飛騨牛偽装:丸明に立ち入り 「おいしい肉」信じてたのに 憤る客、同業者ら(毎日新聞)
規格外の牛肉を「飛騨牛」と表示していたとして養老町の食肉卸売会社「丸明(まるあき)」に農林水産省岐阜農政事務所や県の立ち入り調査が入った23日、関係者に大きな動揺が広がった。地元では、丸明の小売店は多くの人が利用する有名店。店を愛用していた人たちは、信じていた「おいしい肉」をめぐる今回の問題に憤った。
養老店では、丸明の関係者の女性が、なじみ客らに対して「ごめんなさい。すいません。がんばります」と謝っていた。日ごろから丸明の直営小売店の養老店(養老町)を利用しているという西濃地方の男性会社員(35)は「家族で焼き肉をするので買いに来た。信じられない。安くておいしいのに」と残念がった。また吉田明一社長と従業員が、偽装の指示をめぐって対立していることについて「見苦しい。従業員はうそをつかない」と、社長の指示があったと主張している従業員側を信じている様子だ。
養老町の主婦(62)は「だまされた、という気分。飛騨牛というブランドを、長い歴史を重ねて作ってきたのに、たった1社のことで信頼が損なわれると思うと残念」と悔しそうだった。
この後、社長は自分の指示による偽装であったことを認めたわけですが、それはさておき「安くておいしいのに」道行く人は何を残念がっているのか、そこを問いたいです。安くて美味しくてもブランド品じゃなければダメ、じゃぁ高くて不味くてもブランド品ならありがたいのでしょうか? 食品偽装云々を巡ってはことあるごとに繰り返しているわけですが、ラベルの誤魔化しに憤る人ばかりが多い一方で、その品質を問う人があまりに少ないのではないでしょうか?
「安くて美味しい」肉を求めていたのなら、別に欺されてはいません。安くて美味しかったわけですから。この場合に「欺された」が成立するのは、品質の高い肉ではなく「飛騨牛」というブランドを追い求めていたケースです。中身ではなくブランドの真贋に拘って初めて「欺された」が成り立つのです。まぁ、良ければ下記リンク先のdr.stoneflyさんのエントリも読んでください。
「最近、丸明の牛肉を食った」…騙すのはいけないけどさぁ(dr.stoneflyの戯れ言)
さて今回の事件、極論すればこんな印象です。ある会社の社長さんが、新人を一人欲しいと思ったとします。この社長は「A型の人は真面目だ」と信じていたとしましょう。そして採用面接です、「君の血液型は?」「A型です」「良かろう、A型なら安心、採用だ」と。そして採用された新人君はバリバリ働いて、社長にも高く評価されました。ところがある日、社長は気付きます。なんと新人君の血液型はB型だったのです! 新人君は血液型を偽装していました! 新人君は懲戒解雇されました。そして同僚は「信じられない、安い給料でよく働いていたのに」と残念がり、A型の同社お局は(62)は「だまされた、という気分。A型というブランドを、長い歴史を重ねて作ってきたのに、たった一人のことで信頼が損なわれると思うと残念」と悔しがります。めでたしめでたし。
血液型とブランドを一緒にするなって? いやいや、血液型で人の資質や能力を判断するのが誤りであるのと同じように、ラベルでモノの善し悪しを判断するのだってナンセンスです。どんなラベルが貼られていようと中身は変わらないのに、その中身を問うことなくラベルに書かれたブランドを追いかける、ちょっと立ち止まってみる必要があるのではないかと。時にアイドルの年齢を巡って訳の分からない騒ぎになることなどありましたが、その人が営業年齢の25歳であろうと警察発表の35歳であろうと、その人が若返ったり老け込んだりするものではないでしょう? ラベルがどう書き換えられようと中身は一緒なのです。
じゃぁ、何で嘘を吐くのかって? それは、需要に応えるためでしょう。自分の血液型をA型だと偽った新人君は何故嘘を吐いたのでしょうか? それは自分の能力よりも血液型がA型であることが問われていたからです。中身を問われるのであれば、彼は自分の資質を示そうとするでしょう。しかしA型であることを求められたのであれば、A型を装うほか採用される術はありません。同様に、品質を問うよりもまず第一に、ブランドであることを求められたのであればどうなるでしょうか? 答えは自ずから明らかです。
「安くて美味しい」モノよりも「飛騨牛」というブランドをありがたがる、そういう需要があったからこそこの手の偽装が後を絶たない、内容や品質を問うよりも看板を見て判断する、だからこそ看板を偽ることが大きな意味を持つ、そうした社会的要因を抜きにして語られるべきではないと、そう思うのです。ブランドという他人が作り上げた基準でモノを評価するのではなく、自分の考えでモノを評価する、そういう社会であればこの手の偽装は意味を失いますし、そうなるべきなのです。それはもちろん、食品に限らないことですが―――
で、世に言うニセのヴィトンやバーキン、シャネルを買っている人たちは、それによってなにがしかの満足感をえているわけですが、ニセの牛肉を食べてご不満な方は、高い物を食わされて「だまされた」と考えているのならその怒りは分りますが、やはり自分の信じていたブランドにだまされたと考えることが悔しくて仕方ないということなのでしょうか。人間、信じているものから裏切られるのは残念なのでしょうね。
それとこれとは関係ないという話ですが、ブッシュなどという私たちからすればうそつきで信用できない人間の極致を信じちゃう拉致被害者家族もいるわけです。牛肉のだましなら笑えますが、あんな奴を信じて裏切られたと嘆く姿は、なんとも愚かで気の毒に思えます。
発覚した場合のリスクを勘案して自粛するところもあるでしょうけれど、(偽装の)需要は減少していませんから。
>Bill McCrearyさん
結局、ブランドという実態のないものを中身とは切り離して追い求めているからこそ、中身はしっかりしていてもブランドに偽りがあれば苛立つのですよね。一方でブッシュは「宗主国大統領」というブランドでしょうか。単に社交辞令で話を合わせてもらっただけなのに期待を抱いた人には気の毒ですが、あの人は中身もなければ先もないと言いますか……
結局、オノレの五感が貧相であることに気づかず、「ラベル」と「金」を食っているのではないかな? また、おっしゃるように食べ物に限らない。ほんとにしてもウソにしても情報が溢れている世の中であるこそ、全てにおいて「オノレの感覚」を鍛えないといけない気がしてます。
ブランド物は「安心」の点で一役買っているという面もあるのではないでしょうか。
まあそれも幻想ですが。
温暖化キャンペーンなんかも含め。
それはそうと、この手の偽装問題を
けしからん!とピックアップするメディアの目的の一つに
「消費者庁(悪法)の設置」にむけた世論の醸成があるように思えますが、どうなんでしょう?
成る程。良く理解出来る話ではあります。確かにこうして落ち着いて尚且つ、全体を見渡して見れば安く良い肉を求めていたわけでは無く、ブランドをありがたがっていたと言うことがありありとしてきますね。
私は野球が好きなのですが、例えばミズノがアオタモの木が無くなったと言う事で桐の木(脆いので使い物にならない)に切り替えても、ありがたがれるのか。今回の問題は、ブランドが抱える問題が少し垣間見えた気が致します。
また、そういう訳の分からないブランド嗜好と、ブランド主義が横行している事が良く分かります。
ブランドが欲しいのか、良品が欲しいか、どっちなんでしょう。私には分かりかねます。
拙ブログでも言及しましたが、「資本主義」の世の中である以上「利潤追求」が至上課題な訳で。
そうなれば騙そうが法螺を吹こうが「ブランド」に踊らされる側にも問題がありそうです。
http://d.hatena.ne.jp/osahune/20080624/1214310608
我々一般庶民が「あこぎな商人」から騙されない方法は「安いオーストラリア牛肉」を買い、「中国産野菜」を買う事かと思いますが。
北大路魯山人や海原雄山のような食通でもなし、化学調味料と添加物満載のスパイスで舌をやられた我々がどちらがどちらかを判断できるかというのは本当に難しいと思いますしね。
市場において『ブランド』というのは『信用』『格付け』と同様の働きをします。
直接品質を調べられない場合や、素人には品質を判断できない場合に、
品質に対して『お墨付き』を与える機能を持っています。
特に農産物は、一見してその品質を見抜けません。
そのため、産地や銘柄は流通において大きな意味を持ちます。
需要はあくまで品質に対するものであって、ブランドはそれを示すものです。
実際『飛騨牛』ブランドには等級を保障する要件が含まれます。
一方、ブランドは、品質や真贋を見抜けない人のためにも機能しています。
それだけに、今回のような信用へのただ乗り行為に対しては脆弱です。
偽ブランドつかまされるレベルの者は、品質を求めるに値しない。
真贋を判断できずに、独り歩きしたブランドに騙される方が悪い。
そういう見方もあるのかも知れませんが…。
鋼鉄でも『SS400』を使うべきところで『SPHC』を使ったら大変です。
強度が2/3ぐらいになってしまいます。消費者には見分けがつきませんが。