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非国民通信

ノーモア・コイズミ

アリバイ作りのコスト

2017-04-02 23:49:14 | 雇用・経済

 今年も4月になりました。勤め人にとっては異動の季節ですけれど、皆様の職場はいかがでしょうか。私の勤務先では例年以上に大幅な人員のシャッフルが行われることになり、職場は大混乱です。部門の実権を握っている人と、その取り巻き連中こそ不動である一方、東京の本社勤務の人間が一斉に地方へと飛ばされ、入れ替わりで地方の人が東京にやってきます。要するに「東京と地方で人を入れ替えただけ」ですので人員数としてはどこの拠点も増減はありません――が、人を入れ替えるのにも時間やコストは当然ながら、かかるわけです。

 男性正社員は必ず転勤させる、という日本社会の常識に染まりきっているところもあるのでしょうけれど、それが奏功しているかどうかは今以て判然としません。それはもう、特定エリアの拠点にテコ入れするため、あるいは撤退するときなどは転勤も必要にはなるのでしょう。しかし、東京の人間を名古屋に移動させ、名古屋の人間を東京に移動させる、この人事が会社に何か利益をもたらすのか、そこは人事権を持つ人の希望的観測や思い込み以上のものはないように思います。

 特に私の勤務先なんぞは給与以外の福利厚生が親会社の水準に合わせてあるせいか、転勤関係の手当はムダに手厚かったりします。もちろん転勤する人にとっては転居に伴うコストが埋め合わせされるだけですが、会社が費やす費用は大きく増大するわけです。社員を転勤させればさせるほど、会社のコストは嵩みます。ならば経営合理化の一環として転勤を減らす、それでコストカットを計るのも合理的ではないかと、そんな風に自分は感じました。

 私の勤務先で異動が例年以上に多かったのは、たぶん会社の業績が悪いからです。会社の業績が悪いから、役員は親会社への言い訳を用意しなければならない、そのためには東芝風に数値を膨らませることもさることながら、「改革しています」というポーズを取る必要も出てくるのでしょう。「経営改善に向けて大幅な組織変革を行いました」と、そうやって将来に向けて対策を採っているフリをするわけです。しかし、そのアリバイ作りのために要するコストは決して小さいものではありません。

 前にも描きましたけれど、気象予報士に「明日は晴れです」と「言わせる」事は出来ます。しかし、明日の天候を晴れにすることは誰にも出来ません。会社経営も然り、お偉いさんが部下に「(目標達成)できます」と言わせてはいるのですが、それが現実になることは滅多にないわけです。東芝よりは規模が小さくとも、似たようなことをやっている会社は日本中いくらでもあることでしょう。しかし、「明日は晴れです」と言わせたところで明日が晴れになったりはしないのです。むしろ必要なのは、明日の天気が悪くなることを受け入れて適切に対策を立てることの方でしょう。しかるに会社で偉くなるような人ほど、青い鳥なんていないという現実を受け入れたがらないようです。現実を直視できない人に権力を与えるのが日本的経営なのだと考えるほかありません。

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踏み絵としての目的だけは果たしていると思いますが

2017-02-12 22:24:17 | 雇用・経済

その転勤、笑えますか? 辞令1枚で家族の人生が変わるのは、仕方ないことなのか(BuzzFeed News)

労働政策研究・研修機構は2016年11月、転勤の実態調査を発表した。転居を必要とする人事異動がある企業の割合は約3割(2004年)で、大企業ほど転勤が多かった。単身赴任者は年齢が高いほど多い傾向があり、50代男性では4.5%となっていた(2012年)。

転勤の期日や日数をルール化していない企業が過半数。社員の事情を「配慮する」としたのは約7割だった(2015年)。

15社のヒアリング調査(2015年)により、転勤には人材育成や経営幹部育成の目的がある一方で、人事ローテーションの結果、欠員が生じて玉突きとなった転勤も存在している、とした。

 

 引用元の記事は今年の1月末に公開されたものですが、なんでも「転居を必要とする人事異動がある企業の割合は約3割(2004年)」なのだそうです。大元からして2016年なのに2004年のデータと言うのが微妙に思えますね(素人ブロガーが調べるのをサボって書いた記事じゃないのですから)。ただ労働政策研究・研修機構によると、転居を伴う異動がある企業の割合は1990年調査の時点では約2割とのことで、わずか14年間で1.5倍に増加しているようです。もしかしたら2017年の時点では、もっと比率は高いのかも知れません。

 ともあれ「転居を必要とする人事異動がある企業の割合は約3割」と聞いて、皆様はどう感じましたでしょうか? 自身の就職活動の感覚からすると、もっと多いと思っていました。むしろ転勤を強いられない会社の方が圧倒的少数派であろう、と。まぁ職探しをするのが都市部か地方かでも違いますし、従業員が3人とか4人とかの零細企業(転勤なし)が7社と従業員10,000人の大企業(転勤あり)が3社あれば、転勤有りの企業は全体の3割程度という計算になるわけです。従業員ベースで考えれば「転居を必要とする人事異動」に迫られる人の方が多数派であろうな、という気はします。

 なお「社員の事情を『配慮する』としたのは約7割だった(2015年)」そうです。企業が考慮するという「社員の事情」とは、いったい何なのでしょうね? 真っ先に思い当たるのは「家を建てた」辺りでしょうか。昔から「家を建てると(会社を辞められないから)になる」と、よく言われたものです。実際、私の父もそうでした。そして(これが今回の記事を書くキッカケだったりしますが)私の住居の向かいに一軒家を建てたばかりの人も転勤が決まったとのことで、まぁ「家を建てたら転勤させられる」ってのは決して都市伝説ではないのだな、と痛感しました。

 もう一つ、私の勤め先でも管理職に就いていた女性が辞めることになりまして、他人のプライベートな話を拡散させて憚らない同僚によりますと、夫が海外転勤になったので妻の方が会社を辞めることにしたのだそうです。「女性が活躍できる社会」云々と喧しい時代ではありますけれど、「夫の転勤のために会社を辞める」女性はヨソでも結構いるのではないでしょうか。年収を103万円未満に抑えているようなパートならいざ知らず、曲がりなりにも管理職に就いていた女性でさえ辞めるという決断を下さざるを得なくなる、転勤とは実に罪深いですね。

 そして「転勤には人材育成や経営幹部育成の目的がある」とも伝えられていますが、その目的が転勤によって果たされたのかどうかは問われるべきです。転勤は「させるのが当然」と会社側が考えているだけで、実は従業員だけではなく会社側にとっても負担にしかなっていない、何の果実も生んでいない可能性もあります。実は転勤などさせなくとも育成は出来ていたかも知れない、少なくとも会社側は各種の手当を付けて社員を転勤させる以上、その効用(あるのかないのか)を測定するぐらいした方が良いでしょう。男性正社員は転勤させるのが当たり前という常識を、日本社会全体で疑うところから始める必要があると思います。

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残業にも色々ありまして

2017-02-05 22:19:18 | 雇用・経済

 職場に働くママが増えたら残業が大幅に減った、なんて話も聞きます。悠長に残業なんてしていられない人が職場の多数派になれば当然、残業を減らそうという動きにも繋がるのでしょう。逆に家に帰ってもやることがない暇人が多数派を占める職場ですと、必要もなくとも残業をする人が増える、それに付き合わされる人が増えて残業時間は際限なく延びていくわけです。昨今、日本の職場の残業時間の長さは生産性の低さと並んで問題視されることが多いですが、どうしたものでしょう。

①全く忙しくないのに残業している人

 まず一口に残業が長くなる場合でも、幾つかパターンがあるように思います。条件判定の最初は「忙しいか、そうでないか」ですね。仕事が忙しいわけではないのに、自分の業績を盛るために必要のない仕事を創ったり、あるいはダラダラ居残るばかりで実はおしゃべり以外は何もしていなかったり等々、仕事が多いわけではないにもかかわらず長時間の残業を続けている人も多いように思います。こういう人々が、長時間労働と生産性の低さの両立を可能にしているわけです。

②忙しいが、実は営業活動上の必要性がない場合

 例えば日本を代表するブラック企業であるワタミの場合です。(現行の残業時間の定義からは外れるのかも知れませんが)休日の課外活動への強制参加や、教祖の本を買って感想文を書いて提出しなければならなかったりすることが知られています。これらは会社の営業活動において全く必要性のない事柄ですが、しかし実質的な業務命令として従業員に課されるものであり、労働時間の長期化への影響は大きいです。一見すると不合理な代物ですが、利益よりも理想を追いがちな日本企業では珍しくもないといえます。

③本当に忙しく、必然性がある仕事のために帰れない人々

 これは低賃金労働に多く、必要な業務量に比して人員が少なすぎるために起こるパターンです。このパターン③だけが日本の長時間労働の原因であったなら、時間当りの生産性が最低レベルに落ちるようなことはなかったでしょう。そして最も犠牲を強いられている層でもありますが、その負担の重さに応じた対価が支払われているかと言えば、真逆だったりするのですから色々と不条理です。

・・・・・

 この辺はハイブリッド化する場合もありまして、例えば電通の場合①仕事を創る文化があり、②飲み会などの業務時間外の拘束が厳しいなどの理由で二重に従業員の負担を重くするタイプと考えられます。あるいはワタミの場合は②休日の過ごし方まで会社に強制され、③店舗での勤務中は本当に忙しく勤務時間も長いなど、こちらも二重に社員を追い詰める仕組みが出来ているわけです。また会社によっても配属部署次第のところがありますから、全社的に見れば①②③のパターンを網羅しているところは少なくないでしょう。

 ともあれ一口に長時間労働と言っても原因は様々でして、取るべき対策もそれに応じたものでなければ、意味がないどころか逆効果になってしまいます。①のように必要性もなく残業している部署に人員を追加したら、今まで以上に「余計なこと」を始めて事態を悪化させてしまいますし、③の本当に忙しい部署にノー残業デーを導入しても歪みが大きくなるばかりです。まず時間外の増加の理由を見極めるところから手を付けなければ行けません――が、総じて間違った対応策が全社的に採られがちに見えますね。

 ①の本当は暇な部署では残業がラマダーンの断食みたいな意味合いになっていることも多い気がします。残業することが組織への帰属意識を表す儀式みたいになっていて、仕事が片付いたからと定時で帰れば異教徒のような扱いを受けたりするわけです(まぁ自分の体験談ですが)。そして本社の管理部門の暇人が仕事を創ることで、「下」の部署は「(上からの指示で)やらねばならないが収益には結びつかない」仕事を強いられる、上記②のパターンができあがったりもすると言えます。

 ③の本当に忙しい場合も会社全体として見れば、必ずしもどうしようもない人員不足とは限らないのではないでしょうか。一人当りの業務量が過大な現場の裏には、暇をもてあまして余計なことしかやらない①の本部があったりする、それは珍しいことではないはずです。あるいは①が創った「余計な仕事」のために現場の業務量が増えていることもあるでしょう。必要のない仕事をリストラできれば、忙しさも多少は緩和されます。そして①の暇人を本当に人手が足りない部署に送り込めばバランスも多少はマシになります。もっとも①のパターンが当てはまる人ほど「忙しいフリ」をするのが得意で、かつ偉い人ほど実態を理解できていなかったりするものですが。

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国境税論議が垣間見せる消費税の実態

2017-01-15 21:53:47 | 雇用・経済

米議会、「国境税」を検討=輸出を優遇、輸入に負担-トランプ氏も同調(時事通信)

 【ワシントン時事】米議会共和党は、輸入への課税を強化し、輸出は税を減免する「国境税」の導入を検討している。法人税制改革の柱となり、トランプ次期大統領が掲げる、企業の生産拠点の「米国回帰」を促す仕組みだ。ただ、保護主義的な面があり、世界貿易機関(WTO)協定に抵触する恐れがある。

(中略)

 トランプ氏はこれに同調するように「国境税」という言葉を使って、企業の米国外投資計画を批判。5日にはトヨタ自動車をツイッターで「巨額の国境税を課す」と脅した。

 米国の連邦税制には、日本や欧州のような付加価値税(消費税)がない。日欧の企業は完成品の輸出時に原材料の仕入れで払った税を返金されるが、米企業は輸出時の税還付がない上、日欧などの輸出先で課税され、「貿易競争で不利」と不満を募らせていた。このため、国境税により企業の米国内投資、雇用創出が促されるとの期待がある。

 

 さてトランプ氏が大統領選に勝利して以来、日本の株価は上昇局面に入ることも多く、これが報道では専ら「トランプ次期政権の経済政策に期待」云々と伝えられています。確かに、日本の財界人や経済誌が好むタイプではありそうです。しかるに名指しで日本企業が非難されていたりもします。トランプは日本人に精神的な喜びをもたらす指導者ではあっても、決して経済的な利益をもたらす類いではない、それが実態ではないでしょうか。まぁ、日本人は利益より理想を追うものです。保護主義や企業優遇を「あるべき姿」と暗に主張することが多い日本の経済言論とトランプの主張は、相性が良いのかも知れません。

 それはさておきアメリカの企業間では「日本や欧州のような付加価値税(消費税)がない」ことへの不満が募っていたそうです。例によって日本の財界人は消費税増税が必要だと執拗に強弁してきたものですが、やはり消費税とは企業にとっての益税となりがちなのでしょう。だからこそ企業から望まれるわけです。そして日本では消費税増税は専ら社会保障のためですとか財政健全化のためですとか、増税とは無関係な「お為ごかし」で己の欲望を隠して主張されるのが普通です。一方アメリカ企業はストレートで偽りがないと言いますか、消費税がないと「貿易競争で不利」なのだと語る、要求は同じでも日本の財界には「いやらしさ」がありますね。

 少し補足しますと国内の消費税が8%の場合、「A社がB社から1000円で材料を仕入れ、A社が完成品を海外へ輸出」した場合、仕入れには約74円の消費税が課されます。この74円は原材料を販売した「B社が」納税しなければなりません。ところが「完成品の輸出時に原材料の仕入れで払った税を返金される」仕組みがあるため、この場合は消費税分74円が「A社へ」返金されることになります。消費税は「B社が」納税し、「A社へ」返金される、そういう構図になっているのです。

 実際のところ消費税を「負担している」のが販売者なのか購入者なのか、そこははっきりしません。ただ手続きとして「納税する」側と、「返金される」側は明確に定められているのが現行制度でして、これを歓迎(あるいは切望)している人と、そうでない人がいるわけです。もし「原材料を仕入れる輸出企業」が消費税相当分を仕入れ時点で完全に負担しているのであれば、消費税の有無による損得や有利不利は発生しません。支払ったものが、帰ってくるだけですから。しかし消費税を負担しているのが仕入れる側ではない、納税する販売者側であったならば?

 もし全額ではなく何割かでも消費税を販売側に負担させているのなら、輸出企業にとって消費税とは至高の益税となります。消費税が上がれば上がるほど、「原材料の仕入れで払った税」との建前で自社に金が振り込まれるのですから。もちろん「原材料の仕入れ」時点で「仕入れる側」が100%の消費税を負担しているならば、所詮はプラスマイナス0でしょう。しかし日本の財界人は挙って消費税増税が必要だと主張してきました。そしてアメリカの企業もまた、連邦税制に消費税がないことへの不満を募らせていることが伝えられています。日米ともに「企業が消費税増税を望んでいる」と言う現実は、何を意味しているのでしょうかね。

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泳ぎ続けないと死んでしまう魚もいます

2017-01-08 22:29:31 | 雇用・経済

(我々はどこから来て、どこへ向かうのか:3)「経済成長」永遠なのか(朝日新聞)

 アベノミクスの大黒柱である日本銀行の異次元緩和はお札をどんどん刷って国債を買い支えるという、かなり危うい政策である。にもかかわらず世論の支持が高いことが不思議だった。

 思えば「成長よ再び」という威勢のいい掛け声と、「必ず物価は上がって経済は好循環になる」と自信満々の公約に、人々は希望を託したのかもしれない。

 希望をくじいたのはくしくも日銀が放った新たな切り札「マイナス金利政策」だった。昨年1月に日銀が打ち出すや世論調査で6割超の人が「評価できない」と答えた。いわばお金を預けたら利息をとられる異常な政策によって、人々がお金を使うようせかす狙いだった。これには、そこまでする必要があるのか、と疑問を抱いた人が多かったのだろう。

 政府も国民も高度成長やバブル経済を経て税収や給料が増えることに慣れ、それを前提に制度や人生を設計してきた。

 だがこの25年間の名目成長率はほぼゼロ。ならばもう一度右肩上がり経済を取り戻そう、と政府が財政出動を繰り返してきた結果が世界一の借金大国である。

 

 とかく経済系の言論は現実を力強く無視した信仰心溢れる代物が多いわけですが、それが朝日新聞の社説ともなれば内容の酷さは推して知るべきでしょうか。確かに「日本の」経済誌などからは総じて不評の金融緩和やマイナス金利ですけれど、この辺は余所の国では既に実績のある代物であって、むしろ日本政府の決定は「遅すぎる」と非難されこそすれ、危うい政策などと呼ばれるのは不当ではないかという気がします。何か現政権に問うべきものがあるとすれば、総理が口で言うほど「経済最優先」かどうか(別の政治的思惑を優先させていないか等々)辺りですよね。

 全体を通して時代錯誤や事実誤認を感じさせる作文ですけれど(これで編集委員が務まるのですから、偉い人は気楽なものです)、例えば「政府も国民も高度成長やバブル経済を経て税収や給料が増えることに慣れ、それを前提に制度や人生を設計してきた」との行はどうでしょう。まず事実としてバブルはおろか高度成長の時代以前から、社会保障制度も人生設計も成長を前提にして設計されてきたわけです。典型的なのは年金財政で、これは経済成長がなければ財源が破綻するように設計されている、決して高度成長やバブルへの「慣れ」に基づいて設計されていたのではなく、「それ以前から」経済が成長するという「常識」に沿って設計されています。

 世界的に見れば20年ばかり経済成長を止めてしまった日本が異常なのであって、日本以外の「普通の」国は上下動を繰り返しながらも経済成長を続けてきました。しかるに主要国では日本だけが成長を止めてしまった、これは日本のバブル後の政策の誤りを端的に示すものでしかありません。そして朝日新聞の社説では「もう一度右肩上がり経済を取り戻そう、と政府が財政出動を繰り返してきた結果が世界一の借金大国」と強弁していますが、現政権が異常な経済停滞を打破しようと財政出動に踏み切る前から、日本は借金大国でしたし、むしろ現政権ですら財政出動に躊躇して歩みを止めている部分もあるのが実態です。

 なぜ財政出動に消極的であった現政権よりも「前の」時代から日本「政府」の借金額が膨らんだかと言えば、それはまさに「経済が成長しなかった」からです。第一に日本「だけ」GDPが伸びなかったために、対GDP比での赤字額が他国よりも大きく見えてしまうこと、そして社会保障費は経済が成長しなくても増大していくためでもあります。経済成長を「目指さなかった」過去の政権下でも日本政府の借金は増大を続けていた、この現実に向き合うことが出来ているかどうかは、その論者が信用できるかどうかを計る尺度と言えるでしょう。

 

 経済史の泰斗である猪木武徳・大阪大名誉教授は、成長を謳歌したこの200年間を「経済史のなかではむしろ例外的な時期」と言う。そのうえで無理やり成長率を引き上げようとする最近の政策に異を唱える。

 「低成長を受け入れる成熟こそ、いまの私たちに求められているのではないでしょうか」

 成長の意義も認めてきた猪木氏が最近そう考えるのは、成長そのものの役割が変質してきたからだ。

 「かつて経済成長には個人を豊かにし、格差を縮める大きなパワーがあった。最近は国家間の経済格差は縮まったものの、上っ面の成長ばかり追い求める風潮が広がり、各国の国内格差が広がってしまった」

 

 この辺もまた目も当てられないと言いますか、まぁ経済学とは学問である以前に宗教ですから仕方ないのかも知れませんけれど、やはり現実に向き合う姿勢が微塵も見えません。まるで経済成長が国内格差を広げるかのようにミスリーディングが行われていますが、20年ばかり経済成長を止めた来た我が国の格差はどうでしょう。バブル崩壊まで全体としては格差の小さい国であったはずの日本は、急速に格差を拡大させてきたわけです。「経済成長に背を向けても、政府の不作為が続けば格差は拡大する」という事実を日本は国民の犠牲の上に証明してきたと言えます。反対に一人当りのGDPで世界の頂点に位置する北欧諸国が世界で最も貧富の格差の激しい社会であるのなら、まだ説得力はありますが、これも……

 だいたい成長を謳歌したこの200年間を「経済史のなかではむしろ例外的な時期」と言うのなら(実際にはこの200年の間にも大きな浮き沈みはあった、日本のバブル後のような「沈みっぱなし」こそ本当の例外なのですが)、国民主権や民主主義などは200年に届かない例外的な社会体制です。朝日新聞や「経済史の泰斗」よろしく近代を例外と見なして古代に退行するのか、それとも進歩するのか、どちらを好むかは個人の自由かも知れませんが、お偉いさんの退行指向に付き合わされる人がどのような被害を被るかは、理解されてしかるべきでしょう。少なくとも私は「例外的な時期」に入って初めて保証された人間の諸権利を重んじたいですね。

 「景気が回復したら、改革する意欲がなくなってしまう」と、小泉純一郎は語りました。小泉構造改革の旗の下、日本は成長を止め格差は大きくなりましたけれど、それは誰を喜ばせたのでしょうか。成長を続ける社会では、歩みを止めた者は後ろから走って来た人に追い越されていくものなのかも知れません。逆に日本のように止まった社会では、先にいる人が追い越されることはないわけです。デフレ下では、既に蓄財を果たした人の貯蓄が相対的に目減りすることはないのです。朝日新聞なり財界の高見から床屋政談を披露する「功成り遂げた人」にとって低成長社会ほど居心地の良いものはないのでしょう。

 しかるに成長を止めた社会では世界に取り残されてしまう、今や日本は「一人当り」のGDPで中堅国へと転落しつつあります。友達は皆が普通に手に入れられるものを、自分は(家が貧しいから)買えない、そういう領域へと日本は突入しようとしているわけです。(飢えるような)絶対的貧困にはまだ距離があっても、周りから取り残される相対的貧困は十分に近いところへと迫っています。

 そもそも経済が成長しない、すなわち将来的な収入増加が見込めない社会においては「未来への投資」が途絶えがちです。「いつかは豊かになる」ことが展望される社会であれば、当面は貧しくともローンを組んで車や家を買う人が珍しくありませんでした。しかし将来的な賃金の伸びが期待できない社会では、若いうちから守りに入ることを余儀なくされます。こうなってしまうと国内で消費が伸びない、国内企業はモノが売れなくなってしまう、経済が循環しなくなってしまうわけです。経済成長を止めた社会が持続するのは、自転車を漕がずに立っているのと同じくらい難しいと言えます。

 労働力の再生産が滞っているのも結局は、この辺に起因しているのではないでしょうか。将来的な収入増が見込めないから将来への投資が出来ない、そのような状況に置かれた若年層が子供を作って未来への種を蒔いてくれるかどうか、大いに疑わしいものです。将来的な成長が見込めない、現状維持がやっとの社会で行われるのは、成熟ではなく緩やかな腐敗=死です。既に確固たる地位を築いた人たちにとって緩やかに腐敗していく低成長世界は安住の地(あるいは終の棲家!)なのかも知れませんが、そこに次世代への希望はありません。

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日本の会社に選ばれた人が残業文化を支えてきたわけで

2016-12-04 22:30:49 | 雇用・経済

 「君の残業時間の20時間は会社にとって無駄」と、過労死認定された電通の元社員は上司から言われたと伝えられています。これもまたパワハラの一つとして語られていますが、ことによると指摘としては案外、正しかったりもするのかなと思わないでもありません(そもそも電通の仕事が社会にとって云々)。

 まぁ、「平均を大きく超えて肥満していますね」とか「頭髪が随分と寂しいですね」とか、例え事実であっても口に出せば失礼に当たる類いもあるわけです。「君の残業時間の20時間は会社にとって無駄」もそう、事実であろうとも本人に直接、突きつけることはパワハラに当たるものなのでしょう。純然たる事実であろうとも、人を傷つける言葉はありますから。

 電通に関しては私の憶測に過ぎませんけれど、自分の職場の同僚や上司に対して「君の残業時間の20時間は会社にとって無駄」と言いたくなるところはあります。この頃は当たり前のように残業する同僚や上司を尻目に定時で帰ることも多いのですが、明らかに私より抱えている業務量の少ない人もいて、肩をすくめるしかありません。上司も落下傘候補ならぬ落下傘人事で、全くの畑違いの部署から異動してきた人が多くて実務が全く分かっていない、部下の仕事量を把握できていないというのもありますが、どうしたものでしょう。

 あるべき論、理想論とは裏腹に現実問題として、日本の職場では残業こそ最大公約数的な「やる気」の尺度であり、評価を得るためにこそ残業は避けられないわけです。逆に仕事が終わったからと定時で帰れば評価が下がる、正社員なら昇給の機会からは遠ざかり、非正規社員であれば契約更新が危うくなりかねません。私の実体験でも、どこの職場でも入社してまもなくは仕事が上手く回らず時間内に片付かなくて、それで「よく頑張っているね」と褒められる一方、逆に仕事が出来るようになって時間内に何でも処理できるようになると「もう少し積極的に仕事に取り組んでくれないと!」と怒られたりしたものです。

 もう一つ私の体験を挙げますと「家庭の事情でもあるの?」と、これまた行く先々の職場で聞かれます。定時で帰ろうとすると、ですね。定時で帰って良いのは幼い子供を持つ母親ですとか、そういった「家庭の事情」を持った人のすることであり、責任ある社会人とは残業するものだと、どこの職場でも信じられているわけです。まぁ、私も暇なとき(要するに退社後にやることがないとき)は、なるべく会社に残るなどの努力はするように心がけてはいますが。

 特に今の職場ですと、「そんなことはどうでも良いだろうが!」「まだそんなことをやってるのか!」と、同僚だけではなく上司にも言いたくなる場面が多いです。「確かにあんな仕事ぶりでは、どれだけ残業したって終わらないだろうなぁ」と感じるところばかりでして、上司や同僚が固執している代物が会社の営業にとって必要かと言えば、もう完全な自己満足でしかなかったりする、こちらとしては距離を置くぐらいしか、もうできることはありません。

 先日も書きましたが、低い(時間当りの)生産性から逆算すれば、利潤を生む上で本当に必要な仕事は必ずしも多くない、無駄なことばかりやっているから忙しいように見えるだけの職場も少なくないように思います。しかるに、日本では「仕事はつくるもの」なのです。そして必要もなく創られた仕事を疑問視する、ムダと見なしてカットしようとすれば、「やる気がない」「主体的な意識が欠けている」みたいな評価を受けてしまうわけです。

 日本の職場から無駄を削減できる、生産性を上げられる、効率化を進めて残業を減らせる、そういうノウハウを持った人材は既に存在しているのではないでしょうか。問題は、そうした「本来は」有能な人材が企業の評価から排除されがちで、逆にムダを創って生産性を引き下げる、残業時間を自ら牽引していくような有害な人材を企業が肯定的に評価して、地位と権力を与えているところにありそうです。すなわち、構造的な問題である、と。日本の会社が人を評価する基準を180°変えれば、世の中は幾分か良くなる気がしますね。

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仕事を創る人ほど有害な人はいない

2016-11-27 23:56:47 | 雇用・経済

 日本の学校教員の労働時間の長さはよく知られているところで、たとえば2014年のOECD調査では日本が世界最長でした。しかるに、"Total working hours"が長いにもかかわらず"Hours spent on teaching"に関しては平均を大きく下回っていたわけです。要するに、日本の学校教員は労働時間が長いけれど、勉強を教えている時間は短い、と言えます。なんでも課外活動の時間が群を抜いて高く、事務作業にも平均の倍近い時間を費やしているとか。

 過労死なんて珍しくもありませんけれど、それが若い女性ともなれば世間の関心は俄に高まるというもので、電通社員の一件を契機に長時間労働を問題視する声も出てきました。では、そもそもどうしてこれほどの長時間労働が必要なのかと、不毛な意見が色々と上がっています。そこで私が思うに、民間企業における長時間労働もまた、上段で言及しました学校教員の労働時間の長さと構造は似ているのではないかな、と。

 つまり教師であれば本分であるはずの「勉強を教える」ための時間が日本は短いわけです。ただただ「それ以外」の時間が長いから、全体の労働時間も長いのです。同様に民間企業もまた、本分であるはずの操業のために費やされている労働時間は、実は短かったりするのではないでしょうか。にもかかわらず、ビジネスのために必要なこと「以外」に膨大な時間を費やしているから日本の労働時間は長い、ついでに(時間当りの)生産性も低いのではないか、そう私は考えます。

 業務量に比して人員が少なすぎる、という現実も確かにあるとは思います。ただ職を転々としてきて感じたのは、どの会社も部署次第で残業時間のバラツキが大きいことで、その辺も業務量の問題は否定できないにせよ「文化」の問題も大きいな、と。有り体に言えば、上長が率先してサービス残業しているような部署では全員が恒常的に長時間残業しているわけです。仕事が終わったからと定時で帰れば「それは間違っているよ」と怒られる、そういう文化が養われている組織もまた珍しくありません。

 名高い電通の「鬼十則」でも最悪なのは「仕事は自ら創るべき~」云々の行で、往々にして長時間労働の部署では「仕事を創る」人が仕事を終わらせる上での障害となっています。余計な仕事を創る人がいなければ時間内に片付くものを、必要のない仕事を創ることで長時間労働不可避の部署にしてしまうわけです。ところが、こうして仕事を創る人を電通以外の会社でも総じて高く評価してきたのが日本社会であり、日本の会社でもあるのではないでしょうか。

 元祖ブラック企業のワタミでも然り、長時間勤務の問題もさることながら、会長の著書を買って感想文を提出したり、ボランティア活動への参加を強制される等々、店舗運営のために必要な仕事「以外」の要求が多かったことも意識されるべきです。本当に店で必要な仕事「だけ」をやっていれば済むのなら、多少なりともマシになった部分はありそうなもの、しかし、操業のために必要ではない代物が重い負担としてのしかかってくるのが日本の労働現場なのです。

 日本の会社は、徹底した反合理主義で構成されています。追求されるのは利益ではなく理想であり、経営者が従業員に与えたがる報酬は金ではなく夢だったりするわけです。ビジネスライクに必要なことだけやっておけば良い、無駄なことはやらない、そういう姿勢では許されない(そもそも採用時点で排除される)のが日本の文化ではないでしょうか。低い労働生産性から逆算すれば、本当は仕事が多いわけではない職場も少なくないように思います。ただ、仕事を創って忙しいフリをして、それを会社が評価する、そういう文化が積み重ねられているだけです。

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コンピュータには無理な仕事

2016-11-06 22:30:20 | 雇用・経済

 さて、「機械に(仕事を)奪われる」云々とは随分と昔から言われてきたものです。まぁ「今時の若者は」の類いは古代エジプトの時代から存在したらしいですから、これに比べれば歴史は10分の1くらいではあります。もっとも、我々が生まれるよりもずっと以前から繰り返されてきた、カビの生えた文句であることは言うまでもないでしょう。そして現代は誰もが知っているとおり、人類が労働から解放された時代ではない、むしろ(本当か嘘かはさておき)労働力不足が絶えず叫ばれているわけです。

 率直に言って「機械に(仕事を)奪われる」あるいは「コンピュータに取って代わられる」の類いは鼻で笑っておけば良い印象ではあります。ただ良い機会ですので、どういう仕事なら「代わられうる」のか、どういう仕事なら「代わられない」のか、少し考えてみましょう。たとえば近年、世界最強の呼び声が高い棋士にコンピュータが囲碁の勝負で勝ったりですとか、医師が見つけられないでいた治療法をAIが先行して発見したり等々、近年は人口知能の発達が著しくもあります。では、人工知能は何になら代わることが可能なのでしょう?

 最先端のコンピュータであれば、囲碁や将棋は人間に勝る、部分的にではあれ医師よりも優れているのかも知れません。しかし、二本足で歩くことに関しては、何千万円以上するロボットですらその辺のガキや老人に及びません。コップを持ったり、階段を上ったり、ご飯をよそったり等々、この辺は人間の方に分があります。機械は計算すること――すなわち(模擬的に)考えることは得意ですが、己の身体を動かすことは、率直に言って「まだまだ」のようです。

 そもそもコンピュータの演算能力は今後の向上が見込まれる、高度な計算能力を持った人工知能のコストが下がっていくことも期待できる一方で、物理的な機構に関してはどうでしょうか? かつては数億円では済まなかったスーパーコンピュータと同等の演算能力ですら、10年後、20年後には携帯端末で誰もが所有するものになったいたりするものです。しかし物理的に駆動する機械の値段は、そんな劇的な変化はありません。多少は安くなっても、1000分の1になったりはしません。

 ここから推測されるのは、「知的労働」は機械(人工知能)に代わられる可能性があり、その反面「肉体労働」は機械による代替が難しい、と言うことですね。

 次は前段で出てきたコストの問題を、もう少し考えてみましょう。例えばこのブログでも以前に、「コストの問題で」介護現場に機械の導入が進んでいないという事例を紹介しました。私の職場も然り、システム化は可能だけれども、ベンダーに費用を払ってシステムを構築するより非正規社員に作業させた方が低コストなため、(まぁEXCELとACCESSは使いますが)人間の手作業で処理している仕事は多いです。製造業でも「機械でも出来るが、人の方が安い」ために、期間工なり派遣社員なりにやらせている仕事は多いことでしょう。

 結局のところ日本のように規制の緩い社会では、生産性が上がらず売り上げを伸ばせない事業者でも、「人を安く長く働かせる」ことで利益を確保できたりするわけです。人件費の高い国では、とにもかくにも生産性を高めるしか企業が生き延びる道はありません。ならば機械化、合理化は不可避です。しかし日本では「非正規で安く雇う」「サービス残業で長く働かせる」ことがソリューションになってしまいます。人を安く長く働かせれば会社の利益は出るのですから、無理に機械化する必要はありません。なにしろ機械は、高いですから!

 その辺から推測するに、「賃金の高い仕事」ならば機械に置き換えることに「事業者側のメリットがある」一方で、「低賃金長時間労働」に関しては、機械への置き換えに「事業者側のメリットがない」と言えます。

 もう一つ付け加えますと「機械は出来ることが決まっている」辺りは意識されるべきでしょう。たった一つの文法の間違いですら、プログラムは止まってしまいますし、1000円札しか使えない自販機に5000円札を入れても反応しません。機械は冷酷に人間へ「NO!」と言ってくれます。機械相手に凄んだどころで、どうにもなりません。翻って人間の仕事はどうでしょうか。依頼元(顧客、上長、取引先等々)に「ダメです」「出来ません」とキッパリ断れる仕事(立場)もあれば、無理難題にも付き合わねばならない仕事(立場)も多いように思います。

 上司の曖昧きわまりなく必要な情報の欠けた指示にも、「気を利かせて」相手の意図したとおりに仕事を進めるのがコミュニケーション能力の高い日本の社員というものです。「○○に関しては指示を受けていません」「そんなことは言われていません」みたいな対応は、日本の職場では許されません。これを人工知能が代替するのは、随分とハードルが高いことでしょう。指示を出す側に不備があっても、それを補って対応しなければならない、それどころか指示を待てば非難される、これが日本のビジネスマンなのです。

 とどのつまり依頼元(顧客、上長、取引先等々)に「ダメです」と言える、指示に不備があるなら対応しないで済ませられる、そうした「強い立場」であれば、人工知能による代替は可能ですが、そうも言っていられない「弱い立場」の人間を人工知能で置き換えるのは至って難しそうです。

 以上のことをを鑑みるに、「頭よりも体を動かす必要が多く」「賃金は安く」「立場の弱い」仕事をしている人であれば「機械に取って代わられる」可能性はきわめて低いと考えられます。むしろコンピュータに仕事を奪われる心配ではなく、自分の雇用主から不法な扱いを受けることを心配しなければいけないわけではありますが!

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ヤクザよりも悪質だったのは

2016-10-30 22:00:25 | 雇用・経済

上司からエアガン・つば…佐川急便22歳自殺、労災認定(朝日新聞)

 佐川急便で上司からエアガンで足元を撃たれたり、つばを吐きかけられたりするパワハラを受けて自殺した男性(当時22)の遺族が、労働災害と認定されなかったことを不服として国を訴えた訴訟で、仙台地裁(大嶋洋志裁判長)は27日、労災と認め、遺族補償金などの支給を認める判決を言い渡した。不支給とした仙台労働基準監督署の処分を取り消した。

(中略)

 男性は直属の上司から日常的に仕事のミスで注意を受けていた。自殺する直前にはエアガンで撃たれたり、つばを吐きかけられたりする暴行や嫌がらせを受け、SNSに「上司に唾(つば)かけられたり、エアガンで打たれたりするんですが、コレってパワハラ?」と投稿。自分のスマートフォンにも「色々頑張ってみたけどやっぱりダメでした。薬を飲んでも、励ましてもらっても、病気の事を訴えても理解してもらえませんでした」と書き残していた。

 

「配達員が屈強でかなわない…」恐喝未遂容疑で組員逮捕(朝日新聞)

 荒川署によると、大場容疑者は6月12日、インターネットで高級腕時計(販売価格約86万円)を注文。翌日、佐川急便の男性配達員(38)が荒川区町屋3丁目の組事務所に品物を届けに来た際、大場容疑者が古玉容疑者にモデルガンを突きつける「ヤクザ同士の内輪もめ」の場面を見せつけ、代金を払わずに商品を脅し取ろうとした疑いがある。

 ところが、この配達員は、同行していた同僚男性(44)とともにモデルガンと商品を取り上げ、110番通報。容疑者2人は慌てて事務所から逃走した。大場容疑者は「配達員が屈強でかなわないと思った」。古玉容疑者は「大場(容疑者)がやったことだ」と容疑を否認しているという。

 

 さて、どちらも佐川急便の話で、奇しくも発表されたのは同じ10月27日だったりもするのですが、いかがなものでしょう。端的に言えば、モデルガンを振り回す暴力団員ごときよりも、エアガンを実際に撃ってくる佐川急便の上司の方がずっと手強いようです。そもそもヤクザは脅すまでが商売であって本当に危害を加えたら警察沙汰で、それに比べると会社の上司の方が歯止めは利かない、部下に対して日常的に暴力を振るっている管理職なんて珍しくないわけです。一見すると治安が良いように見える日本ですが、本当の無法地帯は会社組織の中にこそ存在するのかも知れません。

 もしかすると佐川急便で働いていれば、「本当に撃ってくる奴」と「単に脅しで終わる奴」の見分けが付くようになる、暴力団が相手でも対処できるようになるのでしょうか。それはさておき冒頭の自殺の場合ですが、一度は労働基準監督署から突っぱねられてしまったことが伝えられています。遺族が裁判に訴えることでようやく労災と認められたわけです。これもまた日本の現状を表していると言いますか、労働者を保護する判例があっても、それは法廷闘争に持ち込まれて初めて意味がある、裁判所の外は結局のところ無法地帯であると判断せざるを得ません。

 前にも書きましたけれど、殺人を禁止する法律があっても人が殺されることはどこの国でもあるわけです。法制度の存在が安全を保障するものではありません。経済系の言論では、日本の社員は保護が手厚すぎるみたいな荒唐無稽が連呼されることも多いですが、それがいかに実態からかけ離れた代物であるかは考えるまでもないでしょう。企業が従業員に対して無法を行っていないか絶えず監視し、違反者を逮捕してくれるような労働警察などいないのです。被害が発生して手遅れになって、それが法廷に持ち込まれて初めて労働者側に勝ち目が出てくる、これが現実なのです。

 とかく「お客様は神様です」みたいなネタを真に受けて傲慢に振る舞う「客」も問題視されますが、本当に「神様」にでもなったつもりで暴虐を繰り返しているのは、むしろ客よりも会社の上司だったりはしないでしょうか。建前はさておき実態として、「何よりも上司を大切にする」社風の企業は、結構あるものです。日本の体育会系的な上下意識がそのまま持ち込まれている、それを組織として是認している職場は少なくありません。その結果として実務よりも「偉い人のご機嫌取り」が優先になって、それが現場の仕事を増やしているケースも頻繁に目にします。客の信頼を損なう行為には五月蠅い我々の社会ですが、本当に厳しい目が向けられるべきは従業員の扱い方の方、そう変わっていく必要があるように思います。

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企業優遇のツケは誰が払うのか

2016-10-23 21:57:03 | 雇用・経済

外国人技能実習生、異例の過労死認定 残業122時間半(朝日新聞)

 建設現場や工場などで働く外国人技能実習生が増え続ける中、1人のフィリピン人男性の死が長時間労働による過労死と認定された。厚生労働省によると、統計を始めた2011年度以降、昨年度まで認定はなく異例のことだ。技能実習生の労働災害は年々増加。国会では待遇を改善するための法案が審議されている。

(中略)

 岐阜労働基準監督署によると、1カ月に78時間半~122時間半の時間外労働をしていたとされる。労基署は過労死の可能性が高いと判断。昨年、遺族に労災申請手続きの書類を送った。結婚の証明などを添えてレミーさんが申請し、今年8月に労災認定された。一時金として300万円、毎年約200万円の遺族年金が支給されるという。

 

 さて世間では電通社員の過労死の方が話題ではありますが、有名税の支払いから逃れられない大企業ですら死者が出る有様なのですから、世間の目の届かないところで好き放題を続ける中小零細企業に至っては言うまでもないのでしょうね。おそらく、ここで引用したのと同様のケース、過労死で終わるだけならば同様の悲劇は他にもあったことと推測されます。ただ今回は「異例の」過労死認定が行われたとのことで、人が犬を噛んだがごとくニュースになっているわけです。

 結局のところ、これは氷山の一角であって本当は闇に葬られていることの方がずっと多いであろうことは想像するに難くありません。ただ、珍しくも労基署が積極的に動いて海外の遺族にも十分かはさておき保障に動いたのは、ある程度までは評価すべきでしょうか。本当は死んでからではなく死ぬ前に仕事をすべきではありますけれど……

 経済系の言説では、労働力不足が云々との声も連呼されていますが、それは嘘だと言うことがよく分かります。労働力不足が真実であるのなら、希少な労働力は大切にされるはずですから。労働者が使い捨てにされるのは、それを失っても雇用側にとって全く惜しくないからです。まぁ日本の水産資源の扱いなどを鑑みるに、後先を考えずに資源を枯渇させるのはお家芸、労働力もまたウナギのような運命をたどるのかも知れませんが。

 それはさておき、ここで引用したようなケースは日本経済にとっても「高く付いた」ことは意識されるべきでしょう。採算性の低いゾンビ企業を延命させるために安価な外国人労働者を長時間労働させた結果として、毎年約200万円の遺族年金を支出することになったわけです。最低賃金かそれ以下の給与で長時間労働を強いることでしか存続できないような事業者が納める法人税の額と、当然のこととして支払わねばならない遺族年金の額、果たしてどっちが重いのでしょうね。

 つまりは寄生虫のごとき事業者を生き延びさせるために、日本社会もまた色々とツケを払っているわけでもあります。日本の経済政策は労働者を殺す方向から、労働者の犠牲に上に生き延びる事業者を退場させる方向に転換する必要があるのではないでしょうか。規制緩和で人を安く雇えるようにする、外国人を安く買ってこれるようにする、そんな構造改革からは180°別の方向に進まなければ行けません。

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