緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

追悼 佐藤弘和氏

2016-12-25 20:38:09 | ギター
現代ギター社のホームページを見ていたら、ギタリストであり作曲家の佐藤弘和氏の訃報が出ていた。
享年50歳。私よりも若く、働きざかりの年代での死去は残念というほかはない。

佐藤氏の曲に初めて出会ったのが、今から20年近く前の30歳半ばの頃。
「秋のソナチネ」という曲集を買ったときだ。
この佐藤氏の代表作、「秋のソナチネ」という曲がとてもいい曲で、特に第2楽章が素晴らしく、私のお気に入りの曲となった。
佐藤氏の自作自演CDの解説によると、この第2楽章のテーマは学生時代に作った「秋の歌」という曲のはじめの部分なのだそうだ。
素朴でありながら、日本の秋の情感を見事に表現した、素晴らしい曲である。
日本人だけが持つ、日本人の感性だからこそ生み出すことのできた類稀な曲だと思う。
ご冥福をお祈りいたします。

(下記に「秋のソナチネ」第2楽章のこの曲の主題となるワンフレーズを録音した)

 秋のソナチネ第2楽章の一部

 秋のソナチネ第2楽章の一部(2)



 
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和波孝禧 第24回 クリスマス・バッハシリーズ コンサートを聴く

2016-12-24 23:15:31 | バイオリン
今日、東京上野の東京文化会館小ホールで、和波孝禧氏の演奏による第24回クリスマス・バッハシリーズ コンサートが開催された。

和波孝禧氏の演奏を初めて聴いたのは今から10年くらい前であろうか。
作曲家の原博の録音を集めていた時に、原博の「ヴァイオリンと弦楽オーケストラのためのシャコンヌ」という曲を、和波孝禧のヴァイオリン・ソロ、いずみごうフェスティヴァルオーケストラとの共演のライブ録音で聴いたのである。
この曲は1980年に原博が和波孝禧氏のために書いた曲であり、この時代には珍しいバロック形式、機能調性を徹底した力作であり、隠れた名曲である。
この曲は無伴奏版で他の演奏家の録音も聴いたが、私はどうしても和波氏の演奏の方が相性が良く、何度か繰り返し聴いてきた。
久しぶりにこの1週間で7、8回集中的に聴いたが、和波氏の音楽観、感情エネルギーに満ちた音に触れ、生の演奏を聴きたいと思うようになり、今日それが実現した。

14時の開演前に10分程のプレトークがあり、初めて和波氏の姿を目にしたのであるが、驚いたことに目の見えない方であった。
先の原博の「ヴァイオリンと弦楽オーケストラのためのシャコンヌ」のCDの解説では一切そのことは記載されていなかったが、生来の全盲とのことであり、非常に驚いた。
全盲でありながら難関のロン=ティボー国際コンクールなどで上位入賞を果たしている。
今日の聴衆の中には、白い杖を持った方、盲導犬を連れた方が少なからずいた。

さて今日のプログラムは下記のとおり。

・J.S.バッハ 無伴奏ヴァオリンソナタ 第2番 イ短調 BWV1003
・M.レーガー 無伴奏ヴァイオリンソナタ イ短調 Op.91-1
・E.イザイ  無伴奏ヴァイオリンソナタ 第3番 ニ短調 Op.27-3
・J.S.バッハ 無伴奏ヴァオリンパルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004

71歳という高齢でありながら、無伴奏の大曲4曲に挑戦することは容易ではない。
しかし今日の和波氏は、どの曲も全力投球の素晴らしい演奏を聴かせてくれた。
第1曲目の始まり、まず音のパワー、大きさに驚いた。
そして音の間違いが皆無に近い。指もよく動く。基礎的な技巧練習を相当に積んできたのであろう。
高齢になっても技巧が衰えないのは、絶え間ない豊富な技巧練習の積み重ねなのだと思った。
2曲目のレーガーのヴァオリンソナタは初めて聴く。
たしかプレトークで和波氏が、この曲を若い時分は相当練習、研究をしたが、ある時点から全く弾かなくなり、30年のブランクがあるとの話をしていた。
M.レーガー(Max Reger 1873-1916)のこの無伴奏ヴァイオリンソナタは、バロック様式、基本的には機能調性をとっているが、和声はかなり変質しており、現代音楽の前段階の音楽のような印象を受けた。
プログラムの解説によると43歳の若さで早世した作曲家とのことであるが、他の曲も聴いてみたいと思った。
3曲目の E.イザイの無伴奏ヴァイオリンソナタの和波氏の演奏は凄かった。
暗い夜を思わせるような不気味さを感じる音楽で始まるが、ヴァイオリンでは難しい重音を多用し、変化の多い難曲だ。
和波氏の低音は力強く、感情のうねりがダイナミックで渾身の力を出し切った素晴らしい演奏であった。
難しい技巧を物ともせず、この曲に賭ける強い気持ちが聴き手の多くに伝わったことは間違いない。
曲が終った後の聴衆の拍手が大きく、なかなか鳴りやまなかった。
プログラム最後の曲は、有名なバッハの無伴奏ヴァオリンパルティータ第2番。
終曲「シャコンヌ」はピアノやギターにも編曲され、単独で演奏されることが多いが、この曲はやはり全曲を通して聴いた方がいい。
1曲、1曲が独立しているのではなく、5曲が互いに関連しており、ストーリーのようなつながりを感じる。
「シャコンヌ」で技巧を強調し、見せるために弾く奏者もいるが未熟さを露わにしているようなもの。
和波氏の演奏はそのようなものとは対極にある演奏であり、勿論技巧的にもしっかりとしているのであるが、音楽の根本的な意義を問いかけてくるような演奏であったことを言っておきたい。
音に凄みがあり、聴き手の心に深く届かせることを最も大切なことと考え修練してきたに違いない。
特に第4曲「Giga」のあの印象的なフレーズは、かつて聴いて感情がどっと湧き出てきたシゲティの演奏を彷彿させる素晴らしいものであった。

これですべてのプログラムが終ったが、アンコールでバッハのシチリアーナと、即興演奏で「きよしこの夜」を演奏してくれた。
それにしても何と謙虚で穏やかな方なのだろう。
アンコールを弾き終え、聴衆にお辞儀した後に見せたあの和波氏の表情が忘れられない。

【訂正20161228】
記事で、原博の「ヴァイオリンと弦楽オーケストラのためのシャコンヌ」の無伴奏版を聴いたと書きましたが、ピアノ伴奏版でした。
訂正します。
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ビセンテ・アセンシオ作曲「バレンシア組曲」を聴く

2016-12-18 01:05:49 | ギター
クラシック・ギター界には、高い音楽性、技術力を持ちながら、その存在をあまり、あるいは殆ど知られてこなかったギタリストがいる。
何で有名にならなかったのか。
営業力が無いのか、関心が無いのか、自分を売り込むことが嫌いなのか、下手なのか。
野心がないのか、運に恵まれなかったのか。

今まで聴いてきたクラシック・ギタリストの中で、海外のギタリストでまず思いつくのは、ウルグアイ出身のバルタサール・ベニーテス、そしてフィンランド出身のユッカ・サヴィヨキだ。
バルタサール・ベニーテスは以前にも記事にしたが、1970年代半ばに、ジョン・ウィリアムスに先立ち、アグスティン・バリオスのワルツ第3番、第4番、そして最後のトレモロ、ポンセのカベソンの主題による変奏曲などを録音したが、ものすごく感動したし、この録音は20歳の頃に出会ってから何度も繰り返し聴いた。
バリオスの録音はジョン・ウィリアムスよりはるかに音楽的であり、誰も彼を超えられないと思う。
ユッカ・サヴィヨキは少し遅れてその録音に触れたが、先のカベソンの主題による変奏曲などポンセの録音、バッハのプレリュード・フーガ・アレグロ、そしてフィンランドの現代音楽作曲家の録音などを聴いた。
特に バッハのプレリュード・フーガ・アレグロの爽快でかつ知的な演奏、フィンランドの現代音楽のクールな音は、他のギタリストには無い格調の高さというものを感じた。
彼らの録音はかなり繰り返し聴いたし、ずっと聴き続けるに値する力を持っている。

1980年代の終わりに、ルーテル市ヶ谷ホールでスペインギター音楽協会の主催する、ニューイヤーコンサートというのを聴いた。
このコンサートで、スペインギター音楽コンクールの上位入賞者の演奏を聴いたのだが、ある奏者がビセンテ・アセンシオ(Vicente Asencio)作曲の「バレンシア組曲(Suite valenciana)」という曲を弾いた。
アセンシオはナルシソ・イエペスの師匠であり、ギター曲「内なるい印象」で有名であるが、この「バレンシア組曲」はその時初めて聴いた。
このコンサートは協会のさまざまなギタリストやコンクール入賞者が演奏したが、この「バレンシア組曲」だけが印象に残った。
その後1990年代半ばに現代ギター社のGGショップで、この曲を収録したCDを見つけ買った。
演奏者はエドゥアルド・イサーク(Eduardo Isaac)というアルゼンチン出身のギタリストだった。



早速CDの「バレンシア組曲」を改めて聴いたが、がとてもいい曲だった。
多分のこの時代に「バレンシア組曲」を録音したのはイサークだけだったと思う。
アセンシオのギター曲で「バレンシア舞曲」という曲があるが、この曲はメベスという女流ギタリストが録音していた。
そして「バレンシア組曲」を弾きたくなった私は、現代ギター社に「バレンシア組曲」と「バレンシア舞曲」の楽譜と、メベスのCDを注文した。30歳くらいの、団地に住み始めた頃であった。





引っ越したばかりの頃、この「バレンシア組曲」をよく弾いた。
エドゥアルド・イサークのCDを何度も聴き、第1楽章(プレリュード)はほぼ弾けるようになった。
第2楽章と、難しい第3楽章は進まずに未完となった。

第1楽章は親しみやすい印象に残る曲だ。
アセンシオ独特の和声が頻繁に現れる。「内なる印象」や、セゴビアが80歳の時に録音した「深想(Dipso)」に出てくるあの和音だ。



第1楽章はアレグロの速度だが、速度が遅いとこの曲の感じが出ない。
イサークの演奏はメロディ・ラインがしっかりと出ており、歌を歌っているように聴こえる。
このメロディ・ラインが切れずに、つながっているところが素晴らしい。
目立たないが意外に難しい。弾いてみると分かるが、音を持続させることが求められる。
強弱やデクレッシェンド、クレッシェンドが多く、起伏に富んでいるが、全体的に静かな流れるような曲だ。

イサークの演奏は殆ど楽譜に忠実で正統的な演奏であるが、楽譜に書かれていることに機械的に従っているわけではない。
彼の録音を聴くと、楽譜というものは作曲者の意図を完全に記載しきれてないものだと改めて感じる。
例えばフレーズの切れ目で速度を少し落としたり、Pをやや強めに弾いたりなど、楽譜には記載していない部分も、的確な表現で弾いている。







もし楽譜どおりに弾いたら、かえって不自然に聴こえる。
こういう演奏を聴くと、楽譜に記載されていることが全て正しいことだと信じ込んで、楽譜に記載されていることのみが真の作曲者の本意であるから、それに完全に忠実に従おうとする考え方が滑稽に思えてくる。
楽譜に縛られ、逆に支配された演奏は人間的な感情性に乏しく、頭で考えたものをその通りに実行に移す作業をしているに過ぎない。原点を忘れているか、気が付いていない。教育のされ方も悪いのかもしれない。
結局、作曲者は楽譜に全ての意図を書ききれることは出来ないから、後は演奏者の理解力、感受性、そしてそれらを実現する技巧力に依存する。
よく合唱コンクールの講評を読むと、講評者が細かく技巧的なことや、リズムや音価の取り方などを指摘しているのを目にするが、それも必要なことかもしれないがもっと根本的な原点のようなものを伝えることが出来ないのか、と感じる。
演奏者は意識しているかどうか分からないが、聴いていて何か熱いものを感じるのであれば、そのような根源的なものを掴んでいるのではないかと思う。
意図的な頭で考えたものは聴き手に無意識に感じとられるものである。

イサークの演奏をYoutubeで検索したら、かなりの数が出てきた。
その中で1988年頃に録音された、あるコンサートの生録音の映像があったが、すごい演奏であった。
(ちなみに録音と映像は素人のもので良くない)



https://youtu.be/NBZP7C-Gebg

彼が未だ若いころ(といっても40歳くらいか?)の演奏で、これを聴いたら、頭でいろいろと考えて、綺麗に上手く弾くのが正しいと考えている方はショックを受けるかもしれない。
先日聴いた東京国際ギターコンクールの1位、2位の奏者の演奏と聴き比べて欲しい。
音の出し方がまるで違う。
テクニックも凄いが、体の芯から強い音が出ている。
ギターを奏でることに無上の喜びを感じていることが伝わってくる。
軽い表面的な音で、超絶技巧を見せて聴き手を唸らせるのとは全く違う。
イサークの右手と左手のフォームは参考になる。私の理想とするフォームだ。
何故このような奏者がCDを次々に出さなかったのかと思う。
このような最盛期の時期に録音を残せなかったのは残念だ。
Youtubeの最後の演奏曲「最後のトレモロ」は、バルタサール・ベニーテスのトレモロのように粒が揃った美しい音であった。

コンクールに優勝したというだけで注目され、表面的に上手いだけでつまらない演奏を録音し、聴く側もその賞歴や知名度や、レーベルや音楽評論家の宣伝に乗せられて、頭で「これはいい演奏!」とよく分からないけど何となくそのように感じるのだけは避けたい。

【追記20161218】
現代ギター誌のバックナンバーにイサークの記事がないか探していたら、2001年2月号に2度目の来日時のインタビューが掲載されていたので、彼のギターや音楽に対する考え方を抜粋して紹介したい。

・演奏家は聴衆の心を機敏にキャッチできなくてはいけない。そして自分もそれに反応して、またいい音楽をその場で作っていく。そういうコミュニケーションの感覚を聴衆と共有すること、ステージではそれが一番大切だと思う。そして真の演奏家であるならばきっとそれができるはずだ。

・バッハやヘンデルなどの古典曲に対し、「作品に対する表現のイメージが固まって、自分の音楽になっていなければ、聴衆にそれを与えても何も返ってくるものはないでしょうし、レコーディングする意味もないと思う」。

・鍵盤楽器の曲をギターに移し替えることの難しさに対し、「特にバロック音楽の場合、その特徴である声部の”模倣”ができない、つまり対位法的に完璧でなくなってしまうから。まずその辺を編曲、演奏両面で技術的にいかに解決していくかが問題。その次の段階として例に挙げたいのが、ピアニストのマレイ・ペライアが弾いているバッハの「イギリス組曲」。これはハープシコードで表現できない効果を出して成功している。私が目指したアレンジがまさにそれだ。もともとのオリジナルを出来るだけ忠実に移し替え、その後に、ギターの音色や色彩感を効果的に生かせるように工夫してアレンジするのである」

・ピアソラのアレンジに対して、「一番苦労したのは何を取り入れて、何を取り除くかの選択。それを誤るとピアソラの音楽でなくなってしまう。そしてそれを誤らないためには、やはりタンゴというものを理解していないといけない。そうでないとアレンジは不可能だ」

・ピアソラのアレンジにかき立てたものは、「とにかく美しい作品だから。もう大好きでたまらない、この曲を愛している、とにかくアレンジしようという、すべてはその衝動から始まっているいる。すごく大切な自分の国の音楽だと言ういうことももちろんあるし、やはり一番大きかったのは、なんとしてもこの曲をギターに移し替えて弾きたいという、衝動のエネルギーだ。」

・演奏家として一番大切なことは、「誰かより上手く弾こうという考えは、演奏家としては間違いだということだ。大切なのは自身のスタイルを確立して貫き通すこと、そしてそれを聴衆に提供することだ。そのスタイルというのはレパートリーだったり、その人が出す音の個性だったりするわけで、やはりその根本にあるその人の人間としての個性ということが最も大事だと思う。


インタビュー記事を読んで感じるのは、イサーク氏が謙虚な人物だということ。
(上記の記事の抜粋は「です・ます調」で書いていないので、あたかも立派な偉ぶった風に聞こえるかもしれないが、もちろんインタビューでの言い方は丁寧そのもの)
彼のCDやYoutubeの演奏から伝わってくるのは、ギターや音楽が物凄く好きでたまらない、ということだ。
そしてどの演奏にも”歌”が聴こえてくる。演奏が”歌”そのものであるし、ちょっとキザな言い方であるが、熱いハート、情熱のようなものが伝わってくる。それでいて、自分勝手な独断的な解釈ではなく、楽譜もきちんと読んでいる(とくにバレンシア組曲など)。
今回の記事で「根源的な原点」ということを書いたが、まずもってこれが一番大切なことだと改めて考えさせられる。
根幹となる、音楽に対する強い気持ちや感受性が無いと、いくら国際コンクールで表面的に上手く、大きな音量で弾いて優勝しても、後に聴き手の心に残っていかない。
毎年国際コンクールの覇者がその後、その存在を忘れ去られていくのは、イサーク氏が言う「その根本にある人間としての個性」が育っていない、テクニック重視で、その重要性を軽視されているからではないか。


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ポルタビアンカマンドリーノ第12回演奏会を聴く

2016-12-11 23:37:33 | マンドリン合奏
今日、社会人のメンバーで構成されるマンドリンアンサンブルの団体、ポルタビアンカマンドリーノの第12回演奏会を聴きに行ってきた。
社会人の団体の生演奏を聴くのは初めて。
今まで学生団体ばかり聴いてきたが、社会人の団体というと音楽は二の次、交流を楽しむことがメインで演奏レベルも曲目も今一つというイメージがあったため、一度も聴きにいく機会は無かった。
私もマンドリンアンサンブルではないが、20代の頃、ギターアンサンブルの社会人団体に参加していたことがあった。
しかし曲目がポピュラー音楽ばかりでつまらなくなり、半年ほどでやめてしまった。

今日、ポルタビアンカマンドリーノの演奏を聴きたいと思ったのは、プログラムに藤掛廣幸の「スタバート・マーテル」があったからだ。
藤掛廣幸の「スタバート・マーテル」は、鈴木静一の交響譚詩「火の山」とともに私の最も好きなマンドリンオーケストラ曲であり、学生時代に演奏した思い出の曲だ。
今日は東京に出るまで会社で仕事の残りを片付け、飯田橋のトッパンホールへ向かった。

トッパンホールは初めて行ったが、飯田橋駅から歩いて15分くらいの距離にあり、トッパンの高層ビルの1階にある。
客席数は少ないが音響のいい、立派なホールだ。
驚いたのは殆ど満席になるくらい客が来ていたこと。
先に述べたように社会人団体は下手というイメージがあったので、こんなに客が来ているとは思わなかったのである。

さて今日のプログラムは下記のとおり。

ステージⅠ
・セントポール組曲 ホルスト作曲、小穴雄一編曲
・リュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲 レスピーギ作曲

ステージ2
・主題と変奏 ミラネージ作曲
・夏の庭 -黄昏- シルヴェストリ作曲
・スタバート・マーテル 藤掛廣幸作曲

前半がオーケストラ曲の編曲もの、後半がマンドリンオリジナル曲という構成。
団員数は40名ほど。

いよいよ演奏が始まったが、驚いた。
音に凄いパワーがあり、エネルギーの力に圧倒された。
そして上手い。テクニックも相当なものだ。
演奏が進むにつれてだんだんと分かってきたが、このメンバーたちは、学生時代にマンドリンオーケストラでの演奏を経験しており、そしてその魅力にとりつかれて社会人になっても続けてきた方たちなのだ。
だからマンドリン音楽に対する気持ちの強さ、演奏技巧の高さ、確実さが長年の積み重ねにより更に築き上げられ、それらが集約され大きなエネルギーとなって聴く者に伝わってくるのである。そこに学生オーケストラとの決定的な違いを感じた。
セントポール組曲はホルストの弦楽合奏のための曲であるが、変化に富む難曲である。
ステージⅠのコンサートマスターを務めたのは、昨年、一昨年に中央大学マンドリン倶楽部でコンサートマスターだった方だった。卒業後も、先日の中央大学の111回定期演奏会でも賛助として出演されていた。
難しいソロも高い技巧で弾き切り、演奏に爽快さを感じた。
またコントラバスの音が半端でない。3人だけだったが凄い迫力だ。
2曲目の リュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲は、有名なレスピーギの管弦楽曲からの編曲。
この曲は、私の大学時代の2つ上の先輩が大絶賛していた曲だ。
この先輩(ギターパート)から何度もこの曲の素晴らしさを聴いた。
丁度その頃、現代ギター誌の付録の曲集に、このリュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲のギター編曲版が掲載された。
しかしその頃の私は古楽に関心が無く、ギターで弾いてこの曲を味わうことはしなかった。
しばらくしてこの曲集をギターパートの誰かに貸したらついに戻ってこなかった。
卒業して20年以上経って、上野の音楽資料室でこのギター編曲版をコピーした。



この先輩とは、後輩の3人で、卒業演奏会で、ファリャの粉屋の踊りとグラナドスのスペイン舞曲第2番「オリエンタル」のギター3重奏版を編曲、演奏した思い出がある。



今日のポルタビアンカマンドリーノの演奏では、第3曲「シチリアーナ」と第4曲「パッサカリア」が素晴らしかった。
最後の方のドラの超絶技巧には驚いたが、それにしても物凄い精神的エネルギーが表出される演奏。
古楽のたたずまいを超えた、この曲を作った古代の人の強い思いが十分に伝わってくる演奏であった。

休憩を挟み、第2ステージが始まる。
1曲目と2曲目はイタリア人によるマンドリンオリジナル曲であるが初めて聴く作曲だ。
コンサートマスターとドラトップがステージⅠと入れ替わる。
良かったのは2曲目の「夏の庭 -黄昏-」マンドリンのハーモニーが美しく、また説得力のある音。
曲が終るとひと際強い拍手が起きる。この曲はもう一度聴いてみたい。
終曲は藤掛廣幸の「スタバート・マーテル」。
この曲は以前記事で紹介したが、私の最も好きなマンドリンオーケストラ曲。
藤掛廣幸氏の人気曲には「パストラル・ファンタジー」や「グランドシャコンヌ」が挙げられるが、私はこの「スタバート・マーテル」が最高傑作だと思っている。
曲の構成力、旋律の美しさ、構成の多様性、精神性の高さなど、前2作よりはるかに優れていると感じる。
音楽監督が曲の演奏の前に、このスタバート・マーテルの意味や解釈などを解説してくれた。
後半から合唱が加わり、宗教的な精神的性格性が曲に現れるが、前半はあまりそのような感じはしない。
むしろ私は藤掛氏が、青少年時代を過ごした頃に体験した、1960年代から1970年代の高度成長時代の日本の情緒性が知らず知らずに曲想の根底に滲み出ているように感じる。



例えば、寂しい夕暮れ時の哀愁を感じるような部分、コントラバスの音が少しずつ下がっていく部分、このフレーズがこの曲で最も好きなのであるが、ここの部分を聴くとすごく頭が覚醒してきて少年時代から思春期にかけて体験した情景が次々と蘇ってくるのである。その時代は日本全体が希望に燃えていた時代といってよい。







そしてその後に、非常に美しいマンドリンソロが奏でられる。この部分も好きであるが、とても美しい旋律だ。幸福感の絶頂を思わせるような旋律。今日のコンサートマスターのソロもとても上手くいっていた。



この後にギターのアルペジオとともに速度がだんだんと落ちていき、合唱が挿入される。
学生時代はオーケストラのメンバー自身が歌を歌ったし、原曲の指示もそうであるが、今日の演奏は音楽大学の方の賛助の演奏であり、本格的なものであった。



この「スタバート・マーテル」は卒業してからも度々、いくつかの印象に残るフレーズを折にふれて弾いた。
この曲が好きだったからだろう。

今日のポルタビアンカマンドリーノの演奏を聴いて感じたのは、団員それぞれがマンドリンオーケストラがこのうえなく好きで、演奏することに強い喜びを感じていることが伝わってきたことである。
まず何よりもこのことに心打たれた。
次に、楽器から最大限に音を引き出そうとしていたこと。とても強い音を引き出していたが、それが物理的な力によるものではなく、精神的、感情的な力によるものであり、その音が強いエネルギーに満ちていたことである。
だから音は強くても美しいのである。感情的美しさと言っていい。
指揮者と団員のコミュニケーションも素晴らしかった。
指揮者のエネルギーが団員に伝わり、それが楽器をとおして聴き手に伝わってくる。
音楽の力というものがこれほど大きなものであるかが実感される。正直、日常の仕事上、生活面でのささいな苦しみがちっぽけなものに思われる。
1年に1、2回、2時間というわずかな時間であっても、演奏者と聴き手との交流は互いに面識が無くてもしっかりとなされている。
まさにこのことを改めて感じさせてくれたのが今日の演奏会であり、そのような演奏をしてくれたポルタビアンカマンドリーノに感謝したい。

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立教大学マンドリンクラブ第50回定期演奏会を聴く

2016-12-11 01:28:20 | マンドリン合奏
今日(10日)、神奈川県川崎市教育文化会館で、立教大学マンドリンクラブ第50回定期演奏会が開催された。
とても寒い1日であった。
川崎というところはかなり都会だ。
川崎駅から歩いて20分程で会場に着く。
音響の悪い、暖房のボイラーの音の聴こえるホールで開催された。

立教大学マンドリンクラブの演奏会を聴くのは今日で3回目。
昨年冬の定期演奏会は私の母校の定期演奏会と重なったため、聴くことが出来なかった。
昨年は私の好きな曲である鈴木静一作曲、交響譚詩「火の山」を演奏したようだ。
会場で販売されていた昨年定期演奏会のCDを買って帰りの電車の中で聴いた。
上手いし、いい演奏だ。家についてもう一度聴く。

さて今日のプログラムは以下のとおり。

第Ⅰ部
・茜 作曲/丸本大悟
・ロシアより愛をこめて 作曲/L.バート 編曲/宮田俊一郎
・小組曲「降誕祭の夜」 作曲/A.アマディ

第Ⅱ部
・クラブオリジナル「前奏曲『夜風』」 作曲/廣岡智成
・交響詩「失われた都」 作曲/鈴木静一

第Ⅲ部
・白い恋人たち 作曲/F.レイ 編曲/田原靖彦
・マンドリンとピアノのための協奏曲第一番ホ短調より第一楽章”Marziale”  作曲/R.カラーチェ 編曲/吉野美菜
・荘厳序曲「1812年」 作曲/P.チャイコフスキー 編曲/小穴雄一

第Ⅰ部の曲はオープニングに相応しい明るい親しみ曲を選択している。
丸本大悟の曲は若い世代に人気があるようだが、私はあまり好きになれない。
「ロシアより愛をこめて」は007の映画の主題曲であるが、この映画は小学校、中学校時代にテレビで何度か見た。列車の中でジェイムズ・ボンドとロシアの諜報員との格闘シーンを思い出した。
007シリーズの中でも最高傑作ではないかと思う。
久しぶりにこの曲のメロディを聴いて遠い昔のことを思い出した。
A.アマディの曲は多くのマンドリンアンサンブルのコンサートで聴くことのできるおなじみの作曲家。
私も学生時代に、「東洋の印象 第二組曲」や「海の組曲」を演奏した。
「降誕祭の夜」という曲は初めて聴くが、立教大学の演奏は少しおとなしいように感じる。
第一部は1年生を除き60名ほどの人数であったが、特にマンドリンの音はもう少し大きくてもいいと感じた。

第Ⅱ部の第1曲は恒例の部員自らが作曲したオリジナル曲。
この曲はなかなか良かった。全体的に心地よい穏やかな曲であるが、途中、感傷的に感じさせる部分があった。
藤掛廣幸の「スタバート・マーテル」に出てくる徐々に音が下がっていくフレーズを彷彿させる旋律なのであるが、上手い曲づくりだと思った。
そして第2曲は、鈴木静一作曲、交響詩「失われた都」。鈴木静一の一番人気の曲である。
九州地方の北、大宰府の西、「水城」と呼ばれる地で、かつて日本が、蒙古などの襲撃を受けて戦場と化した過去に思いを馳せた曲である。
日本の過去の歴史や遺跡などからインスピレショーンを得て、作曲された曲としては他に、大幻想曲「幻の国 邪馬台」、交響詩「比羅夫ユーカラ」、劇楽「細川ガラシャ」などが有名で、立教大学の過去の定期演奏会でも頻繁に演奏されている。
その他、日本の土地の風景や四季の移り変わりなどの印象をもとに作曲された曲として、先の「失われた都」や「雪の造型」などがある。
「失われた都」は重々しいセロの旋律から始まる。
かつて悲惨な戦いが繰り広げられ、多くの死者を出した光景が浮かんでくる。
その後、ギターのピチカートから曲は徐々に激しさを増し、ギターのラスゲアードの伴奏のもとに奏されるこの曲の主題となる旋律は印象的で、魂が強く揺さぶられる。途中、挿入されるギターのアルペジオが印象的だ。



暗い重いフレーズが続いた後、東洋的な雰囲気を持つマンドリンソロが奏でられる。
その後東洋から北の地方を思わせるような2拍子の曲に移る。曲はさまざまな曲想、リズムに変化する。
しかし鈴木静一の曲は変化に富んでいて、その流れが絶妙で、常にストーリーを感じさせてくれる。
その後の中盤は難しいパッセージが続く。ここを上手く乗り切らないと聴く側が曲に対しとまどいや、理解できない感じを与えてしまう。
そしてこの次に激しい心食いこんで来るような悲しい旋律が奏でられる。
ここの部分のパーカションが強すぎると曲を壊してしまう。難しいコントロールの要求される部分である。
立教大学はこの部分のパーカッションを抑制気味にし、上手くコントロールしていた。
そして再び重く暗い曲が続くが、再び主題に戻る。



激しいかき鳴らしが続くが、今日の立教大学の演奏はややおとなしい感じがした。
コーダは壮大な激しいラスゲアードの連続であるが、もっと炸裂するようなパワーを感じさせて欲しかった。
ギターはもっと激しく思いっきりストロークしてもいいのでは。
少なくても私の学生時代はそのように演奏していた。燃え尽きるといっていい。
今日この演奏を聴いて世代の差を感じた。時代が変われば、演奏解釈も考え方、気持ちの入れ方が変わるのは常にあることだ。

第Ⅲ部第2曲目のカラーチェのコンチェルトはピアノとマンドリンオーケストラのための協奏曲であるが、マンドリン用に編曲されたもの。
コンサートミストレスがソロを演奏したが、自ら編曲したようだ。
単音だけでなく、重音、和音が頻繁に出てくる難曲だ。
音は金属弦特有のメタリックな音ではなく、落ち着いたいい音だ。
難しいパッセージのいくつかで音が鳴りきっていないところがあったが、概ねいい演奏だっと思う。
そして今日の演奏会の最後の曲は、チャイコフスキーの荘厳序曲「1812年」。
立教大学マンドリンクラブの定期演奏会の終曲は、クラシックの名曲の編曲物にするのが恒例らしい。
この曲は難曲で、演奏難易度がとても高いと感じた。
部員たちは相当練習してきたのであろうが、今日の演奏会ではこの曲に対し一番思い入れを持っていることが伝わってきた。
第Ⅲ部は総勢80名での演奏だった。

大学のマンドリンクラブの多くが、部員の確保が厳しい現状の中、立教大学は現役部員だけでも70名以上もの人数を有しており、恵まれていると思った。
フルート奏者を常任にしているところがこのクラブの強みだと思う。
管楽器やパーカッションが必要な曲は、賛助を頼むのが普通であるが、この賛助も誠実な人でないとせっかくマンドリンクラブのメンバーが一生懸命曲を仕上げても、賛助の不出来で失敗することがある。
私の学生時代にこのような惜しむべき経験がある。
しかし今日の立教大学にしても先日聴いた中央大学にしても賛助の方のレベルが高く、このことが演奏会の成否を左右していることを痛感する。
今日の演奏で最も良かった曲は、交響詩「失われた都」であるが、自分としてはもっとパワーと炸裂するようなエネルギーの強さを感じさせて欲しかった。
あと、音楽が本当に好きな奏者の演奏は、必ず聴き手の心に伝わってくるものだ。
聴き手が真に音楽が好きであれば、そこに何とも表現し難いが、強い共有を感じることができる。
生の演奏会の醍醐味がそこにある。
学生は当然アマチュアであり、聴き手はプロのような洗練された演奏を期待していない。
むしろ学生特有の、学生時代にしか出せない、何か完全燃焼するような激しさを感じさせて欲しいと思う。
マンドリンオーケストラ曲を心底好きになって欲しいし、その気持ちが全てである。それ以外のものは必要であっても重要性は低い。
聴き手はその気持ちを感じ取りに演奏会に行くのである。


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