愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

亀岡市 北の庄薬師如来石仏

2011年04月15日 | 石仏:京都

北の庄二十一尊磨崖石仏の直ぐ近く、北ノ庄集落の西外れ、府道47号線と旧道の交差辺りに岩城神社が鎮座していて、その傍らに ある質素な薬師堂に、この地きっての古石仏と云われる薬師石仏祀られている。

やっぱりお決まりの様に堂内は暗く、しっかり施錠されて居て格子戸からレンズだけを入れての撮影です。

往古山麓に祀られていたものが台風の山津波によりこの地に流されてきたものだとか???

新しい台座に載せられ、まるで床の間にでも祀られて居るかの様な丸彫りの石仏さんですが、頭部は首で断裂、右手は欠損、火災にでも遭ったのか剥落風化も激しく無残な姿を曝しています。

左手には薬壷を持ち、ふくよかな顔容、体躯も堂々としていて古式な薬師如来です。

台座後背共に無く、結跏趺坐して像高約1.1m、鎌倉前期の像立だと考えられています。

傍らにも古式な小石仏などが並べられ、この地の歴史の古さを窺わせてくれます。

撮影2008.1.4


亀岡市 北の庄二十一尊磨崖石仏

2011年04月14日 | 石仏:京都

なんとも撮影のし辛い磨崖石仏さんです。

昔の写真を見てると覆い屋もなく青天の元おおらかに野の仏の感が有っていかにもそそるものが有った、けど実際出逢ってもこんなんじゃちょっとがっかり・・・

それでも文化財保護とやらでこうにでもしないとだめなのかなあ???

京都縦貫道千代川ICで降り、東山裾の北之庄東谷、嶺松寺裏山の台地にそれと解る覆い屋の中に祀られています。

元々は背後の山中に八王子権現として祀られていたようですが昭和中期の台風で山津波に遭いここまで流された様です・・・。

でも見事に見えるように留まったもんだと感心・・・・、いや後からちゃんと据え直したのかな??

撮影は格子戸からレンズを突っ込み、暗い堂内を撮影するしか無く不自由極まりないから写真もそれなりです。

幅約5m、高さ約1.5mの横長自然石に30cm弱の月輪中仏を20体刻んでいて、他ではちょっと目にしない石仏さんです。

近江の日吉大社山王二十一社の本地仏を表したものとされるが、やっぱり摩耗風化も強く小さいので像容も定かではない。

此の写真では左端2体目に見えるのが一番大きく阿弥陀如来、中央寄り同一月輪の中に2体の尊像、すべからく坐像で、二十月輪二十一尊仏と言ったところ。

中央寄り右手の石仏さん達。

南北朝期の造立とされ神仏習合の典型とされる磨崖石仏がこんな丹波の地に在るなんて・・・・・。

奈良大和高原で多く見かける多尊磨崖石仏に似てないことはないけど、全く意味の違う石仏さんです。

撮影2008.1.4


交野市 磐船神社四社明神磨崖仏/不動明王磨崖石仏

2011年04月13日 | 石仏:大阪

大阪交野から生駒谷へと通じる道筋、大阪、奈良の県府境に最接近した新磐船トンネル脇から続く旧道の渓谷沿いに鎮座している。

「天の磐船」(あめのいわふね)とよばれる渓谷を跨ぐように横たわる高さ約12m・長さ約12mの舟形巨岩を御神体としている。

本殿はなく、巨岩の前に小さな拝殿があり、 饒速日命(にぎはやひのみこと)が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨されたとの伝承があり、磐船神社神体の大岩がそれに当たるとされています。

 中世以降は、山岳信仰や住吉信仰の影響を受け、現在も境内には神仏習合の影響が色濃く残されていて境内にそれを示すかの様な磨崖石仏が残されています。

道路に接した石鳥居から境内に入ると其処此処に大岩が並び立ち、建物はなどは拝殿以外(近代建築は別にして)何も無く古代原始信仰髣髴とさせる。

大岩を背にして建つ拝殿入り口辺りの大岩の中央には垂直に深い彫り刻みを造り、下部を供台状にして背面には火炎後背を持つ不動明王立像が半肉彫りで刻まれている。

岩が大きくこじんまり見えるが像高約1.2m、頭上には注連縄がかけられ神聖視されているよう・・・・。

黒く煤ボケているように見えるのはこの前で密教修行が行われ続けた結果なのだろうか??

正面から見ると実に堂々とした不動明王・・・・像の左右に銘が在り「交野郡住吉大明神関白大蔵坊」「天文拾四年(1545)乙巳十二月吉日法印清忍」背面には「加藤肥後守」と刻まれている。

因みに「加藤肥後守」とは「加藤清正」のことで、この石仏が造られた時にはまだこの世に生を受けておらず、大阪城築城の石垣石材に持ち出そうとした折に刻まれたものだとか・・・・。

ご神体の舟形石にも同様の彫り刻みが有ると言い、神体石から血が滴り落ち、持ち出しを断念したとまことしやかに伝えられている。

一方御神体の右斜め後方、天の川が作り出す岩船渓谷を挟んだ対岸の高さ幅共に15mも有ろうかと言う大岩には四体の磨崖仏。

磐船神社は天磐船(あまのいわふね)伝承から「海の神」底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒命(なかつつおのみこと)、表筒命(うわつつおのみこと)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)の四神を祭祀する住吉大社と結びつき住吉明神の名で呼ばれた。

磨崖石仏は巨岩に穿たれた幅2.2m、高さ約1mの深い堀窪みの中に住吉四神の本地仏をそれぞれ半肉彫りで刻み出している。

向かって右から定型地蔵菩薩、定印阿弥陀如来(一説には大日如来)、十一面観音、弥勒菩薩(一説には勢至菩薩)が横一列に並び、各々が蓮華座に座す坐像。

二重円後背は線彫りで顕すが像容葉には充実感が有り鎌倉末期から南北朝期の像立だと考えられています。

神仏習合が色濃く残る磨崖石仏として特記出来る。

それにしても望遠で対岸からの撮影、それもワンポイントからしか臨めないのが気にかかるが致し方ない・・・・、おまけに石仏の真上に刻まれたアーチ状の切り込みが妙に気に掛かるが??・・・・。

撮影2006.9.2/2011.3.20


交野市星田 慈光寺の石仏群

2011年04月12日 | 石仏:大阪

私市の西側一帯に広がる星田地域も古い歴史を秘めた興味をそそる土地です。

星田という地名は太古この地に星が落ちたと言う伝説が元になっているようですが、近くにはそれにちなむ天の川や機物神社(はたものじんじゃ)などもあって「星のまち」としても良く知られています。

そんな星田の町並みも古い佇まいを良く残し、嬉しい景観を今に伝えている。

この町には遺石仏が数多く有るのが知られていますが・・河内三十三所「第二十三番札所」の西山浄土宗慈光寺(じこうじ) にも多くの石仏が残されている。

山門を入って小気味良く清掃の行き届いた境内奥、本堂脇の小さな祠とその脇に立つ石仏が目立つ。

高さ約1.2~3mの長方形の板状石表面に蓮華座に立つ姿の良い来迎印阿弥陀如来を厚肉彫りで刻み出している。

この石仏は昭和53年、近くの下水道工事の際に掘り出されたもので発掘現場の地名を取って「鍋賀地蔵」と呼ばれています。

円後背を背負い、こざっぱりまとまったモデリングから室町期初頭の作造だと考えられています。

かなり洗練された形式美を感じる石仏です。

これと瓜二つの石仏がもう一体祠を挟んで隣地の土塀前に立っている。

殆ど同じ形式同じ像容・・・・、これはどうしたことか?前述の「鍋賀地蔵」より新しく見え、簡略化されているが、この阿弥陀石仏は「鍋賀地蔵」の写しでは無いかと一瞬目を疑った程・・・

こちらは古くからこの寺に置かれて来たもの・・・・、どうしてこれほど瓜二つなのか??

顔容がすこし違う他は見紛うばかり。

質素な覆屋の中には十三石仏。

十三石仏は生駒や河内地域でよく目にする石仏で、十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)を司る仏を一石に三体づつ四段と頂部一体配している。

高さ約1m、姿も美しく江戸期の造立。

築地塀を背にして来迎印阿弥陀石仏二体と双体地蔵。

本堂軒下には何気なく一列に並んだ古小石仏・・・・。

近くの寺々にこの手の石仏が多く残されていて、この地の古い歴史を物語っている。

撮影2011.4.5


交野市 私市(きさいち)墓地の弘安地蔵

2011年04月11日 | 石仏:大阪

私市と書いて「きさいち」何とも難読地名です。

かの日本書紀にも私部と表記されていて「きさいちべ」と読み、后(きさき)のために仕事をする人たちが住み着いた土地だそうで古代歴史を秘めた古い土地です。

国道168号線はそんな私市から奈良生駒谷を縫う様に走る地方国道で、沿線には秘められた歴史の宝庫でも有ります。

国道168号線で大阪側から奈良生駒方面に向かうと街並みが途絶えて生駒の山裾が近づく辺り、左手の大きな墓地が私市共同墓地。

そんな私市墓地に大阪では在野に有って最古銘を持つ地蔵石仏が祀られていて、大阪府指定文化財・重要美術品に指定され、知る人ぞ知る存在となっています。

粗末なコンクリートブロックの祠に祀られ、弘安地蔵と名付けられた地蔵石仏は右手に錫杖を持たず、与願印を示し左手に宝珠をを持つ古式な地蔵立像です。

舟形光背の頂部は平に加工が施され笠石でも載せられて居たのだろうか??

蓮座上に立ち像高は約80cm厚肉彫りで刻み出されている。

かなりずんぐりな体躯は力強さが感じられ古様で光背左右には「弘安四年四月十五日立之」、「右ハ為二浄林浄雲一石作三郎」と銘が刻まれ鎌倉期の像立。

地元では「杖あずけ地蔵」と呼ばれ、一昔前までは人が亡くなると仏が生前使用していた杖、帽子、履物などをこの地蔵さんに預け、早く極楽に往生できるように願ったとか??

他にも古い小石仏がたくさんあって石仏好きの興味をそそる場所です。

撮影2011.4.5


交野市 かいがけ道の石仏

2011年04月10日 | 石仏:大阪

前回紹介の奈良生駒市 傍示(ぼうじ)墓地から戻って直ぐに大和,河内「国ざかい」のなだらかな峠を越えると,其処はもう大阪府交野市の傍示(ぼうじ)集落。

峠の突き当たりに菅原神社があり、目の前には緩やかな棚田がなんとも鄙びた長閑さをかもし出してくれている。

集落はわずか5~6軒、集落の西はずれから看板通りに田圃の中を「かいがけ道」が伸びている。

暫くは棚田の中を通る野道で直ぐに山間の大石が其処此処に顔を覗かす古道然とした散策道となる。

棚田道を歩き出して10分ばかり、右手斜面に5段位の石段が設けられ、その上の1辺1.5m位の三角ニギリ状の大石に、この石仏が刻まれて居る。

地元では「ゴミの木地蔵」と呼ばれているが勿論誰が見ても地蔵ではなく阿弥陀さん、「ゴミの木」は僕の山城でもそう呼ぶが「グミの木」の事で、昔この地蔵の傍に大きなグミの木があったという。

夏場には殆ど生い茂る草に隠れてしまう。

磨崖石仏はオニギリ石の正面、向かってやや左気味の位置に高さ約50cmの舟形後背を深く彫り

蓮座上に坐す定印の阿弥陀如来坐像を半肉彫りで刻みだし、像高40cm有るか無いか・・・磨崖石仏と言うには小さすぎる??

癖の悪い乾いた地衣類がびっしり石の表面を覆い最早像容も定かで無いほど・・・こじんまりと形式化していて室町期のものだろう??

この先更に下ると右手に嬰児山龍王社への登山口・・・・・雨乞いの龍王と間引きの嬰児???哀しい歴史を秘めているかのように石鳥居が立ち尽くしている。

その先少し進むと右手台地上に朽ち果て荒れるに任せたた「かいがけ地蔵堂」の跡地。

枯葉の積もる境内中央に朽ち果てた基壇や瓦の残骸と共に残された地蔵石仏がもの哀しげに立ち尽くしている。

かいがけ地蔵と呼ばれてるようですが??、ほとんどお参りはなさそうです。

舟形後背の頂部辺りが欠損、身の丈約1m、定型地蔵立像、大雑把な造りでもの哀しげ・・・・

このもの寂びた景観にぴったりはまる。

境内地左脇にはこんな不動石仏。

山状石材一杯に燃え盛る見事な火炎後背を彫り刻む。

磐座状に立つ、身の丈70~80cm不動明王立像・・それにしても火炎は大きく激しい・・・

見るからにアンバランス、宝剣は小さく、踏ん張るべき足元は力なく、赤ん坊のそれの如し・・・顔はとんまドラネコ??・・・

火炎の割には余りにもユーモラス・・・なんとも云えず近世のものか??

かいがけ道、里からの入り口辺りの住吉神社付近

付近にあった案内板

入り口近くのかいがけ道はそのまま古道の景観を今に伝えているのが嬉しい。

撮影2011.4.5/他


傍示墓地(ぼうじ)入り口 微笑み地蔵/他

2011年04月09日 | 石仏:大阪

前回紹介の阿弥陀磨崖から更に西に進むと大和と河内を分ける小さな峠に出るが、その少してまえに右手に入る農道が有って傍示墓地へと続いている。

墓地の入り口と思しき辺り古道かいがけ道との接点にこの地蔵が二体、道を挟んで一方向に顔を向けるように立っている。

傍示とは境目を表す言葉だそうで、その昔石清水八幡宮領と興福寺領の境目を示す印が立てられたことに由来するといわれているようです。

因みに、峠を越えた大阪側にも同じく傍示集落があって昔は大和側を東傍示、河内側を西傍示と呼んでいたようです。

墓地が共同なのかは確認していませんがちょうど両集落の真ん中辺り、府県境ギリギリの山中にあることになります。

 

手前の石仏は1m足らずの舟形自然石に、舟形後背を彫り沈め、その中に50cmばかり、ちょっと面長な天正地蔵と呼ばれている阿弥陀如来立像??が刻まれています。

これはどうみても地蔵さんでは有りません、いずこも同じ石仏何でも地蔵さん、ちょっと可哀そうな阿弥陀さんは天正4年(1576年)の像立だそうです。

後に控えているのが知る人ぞ知る「微笑み地蔵」や「スマイル地蔵」と親しく呼ばれるこれは紛れも無く地蔵さん。

舟形後背を背に、身の丈約1m程、さいきん少し彫り下げられたのか足元が土まみれ、もう少しで蓮華座が有るかどうかも見えるのに・・・。

はにかむ様ににんまり笑っているような顔つきがやっぱり印象的です。

永禄4年(1561年)逆修供養のため像立されたようです。

<峠を越した河内側、傍示の里の早春>

土地の人たちは、生前どんな人であっても、死んだら笑って迎えてくださるお地蔵さんだと、葬列は必ずこの石仏さんの前を通る習わしだったとか・・・・。

撮影2011.3.31


奈良生駒市 傍示(ぼうじ)かいがけ道の磨崖仏

2011年04月08日 | 石仏:奈良

我が山城の最西端、前回紹介の高船集落から笠上神社脇の峠を越えれば其処は生駒市の高山町。

峠を下って突き当たった道路は旧県道7号線、右手方の方面に暫く進むとやがて目の前が開けて奈良県最北端の小さな傍示集落の家並みに出逢う。

今では地図上では傍示と云う地名を発見することは出来ないが古い歴史を秘めた鄙びた集落で「かいがけ道」と言う古道の大和側の起点になっている。

集落の北はずれに緩やかな棚田の中を何とか車が通れる農道が一筋西に伸び、「国さかい」を越え北河内の私市へと通じている。

長閑な棚田道を暫く行くと右手山裾から突き出した軟質の大岩に小さな磨崖石仏が刻まれている。

大岩の基部には古くて忘れ去られたような石製の花立も有って、それと解るが車で走ってしまうと見落としてしまうだろう・・・。

地元では切りつけ地蔵と呼ばれる磨崖石仏は大岩の高さ2.5mぐらいの位置に可愛い舟形後背を彫り沈め、像高約30cmの蓮華座に立つ阿弥陀如来を刻み出している。

地衣類はそれほど目に付かないが軟質凝灰岩??に刻まれているためか、風化が激しく最早目鼻立ちも定かではない。

来迎印をもつ阿弥陀磨崖石仏で室町時代の像立だと云われています。

今ではもう忘れ去られたように佇んでいます。

撮影2011.3.31


京田辺市 高船墓地の地蔵石仏

2011年04月07日 | 石仏:京都

この前紹介した天王集落内を突き抜ける道路を道なりに南西進するとやがて急なヘアピンの下り坂になり斜面から谷底にかけて家並が点在する。

高船は京田辺市の最西端、奈良県生駒市、茶筅の町として名高い高山長町と境を接する我が山城地域に在って辺境の山里です。

天王から高船集落に入る直前右手側の小高い擁壁上の高船墓地にこの地蔵石仏が立っている。

以前は近くの旧道脇に置かれていたものを此処に移したものだそうでもともとの墓地地蔵では無いようです。

総高1.6mの舟形花崗岩に、蓮華座に立つ身の丈1.2mの定型地蔵菩薩立像を半肉彫りで刻み出している。

頭上に大きく円形後背を持ち、鎌倉後期の像立だと考えられてるようです。

惜しいかな、風化が進んで最早目鼻立ちも定かでは無くなっている。

此処は山城、大和、河内、接点の地でも有る。

撮影2010.5.22


旧美里村高座原(こうざわら) 経が峰道の磨崖石仏

2011年04月06日 | 石仏:三重

前回紹介した美里町日南田(ひなた)より東北よりの経が峰ふもと、県道28号線が集落をかすめて通る山裾に長閑な高座原(こうざわら)の集落が有り、集落の奥から背後に聳える経が峰道が通じている。

集落はなだらかな経が峰南東斜面の棚田に囲まれ古い歴史を感じさせる景観の中にひっそりと家並を並べて居てまるで別天地。

集落の家並を抜けて林道を進むと左手にそれと解る山の神場が在って、その中央にでんと座る巨石に多くの磨崖仏が刻まれているのが目に付く。

一般に多尊石仏と呼ばれているものだが風化によるものか摩耗が激しく何体在るかも定かではないほど・・

上部一列に約十体程か?何とか地蔵立像の様にも見える・・・・、正面中央には孔が二つ穿たれ供物台でも備えられて居たのか??

これほどまでに劣化すると云うのは火災にでも遭って焼け爛れたのだろうか・・・・、今となってはその全容を明らかにするす術は無く想像するにしか過ぎない。

この地を選んで山の神場としたのはその必然性が有ったからなのかも???。

この先暫く進むと林道脇には石積跡がそこ此処に見受けられ、そんな一角にこんな磨崖石仏が・・・・。

三角オニギリ状の大石に月輪を彫り沈め、蓮座上に坐す地蔵菩薩を刻みだしている。

意匠的にはかなりユニークで、ついぞこんなデザインの石仏は見たことがない。

苔むしては居るものの風化劣化はそれほどでも無く、室町~江戸期のものだろうか??

暫く進むと杉林の中、石垣に囲まれる様にしてまたも大石に地蔵さん、そこだけ光が差し込んで、まるで手招きでもしているようでした。

今度は舟形光背の中に地蔵菩薩坐像、二体共にうり二つの顔をしていて同一作者の同一時代のものだろう???

共に像高約35cm程、右手に錫杖、左手には宝珠の定形地蔵。

往時この辺りには天正年間に織田信長の兵によって焼かれてしまった草安寺という古刹が在ったとされ、その遺仏だとすると此の石仏さんたちは天正年間以前の石仏さんなのかも・・・・。

今は深い山の中で訪れる人もなく静かに時の流れに身を委ねているようでした。

撮影2011.4.2


旧美里町 日南田(ひなた)の七体地蔵磨崖石仏

2011年04月05日 | 石仏:三重

前回紹介した六地蔵を色々調べるうちに直ぐ近くにも同じような磨崖石仏が有るということが解って急遽出かけて出逢えた石仏さんです。

こちらの磨崖石仏さんは、六地蔵とは対岸側の少し下流、川崖上の斜面に有る大岩に彫られています。

集落に入って最初の辻で右折、穴倉川を越えて100mも行くとバス停と七体地蔵の看板が野道脇に並立している。

この近くの道路わきに車を捨て置き野道をゆけ~~ば・・・・、看板通りに進めば約10分程で川崖上の石仏の前に着く。

石仏の前には鉄製テラスが造られ,誰でも簡単に参拝できるようになっていて手向けられた花も瑞々しく真新しかった。

下を流れる穴倉川、崖の下は夫婦淵と呼ばれ、その上流には六地蔵磨崖石仏がある。

石仏は横一列に並立した地蔵立像が七体・・・、しかし写真のようにその並びが少し変、通常なら右手の四体と同枠内に六体並列されているべき物を・・・

その上六体ではなく七体とは??

像高は押し並べて約30cmほど、向かって左から舟形後背を持つ最小の地蔵菩薩立像、少し離れて蓮華座に立ち二重後背を持つ地蔵菩薩、また少し間を置き、舟形後背蓮華座の地蔵菩薩立像・・・・・これが中尊だと見れない事も無いが・・・、直ぐ隣に四角い枠を彫り、その枠内に四体地蔵。

いずれも上流の六体地蔵と変わりなく稚拙ですが、良く言えば野趣に富んでいる・・

ただこちらの方は、崖淵の陽が当ることの無い環境のせいか、地衣類の繁茂が激しく風化が進み、像容も定かでは無い。

地蔵の下が夫婦淵と呼ばれ、水神が住んでいるという言い伝えも有り、雨乞い地蔵では無いかと言われているようです。

いずれにしても鄙びた山村の水に係わる野趣にとんだ磨崖石仏さんです。

撮影2011.4.2

 


旧美里町 日南田(ひなた)の六地蔵磨崖石仏

2011年04月04日 | 石仏:三重

三重県の県庁所在地である津市中心街から遥か西方、伊勢、伊賀の国さかいに聳える経が峰の麓に、旧美里村の鄙びた集落が点在している。

<静かな佇まいの日南田集落、右端に見えるのが経が峰>

そんな中でも日南田の集落は最東端辺りの 穴倉川沿いに拓けた静かな田園地帯の中に有る。

集落の西側を走るグリーンロードから集落内に進みそのまま穴倉川沿に進めばそれと解る看板が直ぐに目に付く。

看板どおりに堤防を下って川岸に出ると少し上流の流れの中に大岩があり、その下流面に六地蔵が刻まれている。

川岸までは降りられるものの川の中までには進めなく、撮影ポイントは選びようも無く一定角度での撮影になる。

向かって左端には舟形光背の中に有る地蔵立像、身の丈は約70cmと,この一体だけが飛びぬけて大きい。

右脇に半身ぐらいの地蔵立像、その上に四角い枠を彫りくぼめた中に高さ約30cmばかりの地蔵立像を四体刻みこんでいる。

六体地蔵にしては首をかしげる変な配置で、往古この地で戦が有り最後の6人になるまで勇猛に戦った敗残兵を弔う為に刻まれたと「安濃郡誌」には記されているようですが・・・それもイマイチ信憑性に欠けるようです。

稚拙な彫りで野趣に豊む石仏さんは、どこか郷愁を誘います。

撮影2009.2.11


伊賀市 法花(ほっけ)の地蔵菩薩石仏

2011年04月03日 | 石仏:三重

何と呼ばれている地蔵さんなのか??全く解らないけど。

伊賀市の西端近く、名阪国道白樫ICを降りて北方直ぐ近くになにやら意味ありげな名前を持つ法花集落が有って、集落奥の山裾には古代磐座信仰を偲ばせる古社、応感神社が鎮座している。

辺りは古き良き里山風情を残していていつ走っても心の癒される地域です。

集落の入口と思しき場所には応感神社の大きな一の鳥居が有ってその向こうの野面の小さな祠に此の地蔵石仏が祀られている。

幅の広い頂部が円形に近い舟形光背を背負う定形地蔵菩薩立像で身の丈約60cmぐらい。

目はつむるが如くに細い半眼、鼻は大きく口はやや硬く結ぶ、まるで瞑目するような表情の地蔵さん。

どんなことでも静かに受け入れて呉れそう・・・。

近くの野面にはこんな六体地蔵さん。

集落内の辻にもやっぱり六体地蔵さん。

撮影2009.2.27/2010.3.27


京田辺市 天王(てんのう)墓地の一石多尊石仏/他

2011年04月02日 | 石仏:京都

京田辺市の西部、大阪や奈良と府境を接する生駒山系の北端辺りの山麓に天王と呼ばれる地域が有って、中心街からは車でも10分以上はかかる鄙びた山里風景を今によく残していて心の癒される土地です。

この地は非常に古い歴史を持つ地で神功皇后の祖父、迦爾米雷命(かじめいかずちのみこ)を主神とし牛頭天王社として、京都八坂の祇園社(八坂神社)の元社とも言われている。

天王の名称はその辺りに起源が有るとされ神社近くから見渡す集落はそれを彷彿とさせてくれます。

<墓地入口に立つ阿弥陀石仏と五輪板碑>

国道24号線井手町役場前の交差点で玉水大橋を渡る奈良県生駒市高山に通じる府道65号線で西進、普賢寺(ふげんじ)小学校脇に有る道路で一気に山手に登ると集落の入口と思しき辺り、左手山裾に天王墓地が有る。

入り口正面斎場奥に此の多尊石仏が三基と向かって左には地蔵と阿弥陀石仏。

向かって右から三十三観音碑、十六尊仏碑、十六尊仏板碑と三基が仲良く並列しています。

左手三十三観音碑は高さ150センチ、板碑一杯に三十三観音像が彫り付けられ、このような例は見かけない。

頂部に斜めの断裂を補修した跡が有り痛ましいが、この前で拝む事に依り三十三観音、全てを巡った功徳が有ると信じられていたのだろう・・・

庶民が長旅に出るのが困難な時代には有難い存在だったに違いない・・・、江戸時代前期の造立。

中央はやや厚目の高さ120cm足らず石材を五段に分け、頂部には舟形光背を背負う地蔵菩薩立像。

下部四段に阿弥陀と地蔵を15体配して各々には法名が刻まれ逆修供養を思わせる。

安土桃山時代の天正十八年(1590)像立が確認されている様です。

三基目、向かって左には高さ約120cm、頂部を山状に加工し、二条の溝を刻んだ十六尊板碑

やっぱり頂部中央に地蔵菩薩一体を配し下方を四段に分け地蔵菩薩を十五体刻みだしていて室町時代の作だと言われています。

<脇に有った阿弥陀坐像>

それよりもっと驚いたのは斎場より一段上がった墓地本体に数多く散在してる石龕状の墓石??。

石龕墓には色々な形式のものが有ったが多く見かけたのはこれ・・・花崗岩の切石で三方を囲み、方形の笠石を載せ、中には一石五輪塔を二基並べ立てている。

奥壁には阿弥陀・・・

側壁には阿弥陀三尊の脇侍か??地蔵??ちょっと確かめ辛かったが・・・・。

こんな石龕も・・・・

こちら、前の五輪塔は無く(元々なのか、失われたのか??)奥壁に双体地蔵??・・・・

やけに立派な擬宝珠の笠石も・・・このような石龕墓?は他の墓場ではついぞ見かけた事はない・・・・??

迎え地蔵も中々立派でちょっと変わった造り・・・・、ほぼ等身大。

古めかしい三体地蔵に、六体地蔵・・。

六体地蔵の前には懐かしい辻蝋燭。

子供の頃、土葬の野辺送りには必ず辻毎に立てられていたのを思い出す。

ここではまだ土葬が生きているのだろうか??、それとも習俗として此の辻蝋燭が残ってるのだろうか??

時々人里はなれた大和や伊賀の埋め墓などでは見かけることもあるが・・・、NET検索してもヒットしない。

死者を弔う場だとしても尚、愛おしい。

撮影2011.3.31/他


柳生町 柳生陣屋石垣の地蔵石仏

2011年04月01日 | 石仏:奈良

奈良市東部大和高原北端の柳生は全国的に名の知れた土地、奈良市街から国道369号線で約18km、30分と遠く、鄙びた里山の小さな歴史的景観の町です。

国道369号線は柳生に入って大きく右手に左折、暫く進むと右手に柳生中学がありその先柳生陣屋看板で右手脇道に入ると目の前は柳生八坂神社。

道なりに進むと左手、柳生陣屋跡石垣に組み込まれた大きな石にこの地蔵菩薩が刻まれている。

苔生し見逃してしまいそうな磨崖石仏、舟形光背?の中に約50cm像高を持ち、蓮座上に立つ地蔵菩薩立像。

石を覆い尽くす苔で詳細は全く不明・・・

寛永19年(1642)柳生宗矩が陣屋を建てた時には既に此処にあってそのまま石垣に組み込まれたのだろうか??。

撮影2008.6.28