■[荒らし対策]高樹沙耶さんのブログが荒らされた件:厨房の珍ボランティア論(CLick for Anti War)
リンク先は女優の高樹沙耶氏がボランティアを募集したら、荒らしが押しかけてきましたよ、という話。詳細はリンク先をお読みいただければと思いますが、高樹氏のブログに脅迫・セクハラ・いやがらせコメントをした人々の珍ロジックを取り上げたものです。そしてこの超理論の根幹にあるのが以下の思いこみであるとclaw氏は指摘します。
(1)ボランティアとは、地震救済やゴミ拾いなどのように、公共のために行うものでなければいけない。
(2)よって、カフェのような営利目的の施設をつくるのに、ボランティアを名乗るとはおこがましい。
さて、他人を引き合いに出すのはここまでです。困ったことにこの手のボランティア観は少なからず蔓延していますし、労組や労働運動、社会運動に対しても似たような観念が広まっているのではないでしょうか。労働(社会)運動とは、公共のために行うものでなければならない、と。
まぁ別に公共のために行われても結構なことですし、長期的視点で見れば公共のためになるケースが多いわけですが、結果的に公共のためになるとしても、それを目的とする必要はないのではないでしょうか。つまり、公共のためではなく自分のため、自分を守るために労働運動に与する、そういう発想が受け容れられるべきなのです。労組にしても両親のように自分の面倒を見てくれる存在ではなく(そう考えている限り期待は裏切られ続けます)、自分を守るために寄り集まった集団として捉えるべき、思うのです。
ところが、この他人が「自分を守ろう」とすることに対する白眼視が強いのです。「労働(社会)運動とは、公共のために行うものでなければならない」そう信じている人々は「国を守る」「自治体の財政を守る」などの「公共のため」であれば、それに追随します。しかし、「自分を守る」為の運動であれば、それはすなわち否定の対象であり、既得権益を守ろうとする云々、モンスター~、そういう扱いになってしまうのです。ある人が隣人の要求を「公共のためでない」として否定し、同時のその人の要求もまた隣人によって「公共のためでない」として否定される、そんな仕組みです。
833 :無名の共和国人民 :07/06/10 23:04:17
国家や企業が本来自分たちの利益を守ってくれるものと考えているところがウヨのウヨたる所以とも言える。
左派は、「放っておけば」国家は支配層の利益を、企業は企業(株主?)の利益を、優先すると考える。だから政治活動や労働運動により積極的に介入することによってコントロールする必要があるとする。社会保障や労働者の待遇改善を求めるという結論は同じでも、一方は本来自然にそうなるもの、他方は自分たちが積極的に要求して初めて実現するものと、途中の考え方が全く異なる。
834 :無名の共和国人民 :07/06/11 12:03:23
連中、水戸黄門や遠山の金さんの見過ぎで平和ボケしてるんだろう
自由も尊厳も絶え間ない格闘で権力から奪い返さない限り常に奪われ続けているという認識が無さ過ぎる
ドラマの中の水戸黄門は実態とかけ離れた空想上の人物なのに、繰り返し見せられているとあの行いだけは
イメージとして刷り込まれ、実態を伴ったものとして定着していく
あれも一種のプロパガンダだよな
出典(一部省略)、
http://yy31.kakiko.com/test/read.cgi/x51pace/1140156221/833-834
「公共のため」に真面目にやっていれば、いつか正義の味方がやってきて正しい裁きを下してくれると、そう期待している人もいます。小泉や橋下(もちろん彼らは正義のヒーローじゃありませんが)を歓呼の声を持って迎えた人々がそうです。とんでもない、救世主の降臨など未来永劫ありえません。献身的にやっていれば報われる日が来るなどという事はなく、いいように搾取されるだけです。
誰しも欲望を持つ、それを前提にしなければなりません。労働側も当然、欲望を持ちますし、同様に経営側も欲望を持ちます。聖人君子などいません。ここで必要なのは善意や道徳ではなく、もっと現実的な対策です。経営側に善意を期待するのではなく、権利を奪い返すための努力、己の欲望を経営側の欲望に拮抗させる努力が必要なのです。そこで求められるのは公共のため、世のため人のためといった大義名分の真偽などではなく、単純に自分達を守るために要求を押し通すことです。権力もまた自らの欲望を押し通そうとする中では、それが均衡を保つ方法です。そしてそれが可能であるためには、世論がその足を引っ張らないことも重要なのですが―――何でも「公共のために行うものでなければいけない」とするような「私」を否定する発想が根強い限り、旗色は悪そうです。
確かに。基本的なポイントを押さえた論点提示だと読みました。管理人さんも「無名の共和国人民」氏のも。国家に対しては意識的に疑いを持って規制していかなければ成らないですよね。これが民主主義のスタートだったのですよ。
少しだけ、何故国家に自由権を簡単に与えたがる人たちの意識が一定成立するかに一時的に見える場合があるのかと考えた場合、国家と公共の区別がはっきりさせられていないからなんではないでしょうか?
普通の人々が身近の生活空間で幸せ・自由・協力・平和というイメージを感じるのが公共空間とつながっている理解をした場合、それは誰でも納得しやすく逆らえないし利害も公平に分配されるような安心をもたらすものでしょうね。
それを国家が一部の強者の所有として、公共を称することによって大多数の普通の住民・国民を従わせようとするのではありませんか。公共のためといえば強制力も隠しやすいし、国民が自ら進んで税金にも軍隊にも協力しやすいという劣った民主主義になってくれるわけですね。
公共意識を姑息に利用されないようにしたいと思うわけですよ。そういう意味では国民はお上から公共への協力といわれても素直に肯く前にもっと「ごっつく」構えるようにした方が良いのではと思えるわけです。
では。
そうですねぇ、国家と公共が混同される、一方で個人と公共が相容れないものとして扱われるせいもあるでしょうか。ここで「公共」が旗印にされることで国家による個人の抑圧や侵害が正当化されてしまう、「公共」の中身を疑う努力も必要ですね。
>warmgunさん
御紹介をありがとうございました。warmgunさんのブログも拝見させていただきます。
>慎太郎の夢は終わったさん
本当は、「私」や「個人」がよりあつまった集合体が「公共」なんですよね。自分の為も公共の為もお互いに矛盾しない、それがいつの間にか「公共」=「滅私」になってしまったようで……
>貝枝五郎さん
う~ん、検索した程度じゃどういう本かわからないのですが、どの辺がお奨めなんですかね?
ある意味ではツァーリズムと言いますか、国民が善なる皇帝を待ち望んでいるようなところがあって、政府与党や石原・橋下の類はその辺に上手くつけ込んでいますね。非民主的で、国民主権の意識がないと言いますかねぇ。