クラシック・ギター界には、高い音楽性、技術力を持ちながら、その存在をあまり、あるいは殆ど知られてこなかったギタリストがいる。
何で有名にならなかったのか。
営業力が無いのか、関心が無いのか、自分を売り込むことが嫌いなのか、下手なのか。
野心がないのか、運に恵まれなかったのか。
今まで聴いてきたクラシック・ギタリストの中で、海外のギタリストでまず思いつくのは、ウルグアイ出身のバルタサール・ベニーテス、そしてフィンランド出身のユッカ・サヴィヨキだ。
バルタサール・ベニーテスは以前にも記事にしたが、1970年代半ばに、ジョン・ウィリアムスに先立ち、アグスティン・バリオスのワルツ第3番、第4番、そして最後のトレモロ、ポンセのカベソンの主題による変奏曲などを録音したが、ものすごく感動したし、この録音は20歳の頃に出会ってから何度も繰り返し聴いた。
バリオスの録音はジョン・ウィリアムスよりはるかに音楽的であり、誰も彼を超えられないと思う。
ユッカ・サヴィヨキは少し遅れてその録音に触れたが、先のカベソンの主題による変奏曲などポンセの録音、バッハのプレリュード・フーガ・アレグロ、そしてフィンランドの現代音楽作曲家の録音などを聴いた。
特に バッハのプレリュード・フーガ・アレグロの爽快でかつ知的な演奏、フィンランドの現代音楽のクールな音は、他のギタリストには無い格調の高さというものを感じた。
彼らの録音はかなり繰り返し聴いたし、ずっと聴き続けるに値する力を持っている。
1980年代の終わりに、ルーテル市ヶ谷ホールでスペインギター音楽協会の主催する、ニューイヤーコンサートというのを聴いた。
このコンサートで、スペインギター音楽コンクールの上位入賞者の演奏を聴いたのだが、ある奏者がビセンテ・アセンシオ(Vicente Asencio)作曲の「バレンシア組曲(Suite valenciana)」という曲を弾いた。
アセンシオはナルシソ・イエペスの師匠であり、ギター曲「内なるい印象」で有名であるが、この「バレンシア組曲」はその時初めて聴いた。
このコンサートは協会のさまざまなギタリストやコンクール入賞者が演奏したが、この「バレンシア組曲」だけが印象に残った。
その後1990年代半ばに現代ギター社のGGショップで、この曲を収録したCDを見つけ買った。
演奏者はエドゥアルド・イサーク(Eduardo Isaac)というアルゼンチン出身のギタリストだった。
早速CDの「バレンシア組曲」を改めて聴いたが、がとてもいい曲だった。
多分のこの時代に「バレンシア組曲」を録音したのはイサークだけだったと思う。
アセンシオのギター曲で「バレンシア舞曲」という曲があるが、この曲はメベスという女流ギタリストが録音していた。
そして「バレンシア組曲」を弾きたくなった私は、現代ギター社に「バレンシア組曲」と「バレンシア舞曲」の楽譜と、メベスのCDを注文した。30歳くらいの、団地に住み始めた頃であった。
引っ越したばかりの頃、この「バレンシア組曲」をよく弾いた。
エドゥアルド・イサークのCDを何度も聴き、第1楽章(プレリュード)はほぼ弾けるようになった。
第2楽章と、難しい第3楽章は進まずに未完となった。
第1楽章は親しみやすい印象に残る曲だ。
アセンシオ独特の和声が頻繁に現れる。「内なる印象」や、セゴビアが80歳の時に録音した「深想(Dipso)」に出てくるあの和音だ。
第1楽章はアレグロの速度だが、速度が遅いとこの曲の感じが出ない。
イサークの演奏はメロディ・ラインがしっかりと出ており、歌を歌っているように聴こえる。
このメロディ・ラインが切れずに、つながっているところが素晴らしい。
目立たないが意外に難しい。弾いてみると分かるが、音を持続させることが求められる。
強弱やデクレッシェンド、クレッシェンドが多く、起伏に富んでいるが、全体的に静かな流れるような曲だ。
イサークの演奏は殆ど楽譜に忠実で正統的な演奏であるが、楽譜に書かれていることに機械的に従っているわけではない。
彼の録音を聴くと、楽譜というものは作曲者の意図を完全に記載しきれてないものだと改めて感じる。
例えばフレーズの切れ目で速度を少し落としたり、Pをやや強めに弾いたりなど、楽譜には記載していない部分も、的確な表現で弾いている。
もし楽譜どおりに弾いたら、かえって不自然に聴こえる。
こういう演奏を聴くと、楽譜に記載されていることが全て正しいことだと信じ込んで、楽譜に記載されていることのみが真の作曲者の本意であるから、それに完全に忠実に従おうとする考え方が滑稽に思えてくる。
楽譜に縛られ、逆に支配された演奏は人間的な感情性に乏しく、頭で考えたものをその通りに実行に移す作業をしているに過ぎない。原点を忘れているか、気が付いていない。教育のされ方も悪いのかもしれない。
結局、作曲者は楽譜に全ての意図を書ききれることは出来ないから、後は演奏者の理解力、感受性、そしてそれらを実現する技巧力に依存する。
よく合唱コンクールの講評を読むと、講評者が細かく技巧的なことや、リズムや音価の取り方などを指摘しているのを目にするが、それも必要なことかもしれないがもっと根本的な原点のようなものを伝えることが出来ないのか、と感じる。
演奏者は意識しているかどうか分からないが、聴いていて何か熱いものを感じるのであれば、そのような根源的なものを掴んでいるのではないかと思う。
意図的な頭で考えたものは聴き手に無意識に感じとられるものである。
イサークの演奏をYoutubeで検索したら、かなりの数が出てきた。
その中で1988年頃に録音された、あるコンサートの生録音の映像があったが、すごい演奏であった。
(ちなみに録音と映像は素人のもので良くない)
https://youtu.be/NBZP7C-Gebg
彼が未だ若いころ(といっても40歳くらいか?)の演奏で、これを聴いたら、頭でいろいろと考えて、綺麗に上手く弾くのが正しいと考えている方はショックを受けるかもしれない。
先日聴いた東京国際ギターコンクールの1位、2位の奏者の演奏と聴き比べて欲しい。
音の出し方がまるで違う。
テクニックも凄いが、体の芯から強い音が出ている。
ギターを奏でることに無上の喜びを感じていることが伝わってくる。
軽い表面的な音で、超絶技巧を見せて聴き手を唸らせるのとは全く違う。
イサークの右手と左手のフォームは参考になる。私の理想とするフォームだ。
何故このような奏者がCDを次々に出さなかったのかと思う。
このような最盛期の時期に録音を残せなかったのは残念だ。
Youtubeの最後の演奏曲「最後のトレモロ」は、バルタサール・ベニーテスのトレモロのように粒が揃った美しい音であった。
コンクールに優勝したというだけで注目され、表面的に上手いだけでつまらない演奏を録音し、聴く側もその賞歴や知名度や、レーベルや音楽評論家の宣伝に乗せられて、頭で「これはいい演奏!」とよく分からないけど何となくそのように感じるのだけは避けたい。
【追記20161218】
現代ギター誌のバックナンバーにイサークの記事がないか探していたら、2001年2月号に2度目の来日時のインタビューが掲載されていたので、彼のギターや音楽に対する考え方を抜粋して紹介したい。
・演奏家は聴衆の心を機敏にキャッチできなくてはいけない。そして自分もそれに反応して、またいい音楽をその場で作っていく。そういうコミュニケーションの感覚を聴衆と共有すること、ステージではそれが一番大切だと思う。そして真の演奏家であるならばきっとそれができるはずだ。
・バッハやヘンデルなどの古典曲に対し、「作品に対する表現のイメージが固まって、自分の音楽になっていなければ、聴衆にそれを与えても何も返ってくるものはないでしょうし、レコーディングする意味もないと思う」。
・鍵盤楽器の曲をギターに移し替えることの難しさに対し、「特にバロック音楽の場合、その特徴である声部の”模倣”ができない、つまり対位法的に完璧でなくなってしまうから。まずその辺を編曲、演奏両面で技術的にいかに解決していくかが問題。その次の段階として例に挙げたいのが、ピアニストのマレイ・ペライアが弾いているバッハの「イギリス組曲」。これはハープシコードで表現できない効果を出して成功している。私が目指したアレンジがまさにそれだ。もともとのオリジナルを出来るだけ忠実に移し替え、その後に、ギターの音色や色彩感を効果的に生かせるように工夫してアレンジするのである」
・ピアソラのアレンジに対して、「一番苦労したのは何を取り入れて、何を取り除くかの選択。それを誤るとピアソラの音楽でなくなってしまう。そしてそれを誤らないためには、やはりタンゴというものを理解していないといけない。そうでないとアレンジは不可能だ」
・ピアソラのアレンジにかき立てたものは、「とにかく美しい作品だから。もう大好きでたまらない、この曲を愛している、とにかくアレンジしようという、すべてはその衝動から始まっているいる。すごく大切な自分の国の音楽だと言ういうことももちろんあるし、やはり一番大きかったのは、なんとしてもこの曲をギターに移し替えて弾きたいという、衝動のエネルギーだ。」
・演奏家として一番大切なことは、「誰かより上手く弾こうという考えは、演奏家としては間違いだということだ。大切なのは自身のスタイルを確立して貫き通すこと、そしてそれを聴衆に提供することだ。そのスタイルというのはレパートリーだったり、その人が出す音の個性だったりするわけで、やはりその根本にあるその人の人間としての個性ということが最も大事だと思う。
インタビュー記事を読んで感じるのは、イサーク氏が謙虚な人物だということ。
(上記の記事の抜粋は「です・ます調」で書いていないので、あたかも立派な偉ぶった風に聞こえるかもしれないが、もちろんインタビューでの言い方は丁寧そのもの)
彼のCDやYoutubeの演奏から伝わってくるのは、ギターや音楽が物凄く好きでたまらない、ということだ。
そしてどの演奏にも”歌”が聴こえてくる。演奏が”歌”そのものであるし、ちょっとキザな言い方であるが、熱いハート、情熱のようなものが伝わってくる。それでいて、自分勝手な独断的な解釈ではなく、楽譜もきちんと読んでいる(とくにバレンシア組曲など)。
今回の記事で「根源的な原点」ということを書いたが、まずもってこれが一番大切なことだと改めて考えさせられる。
根幹となる、音楽に対する強い気持ちや感受性が無いと、いくら国際コンクールで表面的に上手く、大きな音量で弾いて優勝しても、後に聴き手の心に残っていかない。
毎年国際コンクールの覇者がその後、その存在を忘れ去られていくのは、イサーク氏が言う「その根本にある人間としての個性」が育っていない、テクニック重視で、その重要性を軽視されているからではないか。