬼怒子守唄」。
「Ⅰ 姫ヶ淵悲歌」は、平家落人の姫が姫ヶ淵に身を投げた物語を元にしており、とても悲しい曲です。歌もいいが伴奏のピアノにも惹かれる。途中ソプラノの独唱が挿入されます。短い歌詞の繰り返しですが、悲しくも美しい旋律と独唱のあとの盛りあがりにはきっと心に刻まれるものがあるに違いありません。
「Ⅲ 奥鬼怒子守唄」も悲しい歌ですね。何故日本の子守唄はこんなに悲しいのでしょうか。五木の子守唄、中国地方の子守唄、島原地方の子守唄など、日本の代表的な子守歌の多くは日本陰旋法で作られた悲しい旋律を持ちます。
このような子守唄が作られたのがいつ頃かわかりませんが(島原地方の子守唄は比較的新しいようだ)、江戸時代の頃なのであろうか。鎖国時代の厳しい身分制度のもとでの抑圧された生活、誰もが長生きできなかった時代、貧しい農民のくらし、質素だけど感性のあるくらし、美しい日本の自然、このような生活の中から生まれたのであろうか。
この子守唄のような日本陰旋法の曲は、今至るところで氾濫する西洋音楽のうねりの中で、聴くことはまれである。しかし宍戸氏が活動した1960~1970年代には、日本の音楽界でまだ日本独自の情感を表現しようとする動きがあったと思う。
宍戸睦郎氏は日本的情感を大切にし、表現しようと務めた最後の世代の作曲家だと思います。
このような日本独自の音楽は今の日本において、どんなに西洋音楽に凌駕されても、われわれの心から決して消滅するものではないと思っています。
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ベートーヴェン ピアノソナタの名盤(4) 第27番

2013-10-19 23:39:06 | ピアノ
こんにちは。
だいぶ寒くなってきました。台風が近づいてきているようです。
ベートーヴェンのピアノソナタの名盤の紹介も4回目となります。
器楽にとって最も重要な要素は音だと思います。
とくに次の2点は器楽演奏をする際に最も根本的なことだと思いますし、器楽演奏を鑑賞する際にも最も注意を払うことだと思います。
1.演奏する楽器からその楽器の持つ特有の魅力ある音を最大限に引き出すことができるか(できているか)。
2.音に感情エネルギーを伝達できるか(できているか)。
今日紹介するピアノソナタ第27番は作曲者の心情をかなり直截的に表現した曲だと思います。
第一楽章「速く、そして終始感情と表情を伴って」はベートーヴェンが悲観に暮れている時の感情が感じ取れます。自分を奮い立たせようとするのだが、すぐに気落ちしてブレーキがかかってしまう。





ある箇所では生きるエネルギーのともし火がいまにも消えてしまいそうな感じが伝わってきます。



ただし自殺したいというところまではいっていないと思いますね。もしそうだとすると音楽は書けないだろうし、書いたとしてももっと暗く荒涼な表現になると思う。
耳が聞こえなくなって悲観に暮れたのかわからないが、いずれにしても自分の気持ちを正直に直截的に出しており、この感情の表出がベートーヴェンにとって必要であったのだと思います。
幸福感、楽しい、嬉しいなどのプラスの感情は比較的短い間しか続かないが、人生に対する悲観、悲しみ、孤独感などのマイナス感情はなかなか消えていきません。もうこのような感情は味わいつくすまで味わはないと消化していきません。
ベートーヴェンはこの第一楽章を書き、心の中で演奏することで自らの感情を消化していったに違いありません。
だから第2楽章は穏やかで明るい曲想に変化したのだと思います。つまり人生に対する悲観を味わいつくし、もうこれ以上悲観に暮れてもしょうがないという心境を経て得た感情なのだと思う。
そのような意味ではこのソナタは第1楽章と第2楽章は常に分離することができない、1つの曲なのだと思います。どちらかの楽章を単独で弾いても聴いてもこの曲の意味するところはわからない。単独の楽章だけだとこのソナタの価値は決して十分には伝わらないと思う。
第2楽章が美しくて聴きやすい曲だから、この楽章だけ気に入って演奏するのではだめですね。第1楽章と第2楽章との間隔も短い方が良い。
この曲は一時の絶望や悲観を乗り越えて、穏やかな幸福感を感じるに至る心情の変化を見事に表現した曲だと私は思っています。ただこの心情の変化は死の淵から這い上がって幸福感をつかみとるに至るというような大げさなものではないと思います。
さてこの第27番の演奏ですが、今まで聴いた録音は次のとおりです。

①アルトゥール・シュナーベル(1932年、スタジオ録音)
②フリードリヒ・グルダ(1968年、スタジオ録音)
③ヴィルヘルム・バックハウス(1969年、スタジオ録音)
④ディーター・ツェヒリン(1969年、スタジオ録音)
⑤マリヤ・グリンベルグ(1966年、スタジオ録音)
⑥ヴィルヘルム・ケンプ(1951~56年、スタジオ録音)
⑦ヴィルヘルム・ケンプ(1965年、スタジオ録音)
⑧マリヤ・ユージナ(1958年、ライブ録音?)
⑨クラウディオ・アラウ(1967年、スタジオ録音)
⑩エリック・ハイドシェク(1967~1973年、スタジオ録音)
⑪エミール・ギレリス(1980年、ライブ録音)
⑫イーヴ・ナット(1954年、スタジオ録音)
⑬タチアナ・ニコラーエワ(1984年、ライブ録音)
⑭ジョン・リル(録音年不明、スタジオ録音)
⑮パウル・バドゥラ・スコダ(1970年、スタジオ録音)
⑯スヴァヤトスラフ・リヒテル(1965年、ライブ録音)
⑰ソロモン・カットナー(1956年、スタジオ録音)

そしてこの中で最も強く心に残り感動した演奏は次の3枚です。

⑨クラウディオ・アラウ(1967年、スタジオ録音)
クラウディオ・アラウ(1903~1991)の演奏を初めて聴いたのは私が30歳代前半の頃で、ショパンの全集を買ったときです。リパッティやルービンシュタインの演奏に慣れていたせいか、このアラウの弾くショパンはどうも違和感を感じ、この時は大家と言われているほどの演奏ではないな、と感じていました。
しかしベートーヴェンのこの第27番を聴いてからは彼に対する見方が変わりました。



まず演奏自体が最初は地味に聴こえるため、1回だけ聴いただけではあまり印象にのこらず通りすぎてしまうかもしれませんが、何度も聴いてみるとその音や音楽表現にもの凄い深く厚いものが感じ取れるのです。
冒頭で音の重要性を述べましたが、アラウは低音をおろそかにしていません。低音が最もピアノらしい音に聴こえます。重厚なのだが重過ぎないし、響きがすぐに落ちてしまうこともない。かといって過剰に聴こえることもない。これは以下の箇所のような低音を聴くとわかります。



高音と低音のバランスの取り方と低音の響かせ方は②のグルダの何倍も優れていると思います。
また第二楽章の下記の箇所などは神経を集中して聴くと、優しい感情が伝わってきます。聴く者はなかなか意識できないが優しさが無意識的に伝わってくるところが凄い演奏だと思います。



アラウの弾くベートーヴェンのソナタは曲によってはどうかなと思うものがあるが、この曲は最も聴き応えがある。未だ全曲聴いていないが、他のソナタの中にもきっと素晴らしい演奏があるに違いない。

⑧マリヤ・ユージナ(1958年、ライブ録音?)
マリヤ・ユージナ(1899~1970)は旧ソ連時代の女流ピアニストでしたが、反体制的な行動をとったため、演奏活動を著しく制限された。この点ではマリヤ・グリンベルク(1908~1978)と似たような境遇だったといえます。
幸いにも録音が多数残されたが、音が悪いものが多く鑑賞に耐えないものもあります。
この27番のソナタの録音はまだいい方で、ホールで弾いたと思われ、ピアノの響きが存分に伝わってきます。



第1楽章が素晴らしいです。少しテンポは遅いが、楽器を十分に鳴らしきった(大音量を出したという意味ではない)演奏で、ピアノの音の魅力を存分に引き出していることがわかります。恐らく第1楽章の演奏では1番素晴らしいのではないか。
ベートーヴェンが気持ちを奮い立たせようとするが、やがて気力が失せて嘆きに変わる心情の変化、エネルギーが消え入るような部分の表現は他の奏者の誰よりも理解した演奏のように感じる。
これに対し第2楽章「その指定「速すぎないように、そして十分に歌うように奏すること」に反して物凄い速さで弾きとおします。一番長いジョン・リルの演奏時間9分15秒に対しマリヤ・ユージナの演奏時間は5分36秒。4分近くも差があります。
もっとゆっくり弾いてくれれば最高の演奏になったに違いありません。彼女が何故この速度をとったのか疑問です。
しかし第2楽章の演奏が速いにしても彼女の演奏は心に強く刻まれるものであり、何度も聴きたい気持ちにさせてくれる。

⑪エミール・ギレリス(1980年、ライブ録音)
エミール・ギレリス(1916~1985)も旧ソ連時代のピアニストでしたが、リヒテルに次いでソ連のピアニストとして最も知られた人でした。
チャイコフスキーのピアノの協奏曲のライブ録音などは何枚も見かけます。ただこのベートヴェンのソナタは全曲録音には至りませんでした。しかし彼のベートーヴェンの演奏は聴き応えがあります。



この27番の演奏は、第1楽章はややタッチが強いもののピアノの音の美しさ、特に高音の芯のある美しい音が聴けます。このタッチができる演奏家はそういないと思います。このタッチの音はギターを弾く際にも参考となるし、理想の音でもあります。
ピアノもギターも軽快なタッチで胸のすくような演奏は多数あるが、ギレリスのような芯のある音で軽快に弾くことのできる奏者が本物だと思います。
第2楽章に入ってからの音はさらに美しく響き、特に最後の部分の高音はこれ以上ないと感じられるほど美しく、ため息がでるほどです。

【追記20131020】
クラウディオ・アラウの弾くベートーヴェン、ピアノソナタ第14番「月光」と第28番を聴きましたが、凄い演奏でした。
鍵盤を強く叩いていないのに、特に低音は音が何重にも重なっているような重層的な響きを出しているのに改めて驚いた。
そして音への感情エネルギーの伝え方が自然で、音と感情との間に乖離がなく、演奏や音そのものが感情の流れのように聴こえます。
低音から高音まで全て、ピアノという楽器の音の魅力を最大限に引き出し表現した数少ない巨匠のうちの一人だと思います。音楽表現も非常に高度なレベルです。
バックハウスやグルダなどに比べ聴かれる頻度が少ないのは、技巧面で地味さを感じるからなのではないか(技巧的に劣っているという意味ではなく、技巧を強調するような華麗、流麗な演奏をするタイプではないから)。
多くの愛好家からまんべんなく評価されるタイプの巨匠ではないが、一部の愛好家からは非常に高く評価されている演奏家だと思います。

【追記20140503】
今日この第27番の素晴らしい演奏に出会いました。演奏者は室井摩耶子さんです。
今まで聴いたこの曲の中で最高の演奏です。録音1979年、船橋市民文化センターでの録音とあるが、ライブ録音の可能性もあります。わずかなミスがあるからです。ライブでなければ一発録りでしょう。こんなに感情表現のできる演奏家、音の魅力を引き出せる演奏家が日本で、しかもほとんど知られていない中でいたなんて驚きです。
この演奏を超える録音が出てくるのは極めて難しいかも。

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