緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

ギター用材 ハカランダかローズウッドか

2014-06-29 01:34:02 | ギター
こんにちは。
久しぶりにギターの話題です。
クラシック・ギターの用材として、裏及び側面の用材はブラジル産のローズウッド、すなわちハカランラか、インド産のローズウッドの2種類が主に使用されていることは、ギターを弾く人であれば殆どの人が知っています。
ハカランダは現在、条約により伐採が規制されており、成長も遅いので、入手することは極めて困難になってきていると言われています。
インド・ローズも良材はなかなか手に入りにくくなってきているようです。
さて、このハカランダは希少価値が高いうえに木目が美しく、硬い材質なので高級家具にも使用されており、この木材を使用したギターは、ローズウッドを使用したギターよりもはるかに高い値段設定がされています。
しかし高級で希少価値の高いハカランダをギター用材に使用することは、単にギターの価格に高い付加価値を与えることが目的ではなく、性能面でより有利だからという見解をしばし聴くことがあります。
ハカランダがローズウッドよりも性能面で有利だとする見解の根拠は、ハカランダの方がローズウッドよりも材質が硬いので、音をより多く、ストレートに開放することができることにあるようです。
ギターの音のそのものは表面板で作られます。弦の振動がブリッジ(下駒)を通して響板である表面板を振動させ、音を発生させます。
裏板の役目は表面板で作られた音を反射させ、サウンドホールに向けて開放し、前方に伝達することだと言われています。
従って、表面板で作られた音を極力ロスすることなく、効率良くサウンドホールに向かって伝達するためには、裏板を、音を吸収しない、硬い材質にすることが求められるというわけです。
だから一般的にハカランダの方がローズウッドよりも遠達性に優れていると聞くことが多いです。
このため製作者の中には、裏板をチタンのような金属製の材質にしている方もいます。
しかしでは、ローズウッドがハカランダよりも材質が柔らかいから遠達性が劣っているといえるのでしょうか。
クラシックギターの名工の中には注文主がハカランダを持ち込んでこれで作ってくれと言わない限り、ローズウッドでしか製作しなかった人がいます。スペインのイグナシオ・フレタ1世の2人の息子達が代表的な製作家です。
他にはハウザー2世や初期のロマニリョスやエドガー・メンヒなどはローズウッドの方が多かったと言われています。
イグナシオ・フレタは現代ギター誌のインタビュー記事で、「音を生み出す点において、ハカランダ材がパリサンドル(インド産ローズウッドの別称)よりも勝っていることは一つもないのです」と言っています。
フレタのギターは多くのギタリストがコンサート用ギターとして使用してきた実績から、遠達性に優れていることは疑いのない事実でしょう。
私はハカランダの楽器もローズウッドの楽器も各数本持っていますが、ハカランダ材の楽器よりもローズウッドの楽器の方が数段音量のあるものもあります。
遠達性を重視するのであれば、裏板の材質をもっと硬いもの、ハカランダよりも硬いものにすれば良いわけです。
しかし殆どの製作家は伝統的な用材しか使おうとしません。
その理由は伝統的な用材以外の材質はギターの自然な響きを生まないからなのではないかと思います。
音量や遠達性が向上しても、ギター本来の自然な魅力ある音が失われてしまったら、意味がありません。
しかし1980年代以降、音量や遠達性の向上を第一に目指して製作された楽器が増えています。
ギターの構造に工学的な技法を用いて材料の一部には科学物質までもが使用される。このような楽器の構造の特色として、表面板は薄くし、振動しやすくすると共に、裏板は厚く頑丈な構造にしています。
これらの構造を有する楽器を作る製作家としてはグレッグ・スモールマン、サイモン・マーティ、マティアス・ダマンなどが有名で、私は彼らの楽器を楽器店で試奏させてもらったことがありますが、音量は不自然なほど馬鹿でかく、高音はヒュンヒュンといった、軽くて雑味のある音でした。ダマンの高音は透明感があったが、色のない無機的でつまらない音でした。
ギター本来の持つ自然な響きを無視し、犠牲にして音量を上げることは馬鹿げていると思います。
クラシック・ギターにPAを使用することはその最たることだと思います。PAはギター本来の音を電気の力を借りて全く別の音に変換して増幅する機能なので、このようなシステムをコンサートに使用するギタリストはクラシック・ギターの音の本質を根本的に放棄してしまっていると言えるでしょう。
ポピュラー音楽や軽音楽を大ホールや野外ステージで演奏するのであれば、このような楽器や音響システムを使用することは時に効果的だと思いますが、クラシック・ギターの音を聴かせるのであれば、適した手段とは到底思えません。
クラシック・ギターを人に聴かせる場としては、大きくても東京文化会館小ホールのような広さのホール、理想は教会のような音響のよいあまり広くない場所です。聴衆の数は制限されますが、元々音量の少ない楽器であるクラシック・ギターの限界を受け入れる必要があると感じます。
クラシック・ギターの音量には限界があります。その限界を超えようとすることは、楽器本来のもつ自然な音の魅力を破壊することに他なりません。
魅力ある音でありかつ、音量の増大に成功した製作家はホセ・ラミレス3世です。しかし音量を増すために楽器のサイズを大きくしなければなりませんでした。
弦長664mmのサイズのラミレスはとても大きな音であり、素晴らしく魅力のある音ですが、弾きこなすのは大変です。1980年代初めまでのラミレスの弦高は異常に高いので、手の小さな人にとってはなおさら大変です。
ラミレスはセゴビアのように大ホールで演奏するためのコンサート用ギターとして開発されたので、弦長を大きくしましたが、弦長を標準のままにして、音量を上げるには伝統的な構造では限界があるので、いろいろ工学的な技法を使って構造をいじることになり、音量を上げれば上げるほどかえって音質は悪くなるという矛盾に陥っているのではないか。このような音量重視の楽器を家で弾いていると大きな無機質な音が耳障りとなり、イライラしてくるようになると思う。
結局木材の持つ自然な響きから生まれる音の素晴らしさを最大限に追求した楽器こそが、聴き手の心を癒したり、豊かにしてくれるものだと思うのである。
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エアクリーナー・アウトレットホース交換

2014-06-28 22:41:38 | 
どんよりとしたすっきりしない天気だ。
テレビが突然映らなくなったり、レコード・プレーヤーの音が片側しか聴こえなくなったりと、電気製品の調子が悪い。取り換えとなると痛い出費だ。
今日は車の話です。
今乗っている車は軽の小型四輪駆動車なのだが、四輪駆動にするためのトランスファーという駆動装置や、リーフスプリングといった重量の重い部品を装備しているので、車体重量が重くなり、出だしの加速が普通の軽自動車に比べ何倍も遅いし、アクセルを強く踏み込まないと後ろの車に追突されかねないほどの遅さである。
それでもターボが付いているので、速度を上げるにつれてスピードも上がってくるが、私の車は口径の大きいタイヤを履いているので、加速はかなり苦しい。
つい数か月前まで、ブリヂストンのジープ・サービスという6.5インチの大口径タイヤを履いていたが、高速道路の上り坂、例えば関越自動車道の新潟県と群馬県の県境にある三国峠という長く急な上り坂を上る時など、アクセルを目いっぱい踏む込んでも最高40kmの速度しか出ず、峠の頂上にある三国トンネルの手前で後ろのトラックに迫られてヒヤヒヤしたことがあった。
それにこのタイヤ、ものすごく大きな騒音がするので、車の中で会話をするときなど、大声で話さないと人の話声など聴こえたもんでない。高速道路を走る時などカーラジカセの音量をMAXにしないと聴こえない。
このジープ・サービスは数年前に生産中止となった。とんでもないタイヤだったが、デザインや形状が良く、気に入っていた。
出だしの加速時にアクセルを強く踏み込むとそれだけガソリンを多く消費する。燃費の悪い車は加速する時により強くアクセルを踏み込まないとスピードの出ない車である。出だしが加速の良い車はそんなにアクセルを強く踏む必要はない。燃費を良くするには出来るだけアクセルを踏まないようにすることで、これを意識して運転すれば、少しではあるが燃費を良くすることも可能だ。
しかし私の車は車重が重い上に大きいタイヤを履いているので、アクセルをどうしても強く踏まざるをえなく、燃費はちょっと人に言えないほど悪い。
今まで少しでも加速が楽に出来るように、社外パーツを試みてきた。金属製(アルミ)のインテーク・パイプや、タコ足のエキゾースト・マニホールドなど装着したが、正直何も変わらなかった。変わったとしてもほんの極くわずかといったレベル。タコ足のステンレス製のエキマニなど高価であったが6、7年で亀裂だらけになり、車の中にまで排気ガスが入り込む始末で、これは数か月前の車検の時に、溶接で直してもらった。
それでもあきらめずに、出だしの加速に効く社外パーツで何かいいものがないか探していたが、インターネットでエアクリーナー・ボックスから伸びているアウトレット・ホースがゴム製ではなく、金属製(ステンレス)のものがあるのを見つけた。単にゴムが金属なったというだけでなく、パイプの中にに吸気効率を高めるために仕掛けがしているらしい。



この手の製品に対しては半信半疑のところもあるのだが、ボーナスも出たことだし、手の届かない高い値段でもなかったので損を覚悟で試してみることにした。
今日これが届いたので、早速、純正のゴム製のアウトレット・ホースをエアクリーナー・ボックスとタービンから伸びるパイプから外し、装着して車を走らせてみた。



下の写真は外した純正のゴム製アウトレット・ホース。



結果は、驚くような加速ではなかったが、確実にアクセルが軽くなり、加速が良くなっていた。特に緩やかな坂道でより効果が体感できた。
思うに、出だしや坂道での加速時にレスポンスを上げるためには、吸気系の手当てが必要なのではないか。排気系は平地での高速運転では効果を生むが、加速時の馬力が必要な時には圧倒的に吸気系の効率性が必要とされるように感じる。車重の重い車を長い間乗ってきた経験から感じることである。
次のボーナスの時にはインタークーラーからサージタンクまでの間にあるゴム製のインテーク・ホースを、真ん中が大きな筒状に膨らんだ金属製のパイプを試してみようと思っている。
燃費がリッター1km改善されれば、1か月500km走るとしたら約800円、今までよりもお金を費やさなくて済むことになる。この金属性パイプにかけた投資が約1年で回収できることになるので長い目で見れば得である。
燃費の改善は長い期間で考えれば、生活にとってとても重要なことではないか。
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クラウディオ・アラウのライブ演奏を聴く(2)

2014-06-21 22:51:30 | ピアノ
雨こそ降らなかったが、すっきりしない天気だ。でも灼熱の太陽が降り注ぐよりはましだ。
先日、ピアノの巨匠、クラウディオ・アラウの1968年のライブ録音の紹介をしたが、今日も彼のライブ録音を紹介したい。
アラウの最盛期の頃の1953年、リストのピアノ協奏曲第2番イ長調のライブ演奏である。



前回の1968年のライブでのアラウの音は多彩で、ピアノから様々な音が聴こえてくる円熟期の演奏であったが、今回の1953年の演奏は音に力がみなぎり、テクニックも完璧に近いほどの演奏である。
古い時代の録音でこもったような音であるが、それにしても素晴らしい音だ。
どんな音であるかは実際にCDで聴いていただくしかないが、生命力があるというのか、聴く人にエネルギーを湧き起こしてくれるような音である。それは演奏が終わった後の聴衆の熱狂ぶりを聴けば分かる。
この協奏曲は超絶技巧の連続はないが、おそらく聴衆は技巧ではなくアラウの音に感動したのではないか。
こんなライブなんて一生に1度聴けるかどうかである。アラウの最盛期に生きていたなら、きっと海外に行ってまでも聴いてみたいと思うだろう。
こういうライブ演奏に出会いたいが現代ではほとんどチャンスはなくなってしまった。
アラウはピアノという楽器から魅力ある最大限の音を引き出すことに人生を賭けた演奏家だと思う。
彼の演奏を聴けばそう思わずにはいられない。ホロヴィッツなどのヴィルトゥオーゾとも違うタイプだ。
楽器から素晴らしい音を引き出すこと自体は多くの演奏家が努力してきたことだ。
ギターでいうと1980年代以降、新しい音を引き出すためにそれまでとは異なる技法が出現し、今日までスタンダードな音の出し方として定着したが、成功したとは思わない。
均質で粒の揃った、軽い音による演奏が主流となったが、私にとってはつまらない音楽となってしまった。
しかし豪快な力強いタッチで弾けば聴き手を感動させることができると考えるのは短絡的だし間違っている。
コンクールで豪快な派手な音で演奏して優勝することもあるが、じっくり何度も聴きたいような音楽ではないと思った。
楽器から素晴らしい音を弾き出すためには少なくても3つのことが必要だと思う。1つは音楽での「音」が人間の感情から発したものであることが自らの人生体験により心底理解できており、、その感情を楽器を媒体として聴き手に伝達することこそが自分の使命だと感じていること、2つ目は、その楽器の音が自分に感性に最も合致していること、3つ目は高い音楽教養に裏付けられていること。
少し立派な言い方になってしまったが、要は音楽の中には作った人の生々しい感情が流れていることがあり、その感情を感じ取れる能力が必要だと思うのである。
例えばリストのピアノソナタロ短調という曲がある。このリストのピアノ曲を聴くと、作曲者の生々しいどろどろとした感情が流れていることがわかる。このような曲をみかけきれいな均質な音で非の打ち所がない演奏で聴かされてもしらけてしまう。どんなに名の知れた演奏家であってもちゃちに聴こえる。時に均質な音が汚く聴こえる。作曲者の感情が本当に分かっていないから、このような演奏になるのではないか。
だからと言って大げさに感情的に弾けばいいというものではない。このような大げさな演奏は曲がわかっているようでわかっていないと思う。結局、作曲者が何を感じて、どんな思いでこの曲を作ったのかが自分の感情として理解できればおのずと楽器から素晴らしい音を引き出すことになるのではないかと思う。
アラウの演奏を聴くにつれその感じ方は強まる。その演奏には高い音楽的教養の積み重ねが土台になっていることは言うまでもない。
いつか紹介したアンドレス・セゴビアの弾くポンセのソナタ・ロマンティカの録音を聴くと、作曲者の感情の流れとセゴビアの感情の流れが完全に同化してしていることに気付き、これこそ真の名演だと感じたことがある。神業としか思えない精神の領域で演奏していると思った。
チェロの巨匠ピエール・フルニエはセゴビアの弾くギターの音にいたく感動し、セゴビアから多くのものを学んだと言われている。
ギターという楽器からどういう音を引き出したらよいのか。先に述べた均一な音を求めるアプローチもあるが、私はクラウディオ・アラウなどの数名のピアノの巨匠の演奏からその答えを引き出せるのではないかと思っている。
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舘野泉演奏 モンポウ「内なる印象」を聴く

2014-06-15 21:50:22 | ピアノ
先日紹介した、舘野泉が演奏するフォーレの夜想曲を収めたCDに、スペインの作曲家であるフェデリコ・モンポウの「内なる印象」も収められていた。
モンポウの自作自演のCDを聴いたのは15年くらい前であろうか。モンポウの自演録音の中では「歌と踊り」が素晴らしかったが、「内なる印象」の第5曲目「悲しい鳥」も何度も聴いた。
今回「内なる印象」の全曲を舘野泉で聴いたのだが、正直驚いた。フォーレの夜想曲の時も期待半分で聴き始めてその繊細な表現や曲の本質を捉えた解釈にびっくりした。大抵フォーレの夜想曲第1番の演奏には期待を裏切られることがほとんどであるからだ。
今回聴いた「内なる印象」の演奏もとても繊細で、素朴であるが精巧でもあり自然な温かみを感じるようなガラス細工のような音楽を聴くことができた。
音量の選択、テンポの選択、ちょっとした音の加減でも曲の持つ価値を歪めてしまう程の曲であり、演奏法である。
決して音を強く弾かない。音をことさらに強調することもない。しかしこれほど心に食い込んでくる音があるだろうか。
9曲全てが1つの曲のように感じられる。どの曲も演奏いいが、特にお勧めは「哀歌3」と「悲しい鳥」と「ジプシー」。これらの演奏は実に素晴らしい。聴けば必ず心の底の感情を開放されるような演奏だ。
ピアノには華麗な曲や演奏がたくさんある中で、こんな素朴な短い曲で人に深い感動を与えることのできる、この舘野氏の弾き方は、演奏以前に何かもっと大切なものがあることを教えてくれる。

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クラウディオ・アラウのライブ録音を聴く

2014-06-15 01:21:17 | ピアノ
しばらく雨、風の強い日が続いたが、今日は快晴だった。午後は仕事に出かけたが、久しぶりに太陽の光にあたり気持ちのいい1日だった。
このところベートーヴェンのピアノソナタの聴き比べは一休みし、代わりにリストのピアノソナタロ短調の聴き比べに力を入れている。
CDやレコードは大抵がスタジオ録音であるが、たまにコンサート・ホールでのライブ録音に出会うことがある。
ライブ録音はミスが必ずといっていいほどあり、奏者のミスが気になる人には向いていないが、演奏者の力量、音楽性の現実をそのままに感じ取ることが出来るので私は好きだ。
一発勝負の音楽人生を賭けた演奏には気迫がこもり、昨今のスタジオによる継ぎ接ぎや加工だらけの人工的なスタジオ録音に比べるとその価値は格段に違ってくる。録音もホールでの音そのものに忠実なのがいい。
しかしライブ録音で大きな感動を得られたものは少ない。
ピアノでは、今まで聴いた中ではミケランジェリのベートーヴェン・ピアノソナタ32番(1988年)、ホルヘ・ボレットのカーネギーホールでのライブ(1974年)、マリヤ・グリンベルクのシューベルト歌曲集(リスト編曲、1976年)くらいか。
今回、ピアノのライブ録音で新たに素晴らしい演奏に出会った。
その録音とは、クラウディオ・アラウ(1903~1991)の1968年、サンティアゴでのリサイタルでのライブ録音である。



曲目は以下のとおり。

1.巡礼の年 第2年 「イタリア」より第7曲「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」(リスト)
2.ピアノソナタロ短調(リスト)
3.ピアノソナタ第26番(ベートーヴェン)

クウラディオ・アラウの円熟期の演奏であるが、凄い演奏だ。
聴いて一番驚くのはピアノの音の響きである。これほど多彩な音の響きを引き出せるピアニストは故人を含めて何人いるだろうか。
1つの和音でも何十種類もの音の響きが聴こえてくるようなのだ。ピアノという楽器のもつ機能を全て余すことなく引き出していると思う。
以前にも何度か書いたが、器楽奏者の最も重要な使命の一つは、楽器本来の持つ音の魅力を最大に引き出すことだと思う。
アウラの演奏を聴くとピアノという楽器は実に多彩な音を持つ楽器であることが分かるが、その音の魅力を引き出すことなく透明で一見美しいように思えるが、単調な音しか出せないで終わっている演奏は多い。
アラウが65歳の時の演奏であるが、決して力任せの打鍵をしていないのに、強く重厚な音を出している。
マリヤ・グリンベルクも67歳頃のライブ演奏(シューベルトの歌曲集)で力を入れていないのに、底から響いてくるような強く深い重厚な音を出していたのに驚く。これには何か長年の演奏活動からつかみ取った秘技のようなものがあるのではないか。ポリーニのような音とは雲泥の差である。
ただ楽器から魅力ある音だけ引き出してもそれだけで素晴らしい演奏、聴き手を真に感動させる演奏にはなりえない。
加えて、長い時間をかけて研鑽を積んで得た高い音楽性、芸術性といったもの、奏者のこれまで人生経験から得た感情表現能力、感情エネルギーの伝達能力が伴っていないと聴き手に十分な感動を与えるまでには至らないであろう。
ギターで言うと、ホセ・ルイス・ゴンザレスの音には素晴らしいものがあるが、芸術性の極みという点では今一つ欠けていたために、本当に深い感動を得るまでに至らなかったと思う。やはり楽器のもつ音の魅力を引き出すだけ、感情エネルギーの強さだけでは不十分なのである。それにプラスアルファするものがないと。
ベートーヴェンやリストのソナタを聴くと世俗の世界を超えた崇高な精神性、何か非日常的もの、日常の世界ではそう味わえない感情や、曲の持つ構築性の深さといったものを感じることがあるが、ここまでの領域まで踏み込んで表現した演奏が聴き手に本当の感動を与えるのであると思う。
こう考えていくと器楽演奏にとって最も重要な要素は次の3つなのではないかと思う。

1.楽器本来の持つ魅力ある音を最大限に引き出しているか。
2.音に感情エネルギーを伝達できているか(特に作者の感情との一体化、同一化)。
3.演奏が高い芸術性に裏打ちされているか。
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