緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

室井摩耶子演奏「シューベルト作曲 ピアノソナタ第21」を聴く

2021-01-30 21:47:02 | ピアノ
昨年9月から受講した講習会が先日一区切りついた。
しかしまた3月から次のステージが始まる。
この講習会で同年代の親しい仲間が出来た。
同じ目標、志を持ち、日頃から同じようなことを考えているせいか、深いレベルでの交流が出来たことは嬉しいし、貴重なことだった。
なんだかんだ言って今まで不遇な時代が長かったけど、本当にスローペースではあるが、いい方向に向かっているような気がする。

年初に今年の目標を「行動」という言葉にした。
自分自身を高め、幸福にしようとする気持ちがあるのであれば、次は「行動」に移す必要があることは身に染みて分かる。
行動しても報われなかったり、嫌な思いをしたり、失敗だったりすることは多々あるが、それは全て意味がある。

3月からはマンドリン演奏会の練習も始まるから、その活動でもまた何か自分を高めてくれるものとの出会いと発見が得られればいいなと思う。

今日久しぶりに、ピアノ曲を聴いた。
以前買って聴いた演奏で、いつか記事にしようと思っていたものだ。

室井摩耶子 「月光の曲」ライブ
2005年10月8日 白寿ホール ライブ録音



聴いたのはベートーヴェンのピアノソナタ第14番の方ではなく、シューベルト作曲「ピアノソナタ第21番変ロ長調 D.960 遺作」。
この曲は私の最も好きなピアノ曲の1つであり、ピアノソナタ曲の中では、ベートーヴェンのピアノソナタ第31番、第32番、リストのピアノソナタロ短調と並んで最高傑作の1つだと思っている。

室井摩耶子氏の演奏を初めて聴いたのは、今から10年ほどまでにディスクユニオンで買った中古レコードであった。
ベートーヴェンのピアノソナタ第27番と第32番が収録されたレコードだった。
この録音で彼女の実力が相当なものであることを知った。
とくにピアノソナタ第27番の演奏が素晴らしく、その感想をこのブログの記事に取り上げたことがあった。

室井摩耶子氏は1921年生まれ。現在99歳であるが現役のピアニストと言われている。
たしか2年前に長野で演奏会があることを主催者様からこのブログを通して知り、聴きに行こうと思ったが、台風で中止となったはずだ。
この年で現役のピアニストと言ったら、過去にはホルショフスキーしか知らない。
今日聴いた2005年のライブ演奏は室井氏が84歳の頃の演奏であるが、84歳とは全く思えない演奏だ。
たしかに高齢ゆえの速いパッセージ部分の速度の低下やもつれはあるものの、音の強さとエネルギーは衰えというものを全く感じさせないどころか、若い人には決して出せない音の深さと、その音の中に人間の心の奥底に横たわる秘められた感情を感じ取ることができる。
特筆すべきは、低音が重厚で多層的な響きを持ち、高温は単なる美しさではない、何とも形容し難いが、芯のある突き抜けるような透明度のある美しさといったらよいか。

この音を感じてもらうには実際にこの録音を聴いてもらうしかないが、現在は残念ながら廃盤のようだ。
シューベルトのこのピアノソナタの演奏に費やした時間は47分間。
この大曲を最後まで、エネルギーが枯渇することなく、高い集中力で弾き切ったことに本当に感動する。

室井氏はライナーノートでこの曲の解説の冒頭、次のように書いている。
「私はこの曲は初めの音をきくとふと涙が出て来そうになる。否、心の中の涙を含んだ層をつきぬけてもっと深い層でそれは歌われているのである。」

「心の中の涙を含んだ層をつきぬけてもっと深い層でそれは歌われている」
この言葉はどういうことを意味するのであろうか。
この言葉の意味することを詮索することはあまりしたくない。

私がこの曲、とくに第1楽章、第2楽章で感じるものは、シューベルトという人間の恐ろしく深い孤独感だ。
死んだ方がどれほど楽だろう、と感じるほどの孤独感。
経験した人でないと、決して分からない感情である。

この曲の第1楽章や第2楽章でよく目にする解釈が、死を目前としたときに感じる不安、というものであるが、私はあまりそうのような要素は感じない。
むしろ、誰にも理解できない心の闇、人並外れて強い感受性を持って生き続けてきたシューベルトの深い孤独感と、それを受け入れ、乗り越え、悟ったときの「あたたかい光」のようなものを感じるのだ。

シューベルトのこの曲は、この陰と陽の感情がめまぐるしく交錯している。
陽の潜在下に陰の感情が流れていることもある。
これはシューベルトが意図して書いたものではないであろう。
自分の心の深いところから湧き上がってくる感情を、そのままに忠実に曲にしたとしか思えない。

深い孤独感は、たった独りでいるから感じるものではない。
それは人間に対する絶望からくるものではないか。
シューベルトは死を目前にして、自らのこの深い孤独感を超えたと信じたい。
この曲の楽章の終わり方、曲全体の終わり方がそれを示しているように感じる。
深い孤独感の先に、あたたかい包み込むような光が見えたように私には思えるのである。

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自己否定の回路と自己肯定の回路

2021-01-23 21:04:46 | 心理
このところ講習関連で休日は趣味に時間を当てる時間が無い(これっていつも言っていないか?)。
3月から延期となった演奏会の練習が始まるのでますます大変になりそうだ。
しばらくはこのブログも音楽関係の記事はおあずけとなりそうだ(まあ、それもいいか。⇒これもいつも言っていないか?)


最近読んだ記事で気になったものがある。
読者投稿欄でみつけたものであるが、自分のしたいことをいざ実行するとなると、気持ちがひるんでしまい、後で後悔するという悩みが綴られていた。
以下、その概要はこんな感じだ。

小学校からの友達の誕生日のために、一生懸命作った手作りのバースデイカードをいざ渡そうと、友達のマンションまでワクワクしながら向かっていたが、いざ着いてみると、気持ちがひるんでしまい入り口にも入ることが出来なかったというもの。
誕生日を憶えていることを変だと思われないかとか、仲良しだと思っていたのは、実は自分ひとりだけなのではないかと。
相手に思いを伝える、表現する直前でいつもやめてしまうのだという。伝えて損はしないことは分かっていても。

この方は10代の方であったが、過去に親もしくは近い人、あるいは友達など重要な存在の人から拒絶され、それがトラウマとなっている可能性が高い。
「誕生日を憶えていることを変だと思われないかとか、仲良しだと思っていたのは、実は自分ひとりだけなのではないか」という部分を読むと、何か過去に、そのように思わなければならなかった冷たく、荒涼とした人間環境を感じる。
以前記事にした「聲の形」に出てくる主人公の小学校時代のようなイメージだ。

何故このような、現実に起こっているわけではないのにネガティブな思いが出てくるのだろうか。
何故やりたいと思った行動を直前で止めてしまうのか。
それにはそのように感じるに至るその人特有の理由があると思う。
今までの人生の過程で、人から受けたさまざまな心的外傷(拒否、拒絶、無視、裏切りなど)から来る感情(多くは恐怖)がブレーキをかけているのかもしれないし、心的外傷となる体験がなかったとしても、親の性質(同じ様な傾向)を受け継いでいることが原因かもしれない。
あるいは、ここでは書けないが、それ以外の原因の可能性もある。

このような、自分の意志ではどうにもならない、無意識的に行動にブレーキがかかるものを抱えながら生きていると損をしたり、チャンスを逃してしまうことが多々出てくる。
このような人でもいい人に巡り合えば、この重荷を抱えながらでも何とかそれなりに幸せに生きていくことはできるかもしれない。
しかし、多くの場合は不幸な人生、不平不満に満ちた人生を歩むことになる。

多くの場合は、恐らくではあるが、過去に人から嫌なことを言われたりされたりして、その時にそれをそのまま受け入れていまい、自分を否定してしまったのではないか。

「自分はありのままだと、人から嫌われる、受け入れてくれないんだ」
「自分の話すことやふるまいは、人に不快な感じを与えてしまうんだ」
「だから本当は、人は自分のことを仲間だと思っていないんだ」

自分自身に対し、このようなネガティブな見方を、無意識のうちに、しかも絶えずしているのではないだろうか。
無意識の中で絶えず「自己否定」し、その繰り返しの結果が、意識下ではコントロール不能な回路のように根付いてしまっている。

この「回路」を壊すことは容易ではない。
その回路が発動していた期間が長ければ長いほど困難であるし、時間がかかる。
もうひとつは、この「自己否定」の背後に恐怖の感情が潜んでいることが回路を壊すことを困難にしている。
本来、人間は好き好んで自己否定するようには作られていない。
それをあえて行うということは、行わざるを得ないほどの精神的衝撃を受けた、ということである。
その殆どは恐怖体験であろう。
その体験は、「自分を守ることができなかった」ほどの強いものに違いない。

では、この「自己否定」の回路を壊し、「自己肯定」の回路を新たに作っていくにはどうしたらよいか。
まずは、無意識下で自分が自ら気付かないうちに自己否定してしまっていることに気が付くことである。
これは案外に難しい。冒頭の新聞投稿の方はある程度気が付いていると思われる。
大抵は意識下の自分が本当の自分だと思っている。
そして、心の中に、自己否定する「怒った自分」と「傷ついている本当の自分」の2人が同居していることに気が付くことが必要だ。
この「怒れるもう一人の自分」が「本来の自分、本質としての自分」を、絶えず、罵倒し、否定し、駆り立て、傷つけているのである。24時間、どこにいても。

これは考えただけでも恐ろしいことであるが、現実には無意識下で行われていることである。
この現実が自分の心にあることに気付き、心の底から、本当の自分に毒をまき散らしていた、と知ったならば、人はどのように感じるであろうか。
恐らくとんでもない恐ろしいことを自分にしまっていたと驚くのではないか。
そして、2度と、本来の自分を否定することは止めようと思うのではないか。
すなわち、本来の自分との「和解」である。

本来の自分と和解し、否定することを止めると恐怖も次第に和らいでいく。
何故ならば、絶えず自分を罵倒し、否定してくるもう一人の自分がいなくなるからである。
ところで、この「否定してくるもう一人の自分」は何故生まれたのか。
それは、実際に、過去に、自分を拒否したり、傷つけた人物と同一の人間を自分の心に取り込んだからである。
本来、「あなたの言うことは間違っている」と言って、戦わなければいけなかった人物が「正しい」と肯定し、受け入れてしまったからである。
これが最大の分かれ道である。

この分かれ道の選択を誤ると、人はそれに気が付くまで一生、不幸で苦しい人生を歩むことになる。
そしてこの自分を破壊する回路を抱えたまま、絶えず生み出されるマイナス感情に苦しみ、このマイナス感情をいじめや、新聞投稿などに見られる正義中毒者のような形で吐きださざるを得なくなる。
マイナス感情を吐きだすことの出来ない、良心のある人はうつ病となり、最悪自殺する。

自己否定の回路に気付き、自己否定をやめると共に、今度は「自己肯定」の回路を新たに自分の心の中に根付かせる必要がある。
これをやるにはどうしたらよいか。
それは、自分を癒したり、自分を肯定したり、自分をいたわってあげるような言葉を自ら、シャワーのように1日何百回も浴びせかけることである。
これは実際に口に出して言った方が効果がある。しかし単なるアファメーションとは本質的に異なる。

「今まであなたのことに気付いてあげなくてごめんね」
「〇〇(自分の名前)は、今のままで十分、すばらしい」
「〇〇はすごいね、よくやったね。よく頑張ってきたね。」
「〇〇は優しいね」
等々。

これを今まで自分を罵倒し、自分を否定していたのと同じ回数やるくらいの気持ちでやらないと、自己肯定の回路は根付いていかないであろう。
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テデスコ作曲「プラテーロと私より ロンサール」を聴く

2021-01-15 23:16:50 | ギター
セゴビアのライブ演奏による、テデスコ作曲「プラテーロと私より ロンサール」をYoutubeで聴いた。
寒く、冷え切ってしまった体と心を温かくしてくれるような音と演奏だ。

Andres Segovia : Happy New Year !


このライブ映像ではセゴビアの右手の様子が間近で撮影されているので、いろいろと勉強になる。
これだけ強く密度のある音を出しているのに、右手は常に脱力していて、しなやかで、柔らかく、弦に強く当たっていない。
これは驚くべきタッチだ。

今、こういうタッチを見かけることが無くなった。
なんで音造り、タッチの仕方が変わってしまったのだろう。

※ロンサール:フランスの詩人の名前
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レオ・ブローウェル演奏「アルハンブラの想い出」を聴く

2021-01-10 23:15:58 | ギター
しばらく聴いていなかったレオ・ブローウェルのライブ録音のCDを聴いた。
1990年代前半の頃に買ったCD(今売っているのだろうか)で、ブローウェルがまだ作曲家兼ギタリストとして活動していた頃のライブ録音を集めたものだ。

ブロウェルの若い頃、ギタリスト時代の録音を聴いたことがある方は分かるかもしれないが、ブローウェルの右手のタッチはものすごく強い。
そのために後で腱鞘炎になったと考えられるが、現在のギタリストには見いだせない音が聴ける。

このライブ集の中で、たぶんアンコールで弾いたものだと思われるが、彼にしてはめずらしい「アルハンブラの想い出」が収録されていた。
Youtubeに無かったので、本当はいけないのだが下に録音のコピーを貼り付けさせていただく。

レオ・ブローウェルのライブ録音より「アルハンブラの想い出」(1976年 ローマ)

ブローウェルのこの曲を原曲のイ短調から半音高い調で演奏している。
恐らくカポタストを付けて演奏したものだと思われる。
何故このように調を半音上げたのか。
もしかすると「アルハンブラの想い出」という曲のベストの調整がイ短調ではなく、それよりも半音高い調性だと考えたからではないか。
同じような録音で、ジェイ・ベルリナーの録音がある。

ジェイ・ベルリナー アルハンブラの思い出(タルレガ)


このジェイ・ベルリナーの演奏は、私が「アルハンブラの想い出」で初めて聴いた演奏であり、その出会いは衝撃的なものであった。
今でもこの曲のベスト盤はジェイ・ベルリナーのものだ。

さてブローウェルの演奏速度はどうか。
この曲ほど奏者によって速度がさまざまな曲はないだろう。
速度の遅い演奏の代表的なものとして、セゴビアや若い時のジョン・ウィリアムスのものがあるが、彼らの演奏からは「歌」というものが聴こえてこない。
セゴビアの演奏は、トレモロの弾き方や三連符のスラーの箇所の弾き方に素晴らしいものがあるが、肝心の「アルハンブラ宮殿」の想い出を想起させる「歌心」というべきものはあまり伝わってこない。

作曲者であるタレガがどの程度の速度を考えていたか、それを示す手がかりは無いが、私が思うには、ブローウェルのこのライブ録音やジェイ・ベルリナーの録音での速度がベストなのではないかと思うのである。
彼らの演奏からは確かに「歌」がはっきりと伝わってくる。

調整と速度の選択は作曲にあたって重要な要素であるが、調性はギターの機能の都合上、イ調にせざるを得なかったにしても、ベストな調性はイ調よりも半音高い調性のように感じらえる。

ブローウェルとジェイ・ベルリナーの演奏での調整と速度の同調は偶然ではないような気がする。

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松平頼則 作曲「 ソナチネ 1楽章 」を聴く

2021-01-10 22:13:28 | フルート
松平頼則氏のめずらしい曲を聴いた。
松平頼則の名前を初めて知ったのは大学時代だった。
当時発売されていた全音ギターピースが絶版となるとの話を聞いて、邦人作曲家の曲を買い集めていたときに、氏の唯一のギター曲である「ギタールのためのソナチネ」を買ったのである。







結局この曲を初めて弾いたのが買ってから30年経った今から5,6年前の頃だ。
ただ難しくで全曲演奏には至らなかった。

この「ギタールのためのソナチネ」、数年前に全音から復刻されたギターピース選集に何故か(?)選ばれていた。
タイトルは「ギターのためのソナチネ」に変更されていたが、正しくは「ギタールのためのソナチネ」である。
何故、このような超マイナーな曲が復刻版に選ばれたか違和感、意外性を感じたが、もしかするとこの曲を復刻して欲しいという声があったのかもしれない。
でも今日現在、Youtubeで探したが演奏は投稿されていない(数年前からずっと探しているが見当たらない)。

今日この「ギタールのためのソナチネ」をYoutubeで探していたところ、この曲は見つからなかったが、フルートのソナチネでいい曲に出会った。
松平頼則の音楽と言うと、雅楽に影響された作風をイメージするが、この「ソナチネ」はむしろフランス音楽の香りが漂う。
作曲年が不明だが、若い頃の作品なのではないか。

この「ソナチネ」は第3楽章まであるが、第2楽章、第3楽章はあまり良くない。
第1楽章のみ聴くのでもいいと思う。

松平 頼則 作曲 / ソナチネ 1楽章 Yoritsune Matsudaira /Sonatine





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