緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

感動した合唱曲(NHK全国学校音楽コンクール:Nコン)(8)

2012-07-29 21:33:57 | 合唱
こんにちは。
NHK主催の合唱コンクールであるNHK全国学校音楽コンクール(略称Nコン)高等学校の部で特に感動した演奏の紹介も8回目になります。
平成23年度から11年度までさかのぼりましたが、ここでいったん区切りをつけたいと思います。
Nコンの録音の殆どが廃盤になっており、過去の録音を聴くには大きな、それも音楽系の図書館や資料室まで足を運ばないといけないのです。交通費だけでもかなり負担だ。
やっとCDを探して聴けたとしても昔の録音はオムニバスになっており、残念なことに課題曲と自由曲全ての演奏を聴けないんですね。
NHKには是非、過去の全国大会の演奏の全てを聴けるようにしてもらいたいです。
希望者には有料でダウンロードできるようにしてもらってもいいです。
今年のゴールデンウィークの前に朝日新聞と全日本合唱連盟主催のコンクール全国大会の過去のCDが1枚500円のセールをやっていて、大量に買ってしまった。20枚くらい買ったかな。NHKもこのくらいやってもらわないと。
さて前置きが長くなったが、8回目の紹介は平成11年度の課題曲「この世の中にある」(作詞:石垣りん、作曲:大熊崇子)、演奏は東北ブロック代表、福島県立安積女子高校(現安積黎明高校)です。



この曲は女声合唱の方が合っていると思います。作詞者も作曲者も女性だからかもしれません。女性らしい繊細なやさしさが伝わってくる素晴らしい曲ですね。この曲を聴いたら気持ちがほっとします。この曲を聴き終わったら誰でもやすらかな気持ちになるのではないでしょうか。
それにしても演奏者の安積女子高校の表現力はすごいですね。とても意識して表現しているとは思えない次元の演奏です。演奏者が元々もっている繊細さややさしさがそのままの状態で引き出されたような演奏だ。
これほど聴くものの気持ちを浄化してくれる演奏は合唱曲の中では極めて少ないのではないか。
前にも何度か書いたが、作詞者、作曲者、演奏者、そして聴き手が思いや感情を深いレベルで共有できる数少ない演奏の1つだと思う。この感動を与えてくれた安積女子高校に感謝したい。
コメント

ヨーゼフ・シゲティのバッハ「無伴奏バイオリン・パルティータ第2番」を聴く

2012-07-28 22:39:30 | バイオリン
こんにちは。
今から15年くらい前でしょうか。姉にヘンリク・シェリングの弾くバッハの無伴奏バイオリン・ソナタとパルティータ全集のCDを買ってあげたのですが、後でそのCDを貸してもらい、テープに録音して聴いていました。
シェリングの演奏は技巧が完璧で音が美しく精神性の高い名演だと思いました。しばらく繰り返し聴いていましたが、他の奏者聴いてみたいと思い買ったのがヨーゼフ・シゲティのCDでした。



録音が1959~1960年、シゲティが67~68歳の時ですね。
このCDを初めて聴いたとき、音が少しかすれていて技巧も最盛期を過ぎた演奏だったので、先に聴いていたシェリングの演奏と比べると遜色を感じざるを得ませんでした。
正直がっかりしました。このCDを買って失敗したと後悔しました。
途中まで聴き、それ以上聴くことはなくなりました。
今日、ふと15年ぶりにこのCDを聴きました。聴いたのはパルティータ第3番ホ長調と、パルティータ第2番二短調です。
15年前に初めて聴いたときの記憶が残っていたせいか、演奏にあまり期待せず、新聞を読みながらBGM風に聴き始めました。
パルティータ第2番を聴き始めて、なんとなく音が違うな、という感じがしていました。でもあまり気にせず新聞を読み続けました。
そして4曲目のジーグ(あの有名なシャコンヌの前の曲)に移ったとき、新聞を読んでいられなくなりました。シゲティの演奏に釘付けになっていました。お恥ずかしいことに気がついたら涙が出ていました。
バッハの曲でしかもバイオリンでこのような体験をしたのは初めてです。
私はバイオリン属の曲はあまり聴く方でなく、バイオリンで心を揺さぶられるほど心底感動したことは今まで一度もありません。
シゲティの演奏は新即物主義、ストイックであると言われていますが、私が聴いた限りではそういうものを超越したもの、何と言うか人の精神の根源的なものが伝わってきましたね。シゲティの演奏は渾身の力を出していながら無の境地に達していると思います。理論、理屈、解釈などといったもののはるか超えた所で行われている演奏だと思います。そう感じずにはいられないです。
15年経ってやっとシゲティの精神に触れることができたと思います。この演奏に出会えて本当によかった。
コメント (2)

伊福部昭のギター曲を聴く 「ギターのためのトッカータ」

2012-07-22 18:52:16 | ギター
こんにちは。
半袖だと肌寒いほどの涼しい日が続いています。
現在、伊福部昭の作曲した3つのギター曲のうち、「ギターのためのトッカータ」を練習しているのですが、今日はこの曲を紹介します。
私がこの曲と出会ったのは大学2年生の時です。今から30年くらい前ですが、当時所属していた大学のマンドリン・ケーケストラで演奏していた鈴木静一の作風に魅了され、ギター独奏曲でも同じような曲がないものかと、探していました。
伊福部昭の名前そのものは当時使用していた全音の教則本の巻末の広告に掲載されていた、「古代日本旋法による踏歌」と「箜篌歌」により知っていたが、これらの曲は一体どんな曲なんだろうと気になっていました。楽譜を探しましたが当時は絶版になっていたんですね。
そこで手に入れたのが全音のギターピースで出ていた「ギターのためのトッカータ」だったのです。





早速弾いてみたものの、結構現代曲風だったんですね。当時はそう感じました。楽譜の解説では民族旋法が根幹となっていると書いていますが、その頃の私が求めていた雰囲気とは少し違いました。
技巧的に難曲だったこともあり、全曲通しで弾くことはなく、日本旋法が強く感じられる部分だけを抜き出して弾いていました。
それから15年以上経ったでしょうか。再びこの曲に挑戦し始めました。丁度この時期は邦人作曲家の曲に強い関心を持っていた時期でもありました。
楽譜を見ながらですが何とか全曲弾くことができましたが、左手が非常に疲労する曲なんですね。その時期はホセ・ラミレスの弦長664mm、弦高5.5mm(6弦)のギターを弾いていたので、なおさら弾きとおすのが辛かったですね。
なのでその後レパートリーになることなく終わってしまいました。
しかし数ヶ月前からまたこの曲に挑戦し始めました。今は別のギターを弾いていることと、左手の脱力をかなり会得してきたこともあり、最初は左手の疲労度が高かったものの、次第にあまり疲労を感じなくなりました。
この曲を弾いていると実に楽しいです。別に楽しい曲だからというからではなく、曲想は全く異なるのですが、リズム感が何か、人の鼓動と共振するようで躍動感を感じるからではないかと思います。伊福部昭の曲はそのような曲が多いですね。
この曲の運指は作曲者自身が付けたようですが、最後の部分は指定された運指ではかなりきつい箇所があります。私は下の写真の手書きの運指に変更して弾いています。参考になれば幸いです。









なおこの曲の録音ですが次のものが出ております。

1.演奏:西村洋 録音:1985年 フォンテック



2.演奏:阿部保夫 録音1971年 東芝EMI



3.演奏:哘崎考宏 録音:2003年 ミッテンヴァルト



4.演奏:哘崎考宏 録音:2005~2006年 ミッテンヴァルト



5.大場悟史 録音:2008年 ライブ録音



お勧めは西村洋の録音。オーソドックスで手堅い演奏ですが、音の使い方が非常に熟考されており、運指も楽譜の指定をあえて変更している箇所があり、それが効果的聴こえるところがいい。テンポも崩れていない。
この曲を作曲者から捧げられた阿部保夫の演奏は、上記録音の中でテンポが最も速く、軽快な演奏です。阿部保夫が46歳の時の演奏で、技巧的にやや最盛期を過ぎた感じは否めないが、いい演奏だと思います。特に中間部のピチカートの演奏は非常に上手い。
哘崎考宏の演奏は2度録音されておりますが、音を楽しむのであれば2005~2006年の録音の方が聴き応えがあります。
この2度目の録音では、伊福部氏がギター製作の国際コンクールで優勝した河野賢氏か記念に贈られたギター(1968年製)により演奏されており、河野ギター初期の独特の音を聴く事ができます。
この河野ギターの音の特徴は、高音が澄んでいて強く芯があり、低音は深く力があり余韻があることですね。今の若い世代の薄っぺらいタッチだとたちうちできない楽器ですね。
昔はアポヤンド奏法が主流だったから、この河野ギターような楽器が多かったし、そういう楽器を使うことで音の出し方を学んだのだと思う。
大場悟史の演奏はテンポが全体的に崩れず軽快で、楽譜に忠実でありライブ録音でありながら模範的ないい演奏だと思います。ドイツ人の女性と結婚したようでドイツを拠点としているようです。日本で演奏を聴く機会は殆どないかもしれません。
なお、この「ギターのためのトッカータ」を野坂恵子氏が二十絃箏に編曲し録音を出しています。



野坂氏は伊福部昭のギター曲3曲全てを箏のために編曲(というか原譜そのままで)して弾いています。特に「箜篌歌」の演奏は超名演です。すごいですよ。
この「ギターのためのトッカータ」の録音もすばらしい演奏ですが、この箏の演奏を聴くとギターとはかなり響きが違って聴こえ、驚きを感じます。
箏はギターと違って音に残響があるのと、日本独自の楽器だからなのかもしれません。このトッカータを箏で聴くと、もしかして作曲者はギターではなく無意識に箏の奏法をイメージして作曲したのではないかと感じてしまう部分があります。これは「古代日本旋法による踏歌」の箏の演奏を聴いたときも同じように感じますね。
伊福部昭の独奏曲は西洋のしかもスペインの楽器であるギターよりも、日本の伝統楽器である箏の方が自然に適合するのかもしれません。

コメント

感動した合唱曲(NHK全国学校音楽コンクール:Nコン)(7)

2012-07-16 19:16:14 | 合唱
こんにちは。
NHK全国学校音楽コンクール(Nコン)で特に感動した演奏の紹介も7回目になりました。
このNコンの演奏を録音したCDなのですが、H17年度までは何とか注文で手に入れることが出来ましたが、それ以前の年度のCDは廃盤になっているようで、制作会社(フォンテック)が再発してくれないんですね。H13年度は10年前に買ったものがあるので、家で何度も繰り返し聴けるのですが、それ以外の過去の録音は大きな図書館で聴かせてもらうしかありません。
たまにヤフオクで高等学校の部のCDが出品されることがあるのですが、信じられないくらいの高値がついており、買うことができないです。
NHKさん、MP3でよいのでダウンロードできるようにしてもらえないでしょうか。もちろん有料で。
そんな過去の録音の中で、私が東京に用事で出てきた時に時間があれば上野の東京文化会館の音楽資料室に立ち寄り、必ず聴くCDがあります。
それは平成12年度の全国大会高等学校の部の録音です。
でも聴くのは1曲のみです。その曲が今回紹介する演奏です。
その曲は谷川俊太郎作詞、三善晃作曲、混声合唱のための「地球へのバラード」より、沈黙の名、です。
演奏は北海道代表、北海道立札幌北高等学校です。
この演奏は私が今まで聴いてきた合唱曲の演奏の中で最高のものの1つです。
過去のNコンの演奏の中でも屈指の名演と言ってよいと思っています。
この演奏に出合ったのが去年の秋なのですが、とにかく何度も聴きたくなってしまう。この曲、この演奏を聴くと、心の奥底の感情が湧き出てきて止められないです。そして聴き終わった後、それはやすらぎに変わっていく。
もう理屈も解釈も何も要らないですね。ただこの演奏を聴くだけで満ち足りることができる。
数多くある演奏の中で、何故この演奏がそのような気持ちにさせるのであろうか。
よくわからないが、演奏者達が無心だからではないだろうか。この演奏を聴くと演奏者達の気持ちが、何も混じっていないストレートな気持ちが伝わってくる。その気持ちがどうしようもないくらい聴き手の感情を揺さぶる。このような演奏は極くわずかである。
この「沈黙の名」、三善晃の合唱曲の中で最高の曲ではないでしょうか。
この札幌北高校の演奏によって、作詞者、作曲者、そして演奏者達とまさに音楽を共有する感動を体験することができるのです。
コメント

いじめ問題を考える

2012-07-15 21:48:03 | 時事
こんにちは。
最近、新聞やテレビでいじめに関する報道が目立ってきた。
以前に比べいじめ問題が話題になることが少なくなってきたので、今の子どもたちは良くなってきているのかな、と思っていたがそうではなかったようだ。
いじめが問題にされるようになったのは、1980年代後半からであろうか。それより前はいじめというのはあったが、数は少なく今に比べて陰惨なものではなかった。
私が高校生の頃に、下の世代は校内暴力で荒れていた。鬱憤を、物を壊したり、先生に暴力を振るうなどして晴らしていた。
しかしその校内暴力も力で制圧され、そして消滅した。いじめが社会問題とされるようになったのはそれからしばらくしてからである。
校内暴力からは死は生まれなかった。しかしいじめは子どもの死を産み落とした。
これから長い人生を歩んでいける子どもの命を奪い取った。これは非常に重要な社会問題である。
これは単なる自殺ではない。将来を悲観して、借金を苦にして自殺するのとは全く違う。
これは自殺ではなく、魂の殺人であろう。
いじめる子どもの心の深層には、人を殺したいほどの憎しみ、怒りが渦巻いている。
いじめる子どもは間違いなく、小さい時から親や兄弟などからいじめや精神的虐待を受けている。しかしそのいじめや虐待から生じる怒りや憎しみを、いじめや虐待した相手に向けていない。逆に自分自身に向けている。自分自身に向けることで心が病んでくる。人に対する恐怖や怒り、憎しみが絶えず起きてくる。心にそれらのマイナス感情が蓄積されると生きていけない。マイナス感情を絶えず抱えることは苦しい。我慢すると鬱状態に陥る。だからいじるめる子どもは自らに向けた怒りや憎しみを安全な標的を選んで晴らそうとするのだ。
いじめの動機は、相手が自分の攻撃でもだえ苦しむことである。究極的な目的はいじめる相手を精神的に殺すことである。相手が精神的に苦しみ、死ぬことで心に蓄積された怒りや憎しみがはじめて晴らされる。実に恐ろしいことだが、これが現代のいじめの現実であろう。
このいじめる子どもの心を癒さない限りいじめ問題はなくならないであろう。
いじめられる側の保護ばかり注力しても根本的な解決にはならない。
もっと踏み込めば、いじめる子どもを生む、病んだ現代社会にメスを入れなければならないであろう。
一方いじめられる子どもも親などに十分愛されていないことが多い。何故ならば、親に十分愛されていれば、自分を強く肯定できる基本的な精神が自然に身についているからだ。だから人から否定的なことを言われても、それは相手の心の問題であり、自分には関係ないと切り捨てることができる。
いじめられる子どもは相手から否定的なことを言われても反論しない。逆に自分を責める。自分を責めるような心理的構造が強固に出来上がっている。その心理的構造を自ら打ち壊すことは不可能に近い。だからいじめられる子どもはいじめられても攻撃できないのだ。そして自分自身に攻撃を向ける。その結果心に怒りや憎しみや恐怖が蓄積される。自分に向けた怒りや憎しみを抱えきれなくなったとき、いじめられる子どもは死を選ぶ。それはいじめられ追い詰められた子どもに残された最後のメッセージである。いじめられる子どもは無意識に死をもっていじめた相手や周囲の無理解な人々に訴えたのだ。
よくいじめられっ子がいじめっ子に変わるという話を聞いたことがある。
これはいじめられる子どももいじめる子どもも自分に怒りや憎しみを向けていることに変わりないことを示している。両者とも攻撃をした本人に怒りや憎しみを向けていない。だから本質的に心の傷が解消されない。自分を肯定できないからいつまでも心の傷から出る膿に苦しみ続ける。いじめられる子どもも溜まった膿に限界がくれば自分よりも弱い標的を見つければいじめる側に変わる。
いじめられて死を選ぶ子どもは良心が強い子どもだった。いじめる子どもに変身するいじめられっ子との唯一の違いはこの良心があるかないかであろう。先にいじめられっ子は親に愛されていない場合が多いと書いたが、良心が強いいじめられっ子は親や親以外の人にに愛されたことの経験を持った子どもかもしれない。人から一度でも真に愛されたことを経験した子どもは、人を傷つけることに痛みを感じる。だから人を傷つけてまでも生きようとする選択はできなかった。
いじめられて苦しんでいる子どもに何か助けになることはないであろうか。
このブログで書くことしかできないが、次のことを伝えておきたい。
いじめられても決して自分を責めてはいけない。自分が悪いからいじめられると思っては絶対にいけない。いじめという行為は100%相手の心の問題であって、自分の問題ではないと心に誓うことである。そしていじめる人間をよく観察することである。いじめる人間の目つきや振る舞い、人間関係などである。いじめる子どもは例外なく心が苦しいのがわかる。その心の苦しみを一時的にも逃れたいがために弱い子どもを選んでいじめているに過ぎない。自分の苦しみを自分で解決できない卑怯で弱い人間なのである。いじめを受けたとき瞬時に、相手は卑怯で弱い人間だと見下していい。とにかくいじめる相手の現実を見抜けるようになることである。自分より全然弱い駄目な人間だと確信していい。
次に自分のしたいこと興味のあることはどんな小さなことでも感じ取って実行することである。いじめられたことに心を支配されてはいけない。今日はうどんが食べたい、コカ・コーラが飲みたい、涼しい風にあたりたい、などどんな小さいことでもよいから、自分の気持ちに耳を澄まして、その気持ちを満たしてあげることである。面倒くさがってはいけない。そして少し元気になってきたら、あのアニメを見てみたいとか、プラモデルを作ってみたいとか、あのバスに乗ってみたいとか興味がわいてくるかもしれない。そういう気持ちが出てきたら、必ず実行してみることである。
但し、あくまでも自分がそれをやりたいという本当の気持ちでなければならない。やりたくないのに強制的にやろうとすると、逆効果になる。やりたい気持ちが出てくるまで辛抱強く待っても良い。
そしてこれらのことを繰り返していくうちに知らないうちに自分を肯定できる気持ちの土台が出来上がり、自分の心が強くなっていることに気付くであろう。
そのようになってきたら、いじめる子どもの言動が馬鹿げたたわけごとであることがわかってくるであろう。そしていじめる相手に必ず反撃することもできるようになる。
何故いじめられるかということを考えたとき、いじめても決して反撃されないからということもあるが、それ以外に何の得意なものがない、勉強ができない、動作が鈍い、みんながやる仕事をやらない、怠けるとかそういう面があることも否めない。
大抵勉強ができる、スポーツができる、音楽に秀でている、など何か人から一目置かれるものを持っている子どもは、周りの人が大切にしようと考えるから弱くてもいじめを受けにくい。
いじめから防御するためにやってはいけないが、いじめられる子どもは何でもよいから何か好きなことを見つけたら徹底してそれらに集中すると良い。そのことが自己を肯定することに自然とつながり心を強くしてくれる。その好きなことで友だちが出来たり、一目置かれるようになれば、いじめから抜け出せる。
なお時に、いじめられるのなら学校に無理していかなくていい、という意見を耳にする。これは難しい解決法である。なぜならば親や学校の先生、同級生が学校に行かなくなった子どものことを見捨てずに、何とか復帰できるよう親身にサポートしてあげる場合は功を奏するが、そのようなサポートも無く、放任されたならば、学校に行けなくなった子どもは自信をますます失い引きこもりから抜け出すことが出来なくなるからだ。そして社会や人がますます怖くなっていく。
現代の社会でいじめのリスクを避けることはできない。学校だけでなく、会社でも近所付き合いでもいたるところでいじめは起きている。いい環境に出会っても次は最悪の環境に出会うこともある。どんな環境でも自分を見失うことなく生きていくことが求められる。残酷なことであるが、結局は悪い環境の中で解決しなければならないことがいつかはめぐってくるものだ。
もしいじめ環境から離れることができず、私がこれまで書いた方法でも解決法が見出せなかったとしたら、どうしたらよいか。
自殺直前まで追い詰められたのであれば、全てを投げ打って、いじめる相手を死ぬ思いで殴る覚悟をすることであろう。後で半殺しにされても死ぬ覚悟で相手を打ちのめすしかない。死ぬ覚悟で向かってくれば、相手は自分の力が及ばないことを悟り、その後はいじめることはなくなるであろう。
いじめで命を落とすことは悲惨なことだ。いじめられた経験を克服した人はその後は必ず充実した人生が待っていると確信してよい。だからそのためにも決して死を選んではいけない。
コメント