最近,マーケティングリサーチの方法としても注目されているエスノグラフィでは,少数のケースを事細かに観察するというアプローチが一般的だと思う。しかも,平均的/典型的なケースではなく,極端な(あるいは,非常に特徴がある,といったほうが穏当か)ケースに注目する(この点は流派によって多少異なるかもしれない)。つまり,ケースはより多いほうがよく,そこから全体を代表する値を得ようとする統計学的なアプローチとは真っ向から対立する。
エスノグラフィは,人類学を経て動物生態学などにもつながる。野外での生態学的研究で,統計学的に望ましい規模の標本を無作為に抽出することが簡単にできるとは思えない。そもそも対象に遭遇すること自体が困難なので,少数ケースを分析するしかない。つまり,自然科学のなかにも,任意に抽出した少数ケースを仔細に観察する方法が存在することになる。ただし,対象が動物の場合,本質的な個体差は小さいので問題はない,と考えられているのではないか。
マーケティングにおける少数ケースのリサーチは,コストと時間の制約でそう多くの消費者を調査できないことが理由で行われることが少なくない。その際,少数のケースから得た情報で安心するためには,消費者の個人差がそう大きくないと密かに仮定するしかない。このグルイン室にいる6人の主婦は(少なくとも同じ年代で首都圏に住む)主婦を代表しているので,過半数の意見に基づき意思決定する・・・これは誇張だとしても,それに近い実態はないだろうか。
一方,エスノグラフィをマーケティングで実践する人は,代表性を追求することに価値を見出さない。むしろ,情報豊かな少数ケースこそ重要だと考える。仕方がないからではなく,むしろあえて特異な少数ケースを見ようというわけだ。この考え方は,かなり多くのプランナーやクリエイターに共有されていると思う。それで経験上うまくいったので(あるいは少なくとも何も問題はなかったので)そう考えるのだろう。科学的根拠があるとかないとかは関係ない。
さてさて,マーケティング「サイエンティスト」はこれをどう考えるべきか?それは統計学を知らない愚かな考えだと言い放つ者は,さすがにそう多くはいないはずだ(一貫した態度だと賞賛してもいいのだが)。現場の猛者たちが持つ直感力は科学の枠外にあると棲み分けを図るか,質的調査と量的調査の組み合わせが重要だと調停を図るのは大人の態度だが,どこかいい加減だ。いや,マーケティングなんてそんなもんだ,という居直るのはさらにいい加減だ。
ぼく自身,これまで(あるいは今後も)こうしたいい加減さを貫いてきたが,密かに「特異な少数ケースから示される普遍性」の存在を理論的に証明できないかという loopy な野心を抱きつつある。いうまでもなく,個々のケースが一定の母集団を構成し,共通のパラメターに独立な正規ノイズを加えた形で存在しているなら,それはあり得ない。だが,市場は,あるいは社会は本当にそうなっているのだろうか?実は別の構造が存在し得るのではないだろうか?
もしこういう構造が個人(個体)間にあったなら,それを無作為抽出によって知ることはあまりに非効率で,むしろ何らかの戦略に基づく少数ケースの任意抽出が必要だということを証明できないか(当然無視すべき異常値も存在する)。そういう「構造」はいろいろ考えられるだろうけど,さまざまな間接証拠と適合しつつ,最もシンプルなものは何だろう?そんなことをたまに夢想している。それがどこかで何かと結びついてボッと発火してくれれば・・・
エスノグラフィは,人類学を経て動物生態学などにもつながる。野外での生態学的研究で,統計学的に望ましい規模の標本を無作為に抽出することが簡単にできるとは思えない。そもそも対象に遭遇すること自体が困難なので,少数ケースを分析するしかない。つまり,自然科学のなかにも,任意に抽出した少数ケースを仔細に観察する方法が存在することになる。ただし,対象が動物の場合,本質的な個体差は小さいので問題はない,と考えられているのではないか。
マーケティングにおける少数ケースのリサーチは,コストと時間の制約でそう多くの消費者を調査できないことが理由で行われることが少なくない。その際,少数のケースから得た情報で安心するためには,消費者の個人差がそう大きくないと密かに仮定するしかない。このグルイン室にいる6人の主婦は(少なくとも同じ年代で首都圏に住む)主婦を代表しているので,過半数の意見に基づき意思決定する・・・これは誇張だとしても,それに近い実態はないだろうか。
一方,エスノグラフィをマーケティングで実践する人は,代表性を追求することに価値を見出さない。むしろ,情報豊かな少数ケースこそ重要だと考える。仕方がないからではなく,むしろあえて特異な少数ケースを見ようというわけだ。この考え方は,かなり多くのプランナーやクリエイターに共有されていると思う。それで経験上うまくいったので(あるいは少なくとも何も問題はなかったので)そう考えるのだろう。科学的根拠があるとかないとかは関係ない。
さてさて,マーケティング「サイエンティスト」はこれをどう考えるべきか?それは統計学を知らない愚かな考えだと言い放つ者は,さすがにそう多くはいないはずだ(一貫した態度だと賞賛してもいいのだが)。現場の猛者たちが持つ直感力は科学の枠外にあると棲み分けを図るか,質的調査と量的調査の組み合わせが重要だと調停を図るのは大人の態度だが,どこかいい加減だ。いや,マーケティングなんてそんなもんだ,という居直るのはさらにいい加減だ。
ぼく自身,これまで(あるいは今後も)こうしたいい加減さを貫いてきたが,密かに「特異な少数ケースから示される普遍性」の存在を理論的に証明できないかという loopy な野心を抱きつつある。いうまでもなく,個々のケースが一定の母集団を構成し,共通のパラメターに独立な正規ノイズを加えた形で存在しているなら,それはあり得ない。だが,市場は,あるいは社会は本当にそうなっているのだろうか?実は別の構造が存在し得るのではないだろうか?
もしこういう構造が個人(個体)間にあったなら,それを無作為抽出によって知ることはあまりに非効率で,むしろ何らかの戦略に基づく少数ケースの任意抽出が必要だということを証明できないか(当然無視すべき異常値も存在する)。そういう「構造」はいろいろ考えられるだろうけど,さまざまな間接証拠と適合しつつ,最もシンプルなものは何だろう?そんなことをたまに夢想している。それがどこかで何かと結びついてボッと発火してくれれば・・・