馬鹿ナビにピンポイントで目的地の清泉寺を打ち込んで行ったつもりなのだが・・・、途中国道でこの磨崖への案内板を見かけ急遽案内板通りにハンドルを切った。
国道225号、旧谷山市街を抜けJR指宿枕崎線と平行南進、向原の信号を越えると右手脇道角に案内板、なだらかな斜面の住宅街を抜け、谷を下り切るとそれと解る表示板が有り、何台か停められる空き地・・・・・。
駐車場前の道を挟んで、水場に突き出した大岩にはこんな磨崖石仏・・・・、月輪内にもう殆ど崩れ果て、像容も定かでない坐像石仏。
清泉寺廃寺の石垣だと思われる石積脇を少し進むと鉄柵の扉があって「清泉寺跡見学道路入り口」の文字・・・・・、鍵は掛けられて居らず自由に入れますが奥はどうにも怪しい雰囲気です。
一歩中に進むと冬場とは言え、夏草がそのまま立ち枯れ、どうにも空気が淀んで長居を拒むような空間です。
案内板の説明によると、この地にあった清泉寺は飛鳥時代に来日した百済の僧「日羅上人」が開祖、時代は下って島津家の庇護を受け大いに栄えたそうですが、明治の廃仏毀釈により、廃寺となり現在の姿になったようです。
片や、領民から「大和さあ」と呼び慕われた「島津大和守久章」が正保二年(1645)三十歳の若さで無念の自害をし果てた処としても知られているようです。
谷川の細い流れに沿って進むと崖壁には、こんな小さな磨崖仏・・・、屋根庇状の切り込みの下、深い舟形の龕に彫り込み、中に如来型坐像を刻みだす。
風化のためか毀釈ためか?最早像容も定かでは有りませんが「小阿弥陀仏」だと記されています。
「建長三年」(1251)の銘が確認された鎌倉時代の像立。
傍ら、流れの石上には空を睨み続ける哀れを誘うような首だけの仁王・・・・
その隣、羊歯類の絡まる崖壁には大きな磨崖仏。
像高2.7m、定印を組む阿弥陀如来だと云われていますがこの始末、顔は潰されおまけに羊歯がまとわり付いています。
清泉寺の本尊とされ、開祖「日羅上人」の作と伝えていますが鎌倉前期の像立、やっぱり哀し過ぎる姿です。
これでも僕は羊歯類を大分取り除いた後撮影した。
奥に有る「島津大和守久章墓」へと進む通路。
傍らの崖に刻まれた墓石・・
やっぱり顔を潰され苔生した磨崖双石仏。
荒れ果てたままに任せた「島津大和守久章墓」
それでも手向けられた花は枯れ果てるでもなく真新しかった。
いくら墓地慣れしてるとは云え、この地の空気には馴染めなかった。
撮影2011.12.21
石仏探索を続けていると、何度かそんな感じのする所がありました・・・
今も、如何しても足を踏み入れられない所があります・・・
「島津大和守久章墓」へと進む通路の傍らの崖に刻まれた墓石・・の写真を見て
ふと、ダムに沈む前の牛ケ峰の大日如来磨崖仏への参道が頭の中に浮かびました。
牛ケ峰の六地蔵から橋を渡り細い参道を登っていた時、確か壁面にこんな感じで彫られていたように思うのですが
写真もなく、今となっては確かめる術も無いいい加減な記憶です・・・
でも、気になるんですよね・・・
それとも明日も休みでのんびりですか。
僕も昨日久しぶりに出かけたけれど鼻水もんでした。
手はかじかむし・・・、もう山中はあきら早々に帰って来ました。
名張の後追いでした。