極左党の党旗を作りました
敢えて日の丸をベースに、「国旗に寄せ書き」という日本ならではの独自の慣習を活かして極左党の公約を刷り込むことを意図しました。
サイズが大きいため、興味のある方はこちらのリンク先から参照ください。
極左党の党旗を作りました
敢えて日の丸をベースに、「国旗に寄せ書き」という日本ならではの独自の慣習を活かして極左党の公約を刷り込むことを意図しました。
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だいぶ以前のエントリで「(大物)演出家が嫌い」と書きましたが、日本の演出家では浅利慶太が随一のビッグネームでしょうか。この人は活動範囲が広いので方々に顔を出しており(かの大クンニ中曽根康弘とも関係が深いとか)、舞台芸術に興味のない人でも知るところでは長野オリンピックの開会式が挙げられますね。まぁ今さら長野オリンピックと言われても記憶の彼方、ましてや開会式ともなれば尚更のことですが、個人的には印象に残っている部分もあります。それは聖火台に火を点けるとき、プッチーニの「蝶々夫人」が使われていたこと―――
さてプッチーニというのはイタリアの作曲家で、「蝶々夫人」というオペラの元になった戯曲はまた別の人が書いたわけですが、有名なのはプッチーニが曲を書いたオペラの方ですし、長野オリンピックで使われたのもプッチーニの音楽ですので、とりあえずこのエントリで「蝶々夫人」とはプッチーニのオペラの方を指すものとして読んでください。で、この「蝶々夫人」がいかなる作品かと言いますと……米兵が15歳の日本人女性を現地妻にして、捨ててしまう話です。
メインヒロインは蝶々夫人こと「Cio-cio-san」、この蝶々さんの父親はMikadoに命じられてハラキリしてしまったため母子家庭なのですが、ともあれ蝶々さんは「Kami Sarundasicoの罰が下るぞ」と警告する叔父の「Bonzo(坊主)」を振り切り、15歳にして米兵ピンカートンの現地妻になります(もちろん、欺されてのことです)。案の定ピンカートンはすぐにアメリカに帰ってしまうのですが、蝶々さんは夫の帰りを待ち続けます。ピンカートンの帰国後に生まれた彼の子供と一緒に。
で、最後にはピンカートンが日本に帰ってきます。アメリカで結婚した「本妻」を連れて。そこで蝶々さんが未だに自分の帰りを待ちわびていること、子供がいること(他には再婚話を全部断ったとか諸々)を知るわけですが、かといって蝶々夫人とヨリを戻す気にもならず、じゃぁ子供だけでも引き取ろうかという話になります。そこで世を儚んだ蝶々さんは子供を残して自害、感動の?フィナーレです。あらすじはこんなところですが、自民党の定義ならバッチリ児童ポルノに該当しますし、少女を妊娠させて自害に追い込むなんて辺りは、タイトルのイメージだけであることないこと書かれて批判された某エロゲーより酷いくらいですね。まぁ芸術なんてこういうものです。そんな高尚なものじゃありません。変にありがたがっている人が多いだけです。
……で、どうしてこんな作品が長野オリンピック開会式のモチーフに使われなければならなかったのでしょうか? この辺は当時の音楽雑誌でも多少の批判はあったような記憶があります。なにしろ日本人とアメリカ人(外国人)の断絶の物語なのですから。日本をモチーフにした西洋人の作品としては最もポピュラーな部類に入るのでしょうけれど、オリンピックの精神に相応しいかは甚だ疑わしいところです。
人によっては、これも「愛」のテーマなのでしょうか。愛する人をいつまでも想い続ける、美談として扱われるものなのかも知れません。でもその「愛」とやらは実は完全な一方通行で、利用されているだけの関係だったりもするわけです。あるいは、気まぐれで一夜を共にした女性がストーカーとなって主人公男性が追い詰められる、そんな筋書きの映画を観たことがあります(タイトルは忘れました、洋画です)。作中では女性(ストーカーになる前)が主人公男性と「蝶々夫人」を観に行くシーンがあるのですが、この「蝶々夫人」がストーカー女性のモチーフともなっていました。さっさと縁を切りたい男性、一方でいつまでも追いすがる女性、その象徴として「蝶々夫人」が使われていたのです。こうした「蝶々夫人」観は多数派ではないと思いますが、決してお涙頂戴の美談としてのみ語られるべき作品でもないでしょう。
プッチーニには日本を舞台とした「蝶々夫人」の他に、中国(北京)を舞台にしたつもりの「トゥランドット」という作品があります。周知のように「蝶々夫人」は日本が舞台とあって、極東の島国では大人気なのですが、一方の「トゥランドット」は長らく中国では上演許可が下りなかったそうです。政治体制の違いもあるでしょうけれど「西洋人が見た日本」を諸手を挙げて大歓迎し続けている日本と、「西洋人が見た中国」に難色を示した中国、中国は野暮と言えますが日本は何とも尻軽な印象を受けます。
これが「中国人が見た日本」や「韓国人が見た日本」となると逆の反応を示すのでしょうけれど、「西洋人が見た日本」は歓迎されるのが通例です。だからこそ「蝶々夫人」は日本で大人気、オリンピックの題材としても使われたわけですが――それって「『西洋から見た日本』を全面的に受け容れますよ」みたいなメッセージを発信しているイメージもありますね。日本はオリエンタリズムを全面的に受け容れます、と。あるいは永遠の片思いの象徴として、「裏切られても騙されても、アメリカを信じて付いていきますよ」というメッセージでしょうか。先方からは気味悪がられているかも知れませんけれど。
まぁ「蝶々夫人」の音楽そのものはかなり好きなのですが、私はあまり、こういうタイプのヒロインが好きじゃないのですよね。相手を疑わず、利用されても頑なに信じ続ける、片思いであっても「愛」を貫き通す、いつまでも男を待っていてくれる――こういうタイプのヒロインへの需要は少なくないのでしょうけれど、私はあまり魅力を感じません。最後の場面でピンカートンを刺しちゃうぐらいの方が好きかな? 切り落としたピンカートンの首を銀の皿に載せて口づけするくらいやってくれれば妖しい魅力が出てくるのですが、そりゃ別の作品ですね。
制作者不詳
日本の1人あたりGDP世界ランキング推移
------25-24-23-22-21-20-19-18-17-16-15-14-13-12-11-10--9--8--7--6--5--4--3--2--1
1991年----------------+----------------+--------------+-----------● 5位 宮澤
1992年----------------+----------------+--------------+--------------+-● 4位 宮澤
1993年----------------+----------------+--------------+--------------+----● 3位 細川
1994年----------------+----------------+--------------+--------------+----● 3位 羽田 村山
1995年----------------+----------------+--------------+--------------+----● 3位 村山
1996年----------------+----------------+--------------+--------------+----● 3位 橋本
1997年----------------+----------------+--------------+--------------+--● 4位 橋本
1998年----------------+----------------+--------------+----------● 6位 橋本
1999年----------------+----------------+--------------+--------------+-● 4位 小渕
2000年----------------+----------------+--------------+-------------------● 3位 森
2001年----------------+----------------+--------------+------------● 5位 小泉
2002年----------------+----------------+--------------+-------● 7位 小泉
2003年----------------+----------------+-------------● 10位 小泉
2004年----------------+----------------+-----------● 11位 小泉
2005年----------------+----------------+● 14位 小泉
2006年----------------+----● 18位 小泉
2007年----------------+--● 19位 安部 福田
2008年------● 23位 福田 麻生
ヘリオット・ワット大学(イギリス)の調査によると、ヘビメタのファンとクラシック音楽のファンには共通点が多いそうです。「どちらも創造的で穏やかだが社交的ではない」とか。逆に相違点としては「クラシック音楽のファンは自尊心が強く、ヘビメタのファンは自信に欠けている」そうです。ふむ、人生の負け組まっしぐらの現在こそヘビメタファンの私ですが、前途有望な学生時代はクラシックの方が好きでしたから、とりあえず私に関しては綺麗に当て嵌まるようです。ちなみに「インディーズ音楽のファンは自尊心に、ポップ音楽のファンは創造性にそれぞれ欠け、カントリーとウェスタン音楽のファンは勤勉で、ラップ音楽のファンは社交的な性格の持ち主」……という傾向が3万6000人を対象とした調査から浮かび上がったとか。
それでまぁ、大学時代まではクラシックが好きだったわけです。歌モノが好きだったので特にオペラが好きだったのですが、しかるに気に入らないものもありました。何よりまず「演出家」が嫌いでしたね。演出家に対する世評も含めて。なにしろ演出家が作品を台無しにしてしまうことがしばしばで、演奏家には拍手、演出家にはブーイング、オペラでは珍しくない光景です。ところがそれは素人の反応とされ、評論家やちょっと通ぶった人は逆の反応を示したりします。ブーイングを浴びた演出家に対して「わかったフリ」をすることで、「モノのわかった自分」を演出するのがプロと半可通の嗜みだったりするのです。そんなわけで、上演を台無しにしてブーイングを浴びるような演出家ほど、その筋では大家と評されて立場が強かったり。
もしかしたら「自分の演出によって作品全体を輝かせる」タイプよりも、「作品を利用して自分の演出をアピールする」タイプの方が、演出家本人の評価は高くなるのかもしれません。前者であれば、演奏家の評価を高めこそすれ、演出家の存在は陰に隠れがちですから。音を出さない演出家が脚光を浴びるためには、まず周りの足を引っ張るくらいのことが必要なのでしょう。そんなわけで、ダメな演出家ほど出世するわけです。
オペラに限らないことかも知れませんが、ダメな演出の基本中の基本は「舞台を現代に置き換える」ですね。これはあまりにも使い古された手法ですが、演出家として名を挙げるための必須要件のようです。だから自己顕示欲の強い演出家ならば皆、判で押したように同じことをやります。せめてもうちょっとオリジナリティのある演出を、そう思わないでもないのですが、本当に独創的なものは排斥される、あくまで「個性的風」に止まらないと評価されないのはどこでも同じ事なのでしょう。
……で、「舞台を現代に置き換える」の標的にされる作曲家の№1はリヒャルト・ヴァーグナーでしょうか。割とファンタジーっぽい、神話や伝承をモチーフにした作品の多いヴァーグナーですが、舞台を現代に置き換えることでスケールダウンさせられてしまうことがしばしばです。神々の王がスーツ姿で部下の突き上げにオロオロされてもねぇ……
ヴァーグナーの代表作と言えば、かの長大なる「ニーベルングの指輪」です。上演は4夜に及び、チャイコフスキーが「疲れた、私のような専門の音楽家でも疲れるのだから……」と評した超大作です。元の台本に忠実な演出もあれば、例によって舞台を現代に置き換える演出、物語のキーになる指輪を貨幣に見立てた演出、多々あるわけですが、ここは一つ「ジークフリートは何故死んだのか/不死でなくなったのか」を軸に新解釈を主張してみようと思います。
台本では、指輪を狙う悪役によって背後から刺されてジークフリートは死亡します。正面からなら無敵だが、背後から襲われたから敗れた…… この「背後からの匕首」のイメージはドイツ社会にそれなりに浸透したようで、第一次大戦でのドイツの敗因をこれに結びつける人も多かったそうです。つまりユダヤ人や共産主義者が足を引っ張ったから、奴らがドイツ軍の背後から刃を突き立てたから負けたのだ、と。
一方で、「ニーベルングの指輪」の元ネタである叙事詩の中には設定の異なるものもあります。ジークフリートは竜を殺して指輪を強奪するわけですが、その際に竜の血を全身に浴びたことで不死の肉体になった。ただし、体の一部が葉っぱで隠れていたため、一カ所だけ竜の血を浴びなかった部位が残ってしまった。その葉っぱで隠れていた部位を刺されたことで死んでしまう、と。やはり全裸で戦うべきなんでしょうね。草君だったら最後まで不死身でいられたでしょうに。
そこで新解釈ですが、キーになるのは「近親相姦」です。ただその前に、なぜ「近親相姦」がタブーとされているのでしょうか。近親相姦が認められると一家の中で関係が完結してしまう、社会が広がらないからだ、そう考える人もいます。つまり近親相姦が許されないために、女性を外に出す、女性を外から迎え入れる必要が出てくる(上記は男系社会の場合、女系社会であれば男女が逆になります)、家族の外の人間としか結婚できないので、必然的に家族の外と関係を持つことになる、そうして社会が構築されるのだと。だから社会が形成されるためには、近親婚が否定されねばならないわけですね。
一方で、神話の世界は濃密な近親相姦の世界です。父親と娘、母親と息子、兄弟同士や親戚同士など当たり前です。「ニーベルングの指輪」のヒーローであるジークフリートも同様、彼の両親は双子の兄と妹です。そしてジークフリート自身は伯母に当たるブリュンヒルデを娶るわけですが、これくらいは神話世界の住人なら当たり前の話なのです。
しかるに、話が進むとジークフリートは他所の男から差し出された娘を受け取り、ブリュンヒルデをその男に引き渡してしまいます。同族内部の近親婚の関係を破棄して、外部の女性を迎え入れる、外部に女性を差し出したわけです。この瞬間に人間社会が構築され、神話世界が否定されたのではないでしょうか。近親相姦を止めて、よその家の女性と契ったことによってジークフリートは神話世界の住人から普通の人間になった、ゆえに不死ではなくなったのではないかと。……こういう路線で演出してみたらどうかとも思うわけですが、既に誰かやってますかね?
「女性の実生活に害を与える書物について真剣に議論するつもりなら、何よりもまず『聖書』と『コーラン』から始めるべきである。それはポルノではないが、狂信者たちを中絶医療機関に爆弾を投げるよう駆り立て、あるいはアルジェリアの女子校生の喉を掻き切るよう駆り立てている」
―――誰か
さて国会では児童ポルノ規制とそれに乗じた諸々の規制論議が戦わされ、一方ブログ界では実態から著しく乖離した、言わば「脳内エロゲー」としか呼びようのないものに対する議論が局所的に盛んです。時にそこでは、かの光市母子殺人事件の被告像のように論者の頭の中で「悪魔化」されたイメージばかりが肥大化しているわけですが、勿論それは誤った選択の元にしかなりません。
政府与党案は、ある意味では潔いと言うべきか「何でもかんでも規制」です。とかく曖昧になりがちなポルノ規制ではありますが、自民党案は「とにかく全てダメ」ということで良くも悪くも曖昧さからは免れています。一方で「良識派」の中には許されるものと許されないものを選別しようとする人もいます。その人なりの熟慮に基づいているであろうものもあれば、安易なものもあって、例えば「芸術性」を免罪の条件に挙げる人もいるわけです。その「芸術性」の曖昧さはさておき、ともあれ「芸術」と認定されたものならポルノではない、ゲームや漫画はダメだけれど「文学」はOK、そう語る人もいます。
この考えにはいくつか疑わしい点があります。まず「文学史」の観点からすれば明確な誤りです。現代において「文学」として「ポルノではない」扱いを受けていても、その発表当時は猥褻である云々といった理由で発禁処分を受ける、著者や訳者が罪に問われる、そうして例はいくらでもあったのですから。作品そのものではなく、当時の社会や倫理基準にこそ問題があった? いやいや、ならば今だって同じ事です。今日、批判者の中でとんでもない「モンスター」のように「思いこまれている」エロゲー(ポルノの中では、紛れもなく最も保守的なファン層を持っているだけでなく、ちょっと凄まれただけで白旗を掲げて転向を表明するヘタレどもが牛耳る業界なのですが)や各種ポルノだって、将来どうなるかはわかったものじゃありません。偏見が消えない保証、社会的な枠組みが変わらない保証はないですから。
ある時、ロシア文学者のヴラジーミル・ナボコフについてレポートを書くことになり、それまで興味のなかった氏の代表作である『ロリータ』を買いに行きました。ただその当時、たまたま女児の誘拐殺人事件がセンセーショナルに報道されていたもので、他意はないにせよ、そういう話題が世間を攫っている最中に『ロリータ』を買いに行くのもどんなものだろうと、電車の中で一人ニヤニヤしていました。でも、何ら問題なく書店に『ロリータ』は陳列されていましたし、会計も普段通り、何事もありませんでした。
「文学の死」を感じたのはその瞬間です。『ロリータ』ってのは要するに前科ある小児性愛者が少女を拉致監禁して性的暴行を加える物語ですが、それっぽい事件がマスコミを賑わせている最中に普通に売られていることが「文学の死」を感じさせたのです。結局のところ『ロリータ』は文学としてポルノへの非難から免れている一方で、社会的な警戒からも黙殺されている、社会的な影響を失っているわけです。かつてのロシアでは文学者が政府から目の敵にされ弾圧されるのが日常茶飯事で、それはソ連時代にも続きました。日本でも小林多喜二のように警察に殺された作家がいます。社会情勢の変化もあるでしょうけれど、かつてのように文学が危険視されなくなったことは認めるしかないでしょう。
つまり「現役」扱いされていないのだと思います。文学はもはや「今そこにある」危険分子ではない、権力によってマークされる対象からも外れ、道徳家からも「これは芸術だから」と有害性をスルーされる、現代における「文学」の地位とはそんなものです。言うまでもなく、これは文学にとっても不幸なことです。「芸術性」を理由に「これはポルノではない」として文学作品その他を否定の対象から外そうとする人もいます。でもそれは、対象をクモの巣の張った骨董品扱いするような態度でもあります。文学/芸術に理解を示すかに見えて、その実は「今、そこに生きているもの」として扱うのを止めているのですから。
往々にして「権威」になったら終りです。かつては既成の権威に対して荒々しく異議を申し立てていた人であっても、功成り遂げていつの間にか「権威」として既存の体制と仲良く肩を組むようになる、よくあることです。そしてそうなったら、文化人としては終りですよね。文学を含むメディアも同様、カウンターカルチャーであることは必須ではないかも知れませんが、それが政府や道徳家が公認する「よい子のカルチャー」になったら、まぁ文化としては寿命でしょう。