緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

コラム「啄木が愛した石狩の海」を読む

2020-05-16 16:37:11 | 鉄道
今日の新聞に、「歴史のダイヤグラム」という連載コラムで、「啄木が愛した石狩の海」と題する記事が掲載されていた。
啄木とは誰もが名前を聞いたことある詩人、小説家である石川啄木である。
啄木は岩手県の生まれのようだが、後に北海道へ渡って函館、札幌、小樽などで新聞記者などをしていたようだ。

先のコラムでは、啄木が現、函館本線の小樽から札幌までの鉄道で何度か移動した際の印象が書かれてあった。
コラムを順に読んでいくと、冒頭、「1880(明治13)年11月28日、北海道で初めての鉄道が小樽に近い手宮(現在は廃止)と札幌の間に開通した。」とある。
「手宮」。懐かしい地名が思わぬところで出てきた。
手宮線というのが昔あったのだ。
南小樽駅と小樽駅の間を列車の窓(小樽方面に向かって右側)を見ていると、単線の使われていない線路が残っているのが見えたものだった(現在、残っているか不明)。
これが手宮線の廃線跡だ。
それと手宮というともう一つ思い出がある。
大学2年生の12月だった。
当時、常勤のアルバイトで家庭教師をしていたのだが、教え子の子供の家から12月分の給料を今は払えないと言われて実家に帰省する金が無くなってしまったのだ。
払えないと言われるまで、近くのタバコ屋からあんドーナツ1個買って、それで何とか1日をしのいでいたが、いよいよ給料をもらえないと分かると、アルバイトを探すしかなく、大学の学生課の紹介で手宮で新装オープンしたパチンコ屋の駐車場の警備員(自動車の誘導係)の仕事を見つけた。たしか3日間の単発のアルバイトだったと思う。
仕事の初日に、警備会社の事務所に行き、制服、制帽、誘導棒などを受け取り、ワゴン車でその新装開店のパチンコ屋に向かった。
そしてパチンコ屋の駐車場で誘導を始めたのだが(初めての体験)、開店初日にものすごい数の車が押し寄せ、大雪の中、駐車場の入り口付近の道路が大渋滞を起こし、近所の住人から「おめえの誘導の仕方が悪いから、家に入れないじゃないか。何やってんだ、バカヤロー、責任者呼んでこい!」と怒鳴られたのである。
酷い目に合わされたものである。
しかし1日1万円くらいだったかの給料をもらって無事、実家で正月を過ごせたのはよかったのは束の間、正月明け早々に家庭教師をクビになってしまった。
後から聞いた話だと、給料をもらえないと困ります、とその家の奥さんに言ったことが彼女の逆鱗に触れたようだった。
この体験はすごくショックで、その後、落ち込んで、何もする気になれなくなり、丁度大学の後期試験の時だったのであるが、勉強をほとんどせずに試験を受けるはめになってしまった。
その後は思い出したくない。

この「手宮」というキーワードで変な記憶が蘇ってきたが、北海道で初めて開業した、この手宮ー札幌間の鉄道が、日本で初めて開通した鉄道である新橋-横浜間の開業からわすか8年後のことだったのは意外だった。

コラムはこう続く。
「鉄道が開業して100年も経てば、沿線の風景はすっかり一変している。新橋-横浜間で鉄道が開業した時の車窓風景を眺めることなど、もうえきるはずもない。しかし現在の函館本線に当たる小樽-札幌間には。それができる区間が残っている」
「函館本線の列車は小樽を出ると、左手に日本海に属する石狩湾が現れる。右手は山が急傾斜で湾に落ちている。列車は朝里(あさり)から銭函(ぜにばこ)まで約8キロにわたり、山と湾の間に築かれた低い護岸に沿って走る。人家や道路は全く見えない。地形が幸いして奇蹟的に開発を免れてきたのだ。」

上の文章では、小樽から出発して札幌方面の方角に向かう列車での車窓からの風景を描写している。
この路線に乗った最初の記憶は多分幼稚園の頃だったと思うが、当時はまだ蒸気機関車の時代で、札幌からこの蒸気機関車で小樽を超え、父の実家のあった岩内という漁村の近くにある雷電海岸というところに泊りがけの海水浴に行った経験だった。
この時、小樽を過ぎたあとで車内で「トンネル餅」という小さな甘い餅菓子を母が買って食べさせてくれたのを覚えている。
あとの記憶は、多分張碓トンネルに入った後に機関車の煙が窓から入ってきたので、乗客がいっせいに窓を閉めた光景だ。
真夏だといっても冷房など無い時代だ。
それに車両も木の椅子、壁、床で天井はアーチ状になっているあの紺やチョコレート色の客車である。

次の記憶が大学時代。
入った大学がこの路線内にあり、実家から片道2時間半もかかるのだが、最初の3か月は家から通ったのである。
その後は大学のある町に住民票を移し、大学近くの下宿やアパートで暮らした。
大学の入学式の当日、この路線の中間地点にある張碓トンネル近くで崩落事故があり、やむなく高速バスで向かったっことがあった。
その数日後路線が復旧し、入試の時以来でこの路線に再び乗ったのであるが、確か札幌駅7:35発だった思う。
短い3両編成の超おんぼろ気動車(電気ではなく軽油が燃料で走るデーィゼル列車)で、肌色と朱色の二色の車両と朱色だけの車両が混在した列車だった。
のろくて、青い煙いを吐いて(けっこうこの臭い好きだけど)、汽笛も途中でしょぼんでしまうような情けない音のする列車だったのだが、初めてこの気動車に乗ったら、何と混んでいたのだ。
悪い予感が頭をよぎった。
当時私は、高校時代に勉強ばかりしていたせいで、いつ貧血で倒れてもおかしくないほどの青白い顔をした貧弱な坊やになってしまっていたのである。
悪い予感は的中した。
手稲を過ぎ、確か銭函を出た頃だったと思う。
次第に気分が悪くなり、冷や汗をかきだしたのである。
そして目の前が真っ暗になり、貧血を起こしたのだ。
そして吐き気がしてきてどうにもならなくなり、トイレの方に向かった。
幸いにもトイレの向かいの洗面所が空いていて、そこに壁伝いに手探りでたどり着き窓を開け、そこの床に座りこんで、血液が頭まで登ってくるのを待ち続けた。
幸いにもゲロを吐かなくて済んだが、この体験はトラウマになり、その後この3両編成の超おんぼろ気動車に乗って通学することは2度となくなった。
この列車を避けるとなると、その次の列車は大学のある町に9時ちょっと前に着く列車だ。
この列車は編成が長かった。
あの蒸気機関車時代の古い木の内装の紺とチョコレート色の木造の客車だ。8両編成くらいの長さがあり、朝里駅ではホームをはみ出して、前の車両に移らないと降りれなかったというものだ。
この時代は未だ、この古い車両の列車が、旭川-函館間で1日3往復くらい走っていた。
あと旭川-小樽間は電化されていたが、気動車もたくさん走っていた。
小樽から歌志内とか追分に行く列車もあった。
客車の場合、牽引はED76という型式の赤色一色の電気機関車だった。

大学のある町に着いたら歩きでは授業に間に合わないので、駅のタクシー乗り場に駆け込み、相乗りで大学まで行くのである。
しかしこの列車に乗るのも、実家を朝早く出なければならないので、だんだんしんどくなっていき、次第に昼から授業に出るようになっていった。
それで、このままではやばいと思うようになり、6月の末から大学近くに住むようになったのである。
(しかし大学近くに住むようになったからと言って、朝の授業に真面目に出るような生活を送ることはついに無かった)

かなり横道に反れたが、コラムでは銭函-小樽間の車窓からの景観を小樽から銭函に向かう方向で解説しているが、私は、逆方向に、銭函から小樽方面に向かう方角から見ていった方がより景色を鮮明に感じ取れるのではないかと思っている。
それは、この区間を通るためにはたいてい札幌から出発するからであり、札幌から銭函までの、都心→競馬場→住宅街→工場という景色の流れ、変化を前段として見ておいた方が、より一層、銭函からのあの日本海の独特の風景を楽しむことが出来るからである。

函館本線の札幌-小樽間は私の大学時代、札幌→桑園→琴似→手稲→銭函→張碓(夏の僅かの期間のみ一部の列車で臨時停車)→朝里→小樽築港→南小樽→小樽、という停車駅で構成されていた。
私が大学を卒業する2年くらい前に、手稲と銭函の間に、「星置」という新しい駅が出来た。
その後、札幌寄りにさらに駅が増えたようだ。

函館本線の札幌-小樽間は、今こそ全て高速の電車が走っているが、当時はのろまな気動車(ディーゼル)、客車を牽引した電気機関車(これものろい)、色は違うけど関東地方で昔オレンジと深緑色の2色のデザインで走っていた電車と同じような電車(これはちょっとのろい)の3種類が走っていた。
スピードが遅かったから、それが幸いして景色をじっくりと味わうことができた。
ゆっくりしててもよかった、古き良き時代だったのだ。
札幌を出るとしばらくは都心の景観が続くが、琴似近くから手稲まで住宅地ばかりが広がる。
そして手稲を過ぎると、広大な土地に工場が点在してくる。
確か古い記憶では、北海製罐とか、新宮商行(木材屋)といった工場が建っていたような気がする。
新宮商行(字は合っているかな?)の近くに大きな煙突があり、建物は古くて、一部は木造だったような気がする。

この新宮商行を過ぎるとすぐ、銭函駅に着く。
小さな駅だが、駅のホームに木製の銭函が本当に吊り下げられていた。
そしてこの銭函駅を過ぎると、今までとは全く異なる別世界の景観が広がり、初めてこの路線に乗った人はまず、驚く。
しかしこの景観の突然の変化を楽しむには列車の進行方向に向かって右側の対面式ボックス席に座る必要がある。
(今は横長椅子の電車も走っているようで、このタイプの電車だと景色は楽しめない)
銭函から広がる日本海の海の景色は確かに単なる景色ではない。
何か人の心を惹き付けるものがある。
穏やかな波は殆ど無い。
冬は多くの日が、どんよりとした黒い雲空に覆われ、波は荒々しい。
春、夏は穏やかなときもあるが、波は強かったように思う。そして海鳥が飛んでいるのが見えた。
船は殆ど見たことが無い。

昔の列車は窓を開けることが出来たから、音と臭いも楽しむことができた。
北の海の独特の臭いと波の音。
この海の景色は、この路線を頻繁に利用している人でも毎回、ボーっとして、何も考えずに見ていても飽きなかったのではないか。
なにか、この海岸の景色は、人の心をボーっとさせる、思考を中断、麻痺させる何らかの作用を持っているように思われた。
(少なくても私はそのように感じていた)
東京から観光で来たであろう、若いOL風の女性たちが、この銭函を過ぎて突然視界に現れた日本海の海の景色に歓声を上げているのが、たまに聞こえてくることがあった。

この銭函を過ぎてから小樽築港駅の手前までが、このコラムでいう100年経っても変わらない景色だというのである。
確かに朝里までは海の反対側は切り立った崖で平地は無い。
反対側も浜が短い石または砂の海岸なので、開拓をする余地が無いのである。
銭函を過ぎてしばらくすると、張碓という無人駅を通過する。
ここは夏の間の僅かの間だけ、海水浴客のために臨時停車する小さな無人駅だ。
この張碓あたりの景色が一番良かったように思う。
しかし5年くらい前に、母校マンドリンクラブの定期演奏会を聴くためにここを通ったときには、何故かこの張碓駅の看板が無かった。

張碓駅を通過するとすぐにトンネルに入る。張碓トンネルだ。
このトンネルは面白かった。
中は暗く、途中に海側の壁がアーチ状にいくつかくり抜いてあって、その付近を通ると、カー、カー、カーと、カラスの鳴き声のような音がするのである。
この音を初めて聴いたのが、大学に入学して初めてこの路線に乗った、札幌駅7:35発の超おんぼろ3両編成気動車に乗ったときだった。
車内で貧血を起こし、トイレ向かいの洗面室に窓を開けて座りこみ、吐き気と戦いながら血が頭に登ってくるのをひたすら待っていた時だった。
徐々に目の前が真っ暗だった視界が取り戻されてくるのを感じながら、このカラスの音がおぼろげながら聴こえてきたのを今でも憶えている。

張碓トンネルを過ぎ、朝里駅を出ると進行方向に向かって左側の切り立った崖は途切れ、平地が見えてくる。
そして海岸線はゆるやかなカーブを描いた砂浜に変わる。
大学時代に、先輩や同期の数人(マンドリンクラブではない)とこの朝里駅の近くで一度だけ海水浴をしたことがあった。
そうだ、この朝里駅から歩いて20分くらいのところに、マンドリンクラブの後輩が住んでいて、卒業演奏会の練習でこの朝里の彼の家で先輩と3人で練習したことがあった。ごちそうまで出してくれて。
(この時は、グラナドスのオリエンタルとか、ファリャの粉屋の踊りを三重奏に編曲して弾いた)
この後輩とは、2年前の夏の母校マンドリンクラブ50周年記念演奏会が開催されたとき、終演後のロビーで30数年振りで会った。
彼は学生時代は武道もやっていて、硬派な顔立ちだったが、30数年振りに会った時はかなり柔和な表情に変わっていた。
でも雰囲気は当時と全然変わっていなかった。安心した。
私も学生時代そっち系のスポーツをやっていたので、後輩の中では一番気があった。
あと朝里と言えば、朝里川温泉という温泉が朝里町の山奥にあり、この山奥の終点に青年の家のような施設があった。
その青年の家でマンドリンクラブの春合宿と秋合宿をやったのである。
(因みに夏合宿もあったが、それは道内の地方でやった)

朝里駅の次は小樽築港駅だ。
小樽築港駅は海岸線の終焉である小さな短いトンネルを出た直後にある。
私が大学時代には、この駅の周辺に素晴らしい景色、それは寂れているが素朴な風情のある、この町に最もふさわしいことに相違ない景色が存在していた。
その景色とは、昔の蒸気機関車の車庫、それは機関車5台くらいを収納する、昔、苗穂駅にもあったような扇状のかたちをした使用されなくなってもそのまま遺跡のように残っていた車庫であった。
その扇状の蒸気機関車の車庫の入口に向かって錆びた線路がいくつも延びていて、その錆びた線路に緑の丈の低い雑草が無数に生い茂っていたのである。
今思い返してみても、それは素晴らしい景色だった。
静かで穏やかで。昔に帰ったような。

しかしバブル時代にとんでもないことが起きた。
何と、この風情のある素晴らしい景色を破壊し、その代わりに金儲けのための巨大なショッピングモールを建設したのである。
このことくらい、この町を駄目にしてしまったものは無い。
ショッピンモールなど、日本全国どこでもあるつまらない建造物だ。
この巨大なショッピングモールで金儲けをするために、二度と再生不可能な、あの風情のある、この町の象徴とも言うべき誇るべき美しい景観をぶち壊してしまったのである。
こういうことを平気でするのが信じられない。
この素晴らしい景観はもう2度と戻ってこない。
貧しい心が招いた悲劇である。


南小樽に着くと、左手に古い旅館が見えていた。
今でもあるのであろうか。
畳の部屋で静かな旅館であろう。
今でもあるのか。
あるんだったら是非泊りたい。

終着は小樽駅だ。
ここから先は電化されていない。
電気機関車に牽引された客車は、ここでDD51という型式のディーゼル機関車に交換される。
小樽から俱知安方面は当時はローカル線で単線となる。
乗客もぐっと少なくなる。
当時は小樽から倶知安、倶知安から伊達紋別(現在は廃止)は過疎地帯だった。
せいぜい、冬の間、ニセコに行く人で若干増えるくらいだ。
しかしこのニセコも今ではとんでもないことになっているらしい。
金儲けのことしか考えていない奴らのために、どれほど美しいものを失ったか。
その代償の本当の意味が分かる人も現在では少なくなってきているのではないか。
なんか寂しい気持ちになってくる。



石川啄木の全集。
10年くらい前に古本で買ったが、最初の数ページしか読んでいない(勿体ない)。
今はギターケースの陰になって置かれていて、ケースをよけたら埃まみれでひどいことになっていた。

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健康油を飲む

2020-05-16 11:15:42 | グルメ
昨日寝たのが1:30頃だったが、目が覚めたのは6:30頃。
それからうとうと状態で色々考え事をしていたが眠れそうもないので8時過ぎに床を上げた。
休日の朝であれば普段の平日の睡眠不足を補うべくもっと遅くまで寝ていてもいいのだが、時々早く目が覚めてしまい、そのまま寝直しが出来ずに起きてしまうことはしばしばある。
今日もそんな朝で始まった。

今日は天気が良ければ車で久しぶりに長距離ドライブでもしようかと考えていたのだが、先ほどから雨風が強くなってきたので家にいることにした。
今乗っている車は製造されてから25年くらい経つ古い車なのなのだが、2年前に車通勤から電車通勤に変わってからめっきり距離が伸びなくなってしまった。
古い車はコンスタントに乗ってあげないと、傷みが早くなるそうだ。

コロナも収束の兆しが見えてきたが、在宅勤務をしたのが結局のべ6日間ほど。
勤め先の他の部署の方は1か月くらい在宅に入っている人もいるが、世間一般ではどうなのだろう。
1か月も在宅で仕事をしていると、さすがにいわゆる自粛疲れというやつになるのではないか。
自分の場合は、ちゃぶ台の上に会社のノートパソコンを乗せて、畳の上であぐらをかいて仕事をするので、足腰が痛くなってきて、頻繁に足を延ばしたりずらしたりしなければならない。
しかし在宅だとメリットもある。
昨日、在宅だったのだが、定時(5時)で終わる予定だった仕事が思わぬトラブル発生で2時間延長で結局7時近くに終わったのであるが、これが東京の勤務先までの通勤だったら、家に帰るの10時半だ。
在宅の方が2時間以上も時間を使えるのである。
また朝も通勤よりも遅くまで寝ていられるので、普段少ない睡眠時間(4.5時間)を2時間余分にとることが出来る。
これは私にとってはかなり体にいいし、仕事以外のことに使える時間も増えるのでメリットが多い。

在宅勤務はこれから一つの勤務形態として、今回のコロナ対応をきっかけに広まっていくかもしれない。
例えば明日の業務が、わざわざ勤務先に出向かなくても可能な仕事だと判断される場合は、在宅勤務を申請し許可されれば出勤しなくても済むというように。
事務所等にいなくても、仕事の出来高や成果がきちんと達成できていれば在宅も問題ないと思う。

私の勤め先で、ここ数年心臓や脳の疾患などでまだ働き盛りの年代なのに突然亡くなる人が増えてきている。
働き方改革で以前よりも超過勤務に対する規制が強化されてきているが、管理職はだからといって労働時間を簡単に短縮できるものではない。
私も2年前までの工場勤務時代は15年くらい無茶苦茶とも言える労働時間だった。
自分で言うのもなんだけど、朝7時から仕事を始めて昼休も仕事をやり、夜10時、11時までずっと仕事(デスクワーク)なのである。
これを平日毎日づっと続け、土曜日も出勤していた。
大事な会議の資料を作る時には夜中の1時、2時までかかることもあったし、土日連続勤務もかなりあった。
今はこんな仕事をしていたら本社の労務人事から呼ばれて、逆に能率の悪い働き方だとやり玉に挙げられて、労をねぎらってくれるどころか逆に叱責されたり、無能者呼ばわりされるのである(実際にそういうことを言われた)。
しかしどう考えてもこれだけの時間をかけないと出来ない仕事でもあったのは事実だ。
だから管理職の中には出退勤の打刻をごまかして申請している人もけっこういた(今はどうか分からないが)。
工場時代に、私よりももっとやっている製造の管理職の人がいたが(平日夜中まで、土日連続勤務)、超過勤務者リストに載っていなかったのは明らかにおかしかった。

今こういう話を若い社員にすると、まず嫌な顔をされる。
今の若い方は効率よく仕事をするようになったが、精度が悪い。
要はチェックをしていないから、間違いが多いのである。
早いけど、仕事に対する誠実さに不安を感じる。
仕事のチェックをするということは、間違えが無かったとしたならば、手戻りのようで無駄な意味の無い仕事のように感じるかもしれない。
しかし人間が行うことには必ずミスというリスクが潜んでいる。
そのミスを未然に防ぐには、忍耐強く、チェック、確認、中間、完成検査を怠るわけにはいかない。
だから必然的に、労働時間は長くなるし、傍からみると生産性が悪いように見えてしまう。
だから最近の人はこういう地道な仕事を省略したり、嫌ったりする傾向がある。
最近増えてきている、メーカーでの検査データ改ざんや、要求検査項目の不正な省略による不具合の多発は、労働時間短縮化、働き方改革の負の側面が現れてきているのではないかと思う。

過労による突然死を防ぐためには当然、労働時間を減らすことも大切であるが、仕事の質を落とすわけにはいかない。
仕事の質を落とさず、労働時間を短縮する手段を考えていくのが今後の業務改善の最重要課題であることは間違いない。
RPAなどの人工知能を用いたツールがどんどん機能向上し、ルーチン的な業務は人間が行わなくても済む時代が近くやってくると思う。
ただ、そうであっても、要所要所でのチェック、確認、検査、検証という要素を持つ業務は、人間の手から離れることは絶対ないであろう。
開発設計段階で、検証不足による予期せぬ不具合の発生で、莫大な損失を招くことはいくらでもある。
たったひとつの不具合で会社そのものが存続できななくなるほどの事態を招くこともあり、恐ろしいことだ。
製造業に勤めている方であれば身に染みて感じているに違いない。

前置きが大変長くなったが、心臓疾患などの突然死を防ぐ取り組みは何も労働時間短縮だけではない。
最近、かゆみ対策の一環として調査して得られた情報から、これがかゆみの防止に効果があるだけでなく、血中のコレステロール値を減らす効果がある食品を見つけたのだ。
そのある食品とは、食用油だ。
食用油と言っても、普通のフライパンにひく油ではない。
飲む油というやつだ。
それが、アマニ油、エゴマ油、ぶどう油という油だ。
ぶどう油はグレープシードオイルとも言う。ぶどうの種から抽出されたオイルだ。
このアマニ油、エゴマ油には「オメガ3(α-リノレン酸)」という必須脂肪酸が含まれており、この物質が血中のコレステロールを減らす役割があると言う。
ぶどう油の方はリノール酸(ビタミンE)を豊富に含んでおり、体内の脂質を酸化から守り、細胞の健康維持を助ける役割があると言う。
この最強の油を毎日、アマニ油又はエゴマ油は大さじ1杯、ぶどう油は大さじ2杯飲んでいる。
この油を飲むようになってからなんか以前に比べ調子が良くなったような気がするのである。
血液検査をしてもらえれば具体的に効果がわかると思う。
アマニ油、エゴマ油の味はほとんどくせがない。ぶどう油のほうは若干油くさいがそれでもマイルドな味だ。

アマニ油、エゴマ油、ぶどう油、これはおすすめだ。

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