緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

願望と潜在意識の矛盾

2024-08-23 23:16:37 | 心理
最近読んだある心理セラピストのメルマガに、このようなことが書かれていた。

「早く成功したい」と強く願えば願うほど、潜在意識には「でも今は未だ成功していない」というメッセージが届いてしまうのだと言う。

これまた最近読んだ本の中にも同じようなことが書かれていた。
この本によると「上手になりたい」という言葉が多く出てくると、一見上手になれそうであるが、潜在意識がどんなメッセージを受け取っているかというと、「上手になりたいのだから、今の自分は上手ではない、つまり下手なのだな」という「裏メッセージ」を受け取ってしまうのだと言う。

成功したい、上手になりたい、と渇望すればすれほどそれと逆の現実が引き寄せられてしまうという何とも皮肉なことである。
何故このような矛盾したことが起きるのだろうか。

津留晃一氏はどんな解説をしているだろう。
メッセージ集を開いて該当する文章を探してみる。
あった。
「幸せになりたいという気持ちは、今が幸せでないという気持ちの表れです。すなわち、今に不足があるという認識があるということです。その欠落意識からとった行動であなたが満足することはありません。足りないものは無限にあります。足りていないものを追いかける行為は永遠に満たされることはありません。」(メッセージ集「3 今この瞬間が最善」より)
「まずいたらない自分がいて、その不完全な自分を修復していくというのがこれまでの生き方でした。あなたはどんなに努力して自分を修復しようとしても、その根底の所で自分のいたらなさを認め続けているわけですから、永遠に進歩ゲームは続いていくわけです。あなたは、自分を修復させようと想念を発する度に、いたらない自分をもう片方の手で創造し続けているのです。」(メッセージ集「34 鏡」より)

津留晃一氏は今から25年前にこのメッセージを発信していた。
この数年後くらいから、願望達成法や引き寄せの法則といった成功法則の類がさかんに情報発信されていたが、現在では下火になっているようだ。
何故ならば、先述の潜在意識の性質のように人間の心はプラスの思いを持てば願望はかなえられるという単純なものではないからなのだろう。

何故、人は成功を求めるのだろう。
純粋な成功への願望とは異なる動機の願望が意識的に成功を求めるのではないかと思う。
加藤諦三氏の言葉を借りれば「神経症的願望」ということであろう。
その願望の背景に、今の実際の自分を嫌っている、こんな自分では満足出来ないという心理が働いていると思う。

若い頃に読んだ加藤諦三氏の著作の中に、「行動はその背景にある動機を強化する」という言葉が何度か出てきたことがあった。
「今の自分が嫌だ」、「今の自分では至らない」、「今の自分では周囲から受け入れられない」、「今の自分では情けない」など、自分に対する否定的評価から逃れたいという動機から、成功や幸せを願って行動しても永遠に実現することはないということだ。
それどころか、ますます不幸になり心が苦しくなっていくということである。

では何故、人は今の自分を嫌ったり、至らないなどと否定的な見方をしてしまうのだろう。
この理由にはさまざまなものがあり、今までにも何度か記事にしてきたが、1つは他人と自分を比較し、他人の評価に依存していることが考えられる。今風の言葉で言うと、自分軸ではなく他人軸で生きているということだ。
言いかえれば、自分を生きていないということでもある。実に苦しい生き方である。決して幸せになることはない。

願望達成法や引き寄せの法則に吸い寄せられる人は、心に著しい空虚感、欠乏感を抱いている人であろう。そのような人たちを引き寄せて商売をしている方もいる。
では、このような苦しい生き方から脱却するにはどうしたらよいのだろう。

冒頭のメルマガのセラピストも最近読んだ本の著者も津留晃一氏も共通してある考え方を述べている。
それは「今の自分の全てをそのまま受け入れる」、「ありのままの今の自分はすでに満たされている」という心境になるということであった。
津留晃一氏はこのように述べている。
「自分を愛しなさい、大切にしなさいというのは、あなたの外部に何か別のプラスを求めなさいということではなく、あなたが今どんな環境にいたとしても、今のその瞬間が最高であることを知りなさいということです。今そこがあなたの意識の進化にとって最高の環境だからです。」(メッセージ集「7 あるがままに」より)
「そのままの自分を無条件に、愛おしく抱きとめ愛して下さい。自分を愛するのにどんな条件も不要です。それがあなたの源の愛、無条件の愛のことです。自分の全ての部分を、そのままありのまま愛せるようになったとき、初めて他人の欠点もそのまま愛せるようになってきます。」(メッセージ集「10 解脱」より)

私は今までの人生の長きに渡って、自分を激しく憎み、否定し、強迫的に成功や幸福を求めてきた時代があったが、あるとき、これが自分を苦しめ不幸にする原因となっていることに気が付くことが出来た。
そしてその苦しかった生き様を振り返り、その生き様をまるごと理解し受け入れられるようになってからベクトルの向きが変わった。
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札幌演奏会終わる

2024-08-18 23:37:12 | マンドリン合奏
16日、所属する千葉マンドリンクラブと札幌マンドリンクラブのジョイントコンサートが札幌コンサートホール「キタラ」で開催され、出演してきた。

13日に出発。台風が北海道に近づいてきており、欠航の可能性もあったが若干の遅れがあったものの無事到着することが出来た。
宿泊は実家。翌日14日に、1か月ほど前に入院した母の見舞いに行く。
状態はだいぶ悪かった。病院は実家から車で20分くらいの周囲が牧場や畑の多い辺鄙なところであった。実家に住む兄がお盆でも土日以外は出勤だったので、タクシーで行った。
重篤患者以外の病室はエアコンが無いという病院で、主治医も頼りなかった。

お盆だというのに日中はかなり気温が高かった。
実家にはエアコンが無いので、夜は室温30℃の熱帯夜。かなり体力を奪われた。全身汗だくで寝苦しく、また乾燥肌の猛烈なかゆみの襲撃を受け何度も目が覚める。

15日は本番前日の合奏練習であった。
13時から練習会場を使用できるということで、午前中に少し練習した。
札幌マンドリンクラブとジョイントでやる曲(序曲とタプカーラ)は事前にダビングしておいた練習録音を聴きながら練習する。序曲は札幌マンドリンクラブが提供してくれた練習録音を使った。結果的にはこれがすごく役にたった。
千葉マンドリンクラブが単独で演奏する曲(組曲と彷徨える魂)も練習録音を活用した。

13時ちょっと前に会場に着くように出かけたが、札幌駅から地下鉄東豊線に乗り換えるときにルートを間違えたようで地下鉄の駅まで10分以上もかかってしまった。
それでも会場の最寄り駅を降りたときに、千葉マンドリンクラブのメンバーで同じ大学出身の先輩Nさんの姿を見たのでほっとした。
地上に出てからNさんが待っていてくれて、高校時代のマンドリンクラブの初めての定期演奏会をこの会場でやったんだよなどと教えてくれた。
練習会場は区役所と併設した区民センターに中にある施設であったが、昔ながらの会場という感じ。このような施設は東京都内でも結構ある。

会場に着くと、既に何名かの方がたが椅子などのセッティングをしていた。
同じギターパートのWさんやTさんも来ていて、お互いに道中のことなどを話し合う。
残念なことに同じ大学出身のKさんが来れなくなったという話を聞いた。

14時に千葉マンドリンクラブの単独演奏の合奏練習が始まる。
指揮者より、随所での確認事項が指示される。最後の最後までウィークポイントは明確にして、認識しておくにこしたことはない。本番で脳の神経回路が発動してその部分に意識が向けられるからである。
いつも合奏練習のときは私はあまり人と会話しないのであるが、この日はいつもと違って何故か会話が弾んだ。母のこともあるが、今日、明日はそのことを忘れさせてもらって、せっかくの機会なのだから気持ち切り替えて楽しもうという前向きな心境になっていた。

18時から20時まで札幌マンドリンクラブとの合同合奏練習。
大方が初めて会う方がたであったが、母校マンドリンクラブのOBも何人かいた。
隣の席に札幌マンドリンクラブの年配の方が座った。
札幌マンドリンクラブが提示した曲、序曲(吉水秀徳作曲)は変拍子の多い曲。この変拍子に慣れるまで結構苦労した。指揮は札幌マンドリンクラブの指揮者で、私の出身大学のOBのSさんで50周年、55周年記念演奏会で共に演奏させていただいた方だ。
吉水氏は私より3つ上の方であるがほぼ同世代。鈴木静一から始まり、熊谷賢一、藤掛廣幸、帰山栄治といった作曲家の後の世代であり、曲想は親しみやすさを感じさせるものであった。
序曲を演奏していると、途中のテンポがゆるやかになる部分で、かすかに60年代後半から70年代の日本の雰囲気を感じさせる部分がある。
日本が右肩上がりで成長していた、国民皆が活気に満ちていた時代だ。
夕暮れ時、電灯が灯り始め、外でやんちゃに遊んでいた多くの子供たちが家に帰り、家族全員で食卓を囲んでその日の出来事を話す、そんな暖かさを感じさせる昭和の良き時代の断片を感じさせてくれるのである。
勝手な想像であるが、作曲者は自らの子供時代から思春期に過ごしたさまざまな体験で刻まれた記憶から沸き起こる感情をこの曲のモチーフにしているのではないかと感じられるのである。

この曲の札幌マンドリンクラブと千葉マンドリンクラブの解釈はこの上記中間部の解釈で大きな違いを感じた。札幌マンドリンクラブの方がよりテンポがゆっくりであり、この回想的感情をより細部渡って表現し聴き手の心に届けようとしているように感じられたがどうであろうか。
しかし演奏すればするほど色々な感情的な気付きが得られる曲のように感じる。

ジョイント2曲目はタプカーラ第1楽章(伊福部昭作曲)であった。指揮は千葉マンドリンクラブの客演指揮者のKさん。
この曲はもともと管弦楽の曲を遠藤秀安氏が編曲したもの。いかにも伊福部昭が作曲したという曲想であり、代表作「交響譚詩」を彷彿させるフレーズも何か所かある。
この曲も変拍子がふんだんに採用されていたため慣れるまで時間を要した。ただ同一パターンが多かったため、難曲という感じはしなかった。

札幌マンドリンクラブのメンバーが加わったため、多少緊張した。普段間違わない箇所をミスしたりしたが、概ねふだん通りの演奏をした。
合同合奏練習が終わり、隣に座っていた札幌マンドリンクラブの年配の方の顔を初めて見たら、何と私の学生時代の先輩のAさんではないか。
人見知りのため初対面だとすっかり思い込み顔も見ていなかった隣の方がAさんだったとは夢にも思っていなかった。
Aさんから開口一番、「音がでかい!」。「いやいやこれが普通ですよ。そういえば学生時代から私は音が出かかったではないですか」と切り返した。
「今どこに住んでるの?」、「関東某県で、千葉マンドリンクラブの練習会場までこの路線で2時間以上かかるのです」、「その路線、何回か乗ったことあるよ。留まる駅が多くてね」。以外にもAさんはこのマイナーな路線を知っていた。
また大学時代の後輩のベース、O君がいることにも初めて気づき、再会を喜ぶ。

合同練習が終わり帰路についたが、帰りが勤め帰りの兄とほぼ同じタイミングだったので、帰りは最寄り駅から2人でタクシーで帰った。
家でビールとワインを飲む。寝たのが12時頃であったが、1時半に目が覚める。暑さもあるが普段から眠りが浅く、不眠傾向なのだ。本番直前だというのに1時半から3時半まで一睡も出来なかった。
5時50分の目覚ましで飛び起きる。パンとバナナだけ食べて出発。たまたま通勤の兄と一緒に札幌に向かうことになった。
キララホールは札幌中島公園の奥にあった。中島公園は子供の頃に北海道神宮祭で来たことがあるくらいで、中に入ったことはあまりなかったがかなり広い公園だ。
キララホールに着くと、母校マンドリンクラブの先輩Kさんが来ていたので55周年記念演奏会以来で言葉を交わした。
しばらくすると後輩のTがタクシーでやってきた。重たいダンボール箱の運搬を手伝うよう指示される。ダンボール箱を運び終えたのはいいが、自分のマンドリンを外に置いたまま忘れてしまったようで、後から来た方が持ってきてくれるまで自分でも気が付かなかったようだ。

9:30からリハーサル開始。
400人ほどの収容の小ホール。舞台はトッパンホールと同じくらいと感じた(後で客演指揮者のKさんも同様のことを言っていた)。
とにかくスペースが狭い。しかし合同ステージでは指揮がはっきり見える位置に座れたのは良かった。
リハーサルではタプカーラで、ここは絶対に音を入れてはいけない箇所で音を出してしまった。慣れない環境だと平静さを失うことがある。
しかし今回は失敗しても不安はなかった。何故ならば、本番で同じミスをすることはないからだ。
同じ千葉マンドリンクラブのギターパートのTさんの音が後ろからビンビン響いてくる。
私ももっと音を出していいんだ。昨日の大学マンドリンクラブAさんの一言は忘れることにしよう。
確かに冷静に考えてみると、札幌マンドリンクラブは小ホール、千葉マンドリンクラブや別の所属団体である東京マンドリンクラブは大ホールで演奏するので、音の出し方が根本的に違うのだ。
140人編成で2年に1回開催される大規模個展オーケストラの本番演奏録音を聴くと、ギターパートの音があまり聴こえてこない。20数名の人数でもある。
遠達性のある音作りはマンドリンオーケストラギターパートの課題でもある。

昼は弁当を用意していただいた。しゃけ弁当。ご飯大盛を注文していたが、60人以上の参加者で大盛を予約したのは3名のみだったとのこと。
食べる前はあまり食欲を感じなかったが、食べてみるとこれがおいしくあっという間に平らげる。
本番前まで少し時間があるので、練習をする。練習が終わったとき7Fのポジションマークが取れてしまって、跡形もなくなっていることに気が付く。これはやばい!。
1年前からポジションマークを使うようになった。それまで40年以上、ポジションマーク無しで弾いてきたが、演奏の確実性を確保するために使うようになった。
普段は用意周到でない私ではあるが、ギターに関しては結構、準備はしておく方で、万が一のために予備のポジションマークシールを持ってきていたので事なきを得た。ほっとする。

いよいよ本番。客席を見ると予想に反してほぼ満席ではないか。これは大成功の予兆か。
もしかして大学時代一緒に活動した連中も聴きに来てくれているのではないかという期待も膨らんだ。
演奏が始まると、両手の手の平に夥しい量の発汗が生じてきた。
緊張であろう。いつものことだと思いつつも手が滑らないことを祈る。
1曲目、「彷徨える魂」(ボッタキアリ作曲)は出だしの曲にしては上手く弾けた。
2曲目の組曲(二橋潤一作曲)は4曲の選曲。1曲目は概ねの出来。2曲目のアリアは最も思い入れのある曲。ギターパートは独奏曲として弾いても美しい曲であり、今回最も練習した曲だ。これも概ね上手くいった。
終曲のジーグは超難曲。1舜たりとも気を抜けない曲であり、単音中心の技巧を要する曲であるが、1か所少しズレてしまったのが今回の演奏では唯一の心残りとなった。
合同ステージの2曲は正直上手くいった。後でリハーサルで間違えておいて良かったと思った。
序曲の途中で、ギターのみ奏でられる短いフレーズも、いつも練習では上手く弾けなかったが本番では上手くいった。
フィナーレのタプカーラの終結部はかき鳴らしでガンガン、ボルテージを上げた。曲が終わった瞬間は満足感に浸れたのは幸いだった。

今回の演奏会は手に夥しい量の汗をかいたものの、珍しくほとんど不安は感じなかった。
演奏会は楽しまなければ意味はないと、始めから決めていたからであろうか。
音楽そのものに没入すればいいのではないかと思った。音楽と一体になれれば、雑念など生じる余地は無いのである。普段の練習もこの意識状態を作れるようにしていこうと思った。
演奏会終演後、ロビーに行ってみたが知っているかたは大学マンドリンクラブのOB会長のOさんだけであった。少し会話をしたが周りが大きな話声で充満していたため、殆ど聞き取れなかった。

打ち上げはすすきの駅の近くの居酒屋であった。
席の配置は札幌マンドリンクラブと千葉マンドリンクラブが交互の列になっていた。
私は千葉マンドリンクラブのTさんと共に、札幌マンドリンクラブの正指揮者のSさんとギタートップのKさんのいるテーブルの席に座らせてもらった。
Sさんとは1年前の大学マンドリンクラブ55周年記念の際に何度か話す機会があったが、演奏経験は豊富で、マンドリン音楽を相当聴いておられる方であることが分かった。
私が「序曲」の札幌マンドリンクラブの演奏解釈について肯定的、新たな発見があった旨をSさんに語ったが、Sさんはその言葉どおりに受け止めてくれていなかったようで、そのことが唯一今回の演奏旅行で寂しさを感じたことでもあった。

一次会のみの参加で申し込んでいたが、成り行きで2次会にも行くことに。
一次会の終わりで大学マンドリンクラブで一緒だったマンドリンのKさんも話しかけてくれて嬉しかった。
2次会も居酒屋であったが、カラオケでなくて良かった。
札幌マンドリンクラブの若い方とも少し話をした。1次会と同じく、向かいの席は偶然、札幌マンドリンクラブの指揮者Sさんであったが、マンドリン音楽中心の話題だった。
私は藤掛廣幸の「スタバート・マーテル」の話などをした。もっと静かなところで音楽談義をしてみたいと思ったが、居酒屋が騒々しかったのと明日朝早いため十分な会話が出来なかったのが残念であった。

2次会もお開きとなり、帰り際に札幌マンドリンクラブの代表で母校マンドリンクラブの先輩のMさんに挨拶しようとした瞬間、何とMさんの方から声をかけてくれた。遠いところを参加してくれてありがとうと言って下さった。私も楽しかったと謝意を言わせていただいた。
実家についたのが10時半。
明日の帰路の飛行機は運よく欠航にならずに済んだようだった(後から帰省してきた姉から聴いた話では月曜も便まで既に満席とのこと。欠航だったら帰りは火曜日以降になっていただろうに)。
12時過ぎに床に就き、翌日朝5時に目を覚ます。駅までのバスがないため、兄に無理を言って車で駅まで送ってもらった。
千歳空港に着くと、早朝にもかかわらず、大勢の観光客で混み合っていた。
楽器など特殊荷物専用のカウンターに行くと、普通の荷物を預けたり、無人チェックインを利用せずカウンターでチェックインを済ませようとしていた客が多数いて、手続きに時間を要した。
そのため、搭乗は発車間際になってしまい冷や冷やした。
それでも珍しく定刻発車、定刻到着だった。
羽田に9時過ぎに到着し、次の目的地である早稲田に向かう。
東京マンドリンクラブの合奏練習に参加するためである。
早稲田の日高食堂で中華丼を食べ、早めの昼食を取る。
練習会場に行く途中で東京マンドリンクラブの音楽監督のIさんと出会い、千葉マンドリンクラブの札幌公演の話などをする。
途中、昼休憩で昼ごはんに行く途中のギターパートの方がたと出会う。
練習会場に着いたら、意外にも何人かの方がたから話しかけてくれてとても嬉しかった。
普段寡黙な私にはいつになく、会話が苦に感じなくなっている自分がそこにいるのが感じられた。
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札幌演奏会間近

2024-08-12 23:44:38 | マンドリン合奏
16日、札幌市某コンサートホールで、所属する千葉マンドリンクラブと札幌市内のマンドリンクラブとのジョインコンサートが開催される。
これに出演するのである。

マンドリンクラブを掛け持ちして1年になるが、この1年は仕事以外の生活は殆どがマンドリン合奏練習だった。
ギター独奏も音楽鑑賞も旅行にももなかなか時間を割くことが出来なかったが、もういいや、という感じ。ギターの音を出すだけでも満足できる人間なのが幸いというところか。

演奏する曲目はかなり難しいので、正直、今の私の状態では100%の完成度ではない。
でも今回は何故か不安というものは感じない。
やっぱり演奏会というもの楽しまなければ意味が無いと思う。
今回の演奏会は、「完璧に弾くことを目指すことよりも、演奏中にどれだけ楽しめるか。どれだけ「今、ここを」感じられるか」に意識を集中して臨むことを目指したいと考えている。
相方の団体の方との演奏も楽しみだ(同じ大学出身の方も何人かいる)。

心配と言えば、実家の母が1か月ほど前に入院し、状態が思わしくないことだ。先月も急遽見舞いに行った。
14日にまた見舞いに行くが、なんとか回復してくれることを願う。

今日はこれで終わりしよう。明日午前中に少し練習して出発だ。



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ネック反り⇒弦高上昇⇒サドル自作⇒アルハンブラ

2024-08-03 21:15:28 | ギター
梅雨開けの真夏のエアコン稼働で部屋が急激に乾燥し、その影響か、数カ月前にフレット交換修理したギターのネックが順反りしてしまった。
弦高が0.2~0.3mmほど上昇し、12f以上のハイポジションの音を外してしまうリスクを感じたため、サドルを低いものに交換することにした。

既存のサドルは冬場にネックの反りが元に戻ることを考え取り外しストックしておくことにした。
代わりのサドルは、手持ちの牛骨のプレートから高さの若干低いサドルを自作することに。
写真を撮っていなかったが、随分前に買っておいた無漂白の牛骨製のサドル用プレートを使用。
ノギスで計測すると厚みは偶然にも既存サドルの厚みと同じ2.6mmであった。

プレートを万力で固定し、糸鋸でサドルの形状に切断し、あとはサンドペーパーで成型していく。板厚も若干削った。
独特の骨の匂いが漂う。1時間ほどで作業終了。
今まで10数本自作してきた実績があるので作業は慣れていた。

削りすぎないように注意していたが、出来がったものをブリッジに装着し、1弦と6弦を張って12f上の高さを計測してみたら6弦上は意図したとおりで収まったが、1弦上は何と2.6mmとかなり低めになってしまった(意図した高さは2.8~2.9mm)。
張力の弱い楽器で、ナイロン弦がビリ付きやすい楽器なので、これは失敗したと思いつつもまずは全ての弦を張って試奏してみることに。

結果は意外にも高音弦はビリ付かなかった。ビリ付かない上限の高さだと思う。
左手は押さえやすくなった。

弦高は0.1mm変動しただけで弾きやすさに影響するので、メンテナンスで一番気をつかう。
余程当たりがよくないかぎりネックの殆どは反ってしまうものなので、反ってしまったらその時点で弦高調整は必要となる。

サドルやナットの自作というのは素人でも安価で出来るメンテナンスなのでやっていて楽しい。
自分でメンテして弾くやすくなったならば気分は良くなるはずだ。

下は自作サドル完成品を装着した写真。
ブリッジの溝の左右を少しはみ出す長さにした。サドルをブリッジから取り外ししやすくするためである。イグナシオ・フレタのサドルの真似だ。



今回、既存のサドルをブリッジから取り外そうとしたとき、サドルが指ではビクともしなかったので、ペンチでつまみ上げたが、その時にブリッジに痛々しい傷を2か所付けてしまった。
ペンチは厳禁だ(ラミレスはプライヤーでつまみ上げろと言っているが)。指にゴムのサックをはめてつまめば取れるかもしれない。





ブリッジに痛々しい傷を付けたサドル交換後のギターで、アルハンブラを弾いてみた。


アルハンブラ宮殿の思い出 無漂白サドル自作品に交換後 2024年8月3日夕 
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木村麻耶演奏、バッハ:シャコンヌ(二十五弦箏編曲版)を聴く

2024-08-02 22:24:46 | 和楽器
Youtubeで木村麻耶氏が演奏した、二十五弦箏への編曲版によるバッハのシャコンヌ(無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番終曲)を聴いて、その超絶技巧、箏の特性を生かした表現力に少なからず感嘆した。
特記したいのは、恐らくオーストリアのギタリスト、カール・シャイト(1909-1993)のギター編曲版により演奏されているということだ。

カール・シャイトと言えば古い世代のギター愛好家であれば名前を聴いたことがあると思うが、バッハのギター編曲版、作曲家のシャラーとの共著によるギター教本の出版などで知られたギタリストである。
手持ちのレコードを調べてみたら、以下の3枚が見つかった。







そのうちの1枚の解説に次のようなことが書かれていた。

「彼はウィーン音楽アカデミーにギターと理論を学んだが、ギターの教授法にあきたらず、他の有名なギターの教師を訪問したが、ヴァイオリンの勉強法のようなものがギターにはなく失望していた折、スペインの大ギタリストのリョベートが来墺したので、すべての金を投じて、リョベートの演奏会を追って歩いた。
そして、遂にセゴヴィアに会えたことは彼に決定的な勇気を与えたことになった。
シャイトのバッハへの愛着は、必然的にリュートの作品の特別研究に興味を持つことになり、ウィーンのバッハ・サークルの演奏会に関係するようになった。
バッハの演奏を完成するために、有名なオーストリアの作曲家でバッハ研究家のダヴィットのもとで研究を重ねた。
24歳でシャイトはウィーン音楽アカデミーの教師となり、1952年に教授となった。」

カール・シャイトのギター編曲版によるシャコンヌの楽譜があったので見てみると、あくまで譜面をざっと見た限りではあるがオリジナルから逸脱、乖離することのない、シンプルで基本に忠実な編曲のように思われた。









木村氏が二十五弦箏でシャコンヌを演奏するにあたり、何故、カール・シャイトの編曲を選んだのか、興味深いところである。
二十五弦箏でギターのオリジナル曲を初めて弾いたのは二十五弦箏を開発したと言われる故、野坂恵子氏であった。
野坂恵子氏は伊福部昭作曲のギターオリジナル曲である、「古代日本旋法による蹈歌」、「箜篌歌」、「ギターのためのトッカータ」、またリュート曲「バロック・リュートのためのファンタジア」を二十五弦箏で演奏し録音した。
意外にもギター曲を二十五弦箏で弾くことは可能だと言うことだ。
しかし木村氏のシャコンヌの演奏を見ると、弦を弾いている最中に駒を頻繁に移動したり、指をかなり長い距離で移動するなど、超絶的な技法を強いられていることが動画で見てとれる。しかも、体勢を中腰で体を前のめりにしないと演奏できないほどで、非常に体力を消耗するのが伝わってくる。
にもかかわらず音間違えも無くこの長大な独奏曲を弾き切るというのは見事という他ない。

新しい境地を切り開く飽くなき挑戦意欲といったエネルギーを感じさせてくれた演奏であった。


Chaconne J.S.Bach transcribed by Karl Scheit,supplemented by Maya Kimura koto
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