goo blog サービス終了のお知らせ 

愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

東近江市 長勝寺の石造宝塔

2015年04月02日 | 石塔:石造物

 旧能登川町、長勝寺の正面長い石段を登った踊り場に建つ石造宝塔。

長勝寺は愛知川左岸の単独峰和田山西、山裾に境内を持つ古刹、嘗て天台宗、現臨済宗妙心寺派。

長勝寺石造宝塔は切石基壇上に建つ高さ223cmの花崗岩製。

 

塔身軸部は、正面のみ鳥居型を刻みだし、小ぢんまりよく纒まり・・・

基礎石には正面と両側面の三面に、輪郭内に格狭間を作り宝瓶三茎蓮を刻み、近江形式を踏襲している。

鎌倉時代後期 嘉暦二年(1327年)の紀銘を持つ貴重な石造宝塔として知られる。

また同境内には江戸時代中期 「寛延三年(1751年)」の、ちょっと見慣れない大きな五輪塔が建って居ます

撮影2012.10.12


八幡市 善法律寺の五輪塔

2015年03月31日 | 石塔:石造物
 
八幡市男山、善法律寺に安置されて居る立派な五輪塔。
 
 
石清水八幡宮が鎮る男山東山裾に善法律寺と称する古刹が有り・・・・
 
 
その境内には元大乗院に有ったという見事な五輪塔が安置されて居る。
 
大乗院は、現在の京阪八幡市駅付近にあった寺院ですが、明治2年に廃寺と成り、五輪塔はそのまま地中に埋められ、地表からはみ出た地輪は長い年月に削り取られ、現在のような哀れな姿に成って居ます。
 
 
五輪塔は総高ほぼ2、2m、地輪は酷く傷んで居ますが、他は完品でその完成度も高く、西大寺の叡尊とその石工集団による造立と見て間違いないようだと言われて居ます。
 
 
尚、蛇足ですが、この善法律寺は石清水八幡宮社務職を務めた善法寺家清が、正嘉年間(1257~58年)に私家を捨て建立した律宗(唐招提寺派)の古刹です。
 
撮影2013.2.9

奈良市長谷町 塔の森の石塔

2015年03月26日 | 石塔:石造物

 

 知る人ぞ知る奈良時代の「塔の」と呼ばれる山間に建つ六角古石塔。

天理市山田町都境を接する奈良市長谷町、その集落の奥深く鎮守「日吉神社」があり更にその奥20分程・・・・・

最後に少々棘棘しい様な、長い石段を上り切ると、塔の森と呼ばれる尾根につく。

尾根台地には小さなお稲荷さんの祠が有り、信仰の場とされている様です。

その奥、鉄柵に囲まれ、見たこともない珍しい造形の石層塔が立ち尽くしている。

極めて珍しい造形のこの層塔は現在六角六層塔、高さ役2.5m、春日石という軟質凝灰岩で風化が著しい

基壇は、その側面一杯に大きくを格狭間を入れ、初軸には上部の開いた輪郭の中、単弁八葉の蓮華文を陽刻している。

屋根石はしっかり反り返り、力強さを見せるが、上層部は痛々しく痛みが激しい。

嘗て付近に存在したという塔尾寺の遺物だろうと言われて居ますが詳細は全く分かって居ません。

現在は六重塔ですが、元の塔は二重基壇上に建つ六角十三重石塔だと言われ、周りにはその残欠が

嘗てこの山深い山間部にも法灯を守る人達の営みがあったのかと思うと頭を下げ、手を合わせずには居られなかった。

周りの気配もその気にさせるような・・・。

撮影2012.11.14


日野町 金剛定寺三層石塔

2015年03月10日 | 石塔:石造物

湖南、日野町の古刹、金剛定寺の三層石塔。

誰の目にも古刹であることが一目瞭然の佇まい・・・

金剛定寺は日野町中心街より西へ約6km、農作地帯の小高い丘に軒を並べる中山集落の中程に建つ。

金剛定寺は、聖徳太子が建立した四十八院のうちの一院で、現在 天台宗の寺院。

日野町内でもっとも古く、奈良時代にはすでに相当の勢力を持つ寺だったようで、現在地を中心にして東谷西谷のすべての地内にぎっしりと堂塔伽藍や僧坊が立ち並んで居たといいます。 

そんな境内に建つ三層石塔は、各層の屋根と上層軸部は一石からなり、現在不自然な三層石塔と成っているが・・・もと七重であったとの説もある。

<正面>

初層塔身部には舟形を彫りくぼめ四方仏坐像を半肉彫り、基礎石にはそれぞれの種子を薬研彫りしている。

<東面>

屋根石は分厚く力強い反りを持ち、初層塔身が馬鹿に背が高い。

<西面>

基礎石にキリークを刻み、四方仏の阿弥陀如来坐像を刻み出している。

塔身に対して基礎石が小さすぎアンバランスなのは五輪塔の基礎を流用していると言う事でした。

鎌倉時代中期 「建長四年(1252)壬子十月十八日」の刻銘があり、日野町の指定文化財。

撮影2012.10.26


近江八幡市大房町 邇々藝志(ににぎし)神社の石塔/他

2015年03月09日 | 石塔:石造物

近江八幡市大房町、邇々藝志(ににぎし)神社境内に在る五層石塔と妙な形の地蔵尊。

この画像はグーグルビューなので分かり易いと思いますが・・・市街を抜け、西へ向かう県道26号線を道成り、湖岸穀倉地帯の真ん中に初めて表れる集落。

集落は小さな農村集落でこの辺りのどこでも見られるような鄙びた佇まい、そんな集落の中程に、この難しい名前の邇々藝志(ににぎし)神社が鎮座している。

境内奥、拝殿の右、境内端に石塔の残欠などと共にこの石塔が建って居る。

現況五層石塔の様に見えるが・・・この残欠が石塔の笠部とすると、たぶん十三重石塔では無かったのか??

基壇石の上に在る基礎石の側面には縁枠を残した中に開蓮華紋?を配し、初層塔身には舟形の中四仏が刻まれて居る。

妙なことに基礎石から上の笠石の四隅には土饅頭が乗せられて居た・・・・・子供の悪戯かとも思えたが、他にもこの土饅頭の事を描いた記事があったのでこれは何かの呪物なのかも知れない。

一方その右手には、一見石柱にも見える様な六角柱の頭を丸めたそれぞれの面に舟形作り、小さな地蔵立像刻み出す。

六角柱のそれぞれの面に一体づつ刻まれ合わせて六体地蔵。

神仏習合の時代には、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を権現とみて、地蔵菩薩の垂迹なので、そんな関係での地蔵なのか??

それにしても六角柱の六体地蔵など見たことも無い。

撮影2012.1.26


野洲市 苗田神社の仁王塔

2015年03月08日 | 石塔:石造物

野洲市 苗田神社に残された仁王塔と呼ばれる七重石塔。

苗田神社は以前、勧請縄でも紹介した事のある神社、「せせらぎの里」と呼ばれる水田農村集落の真っ只中に在る。

石塔の場合は十三重塔が大部分を占めると思っていたが、この付近では意外にも十三重以外のものにお目に掛かる事が多くて驚き。

 笠石は上層部で欠損が目立つ他はほぼ完存・・・各層の屋根上部に上層の軸部をつくりだす。

初層軸部には舟形を彫りくぼめ四方仏坐像を刻み込、軒下の垂木型はつくらず、屋根は力強い反りを持つ。

三層目軸部から誰下げられた小勧請がいかにも湖東という感が有り面白い。 

  

撮影2012.10.26


守山市 東門院の石塔/他

2015年03月07日 | 石塔:石造物
 
守山市、「東門院」に残された石造品。

JR守山駅の北西約800m、旧中山道の町並みに埋もれる様に建っている。

最澄が鎮護国家の道場とした叡山三千坊の「東門」にあたるためこの名称が付けられたとも、坂上田村麿呂の伝承のように「皇城」の「東門守護」から付けられたとも伝えられる名古刹です。

そんな古い歴史を持つ寺に相応しく、境内南端隅に、木立を背に三古石塔が建っている。

そんな中、なんと言っても目を惹くのがこれ・・・高さ287cm、いかにも古様な笠を持ち、各重とも塔身と笠が別石の層塔形式の五重石塔・・・基礎石は、幅広で低い。

上に載る初重塔身は、前後二石からなり、舟形内に正面、阿弥陀、背面、釈迦と見られる如来型坐像を刻み出す。

刻銘は有りませんが鎌倉時代前期の造立とされ、重要文化財に指定されて居る。

向かって左手の宝塔は高さ159Cm、基礎石は高く塔身は低く小ぢんまりしている。

屋根石の背面が欠損、双輪も後補。

基礎石は立派で各側面には幅広の枠を残し内に格狭間をつくる。

鎌倉時代末期の造立とされ、重要美術品指定。

最後は右手の宝篋印塔・・・・高さ167cm、塔身には月輪内に金剛界四仏の種子を刻み、基礎側面には輪郭を巻き内に格狭間内開蓮華(かいれんげ)を陽刻する。

鎌倉後期の造立とされ重要美術品に指定されて居る。

見事に三石塔が居並ぶ姿はあまり見慣れない。

境内東脇、鐘楼横の小石仏の集積には・・・こんな地蔵石仏も・・・・。

撮影2012.10.26


野洲市 千原神社の宝塔、佛法寺の宝筐印塔

2015年03月06日 | 石塔:石造物

 

 野洲、井口町「佛法寺」 とその同境内に建つ「千原神社」に残された二基の石塔。

 

野洲川右岸、兵主大社に程近い井口集落の中程に並び建つ寺院と神社・・・・勿論明治までは同一だったのだろうが??・・・・どことも同じくで現在寺の名と神社の名は別々に成っている。

しかし境内は仕切りの無い同一境内で誰が見ても明治の神仏分離で不自然に成っていることが一目瞭然。

 

 そんな右手には「千原神社」が建ち、石鳥居左手には小ぶりながら立派な宝塔が建ち尽くして居る。

高さ 152Cm、基礎石に太い枠を取り、三茎蓮を刻み、塔身正面には、扉型を刻みだしている。

笠石は無骨なほどに厚く力強く、鎌倉期の特徴を良く表し、両側の束に「文保三(一三一九)四月八日」の紀年銘が確認され、鎌倉後期の造立。

方や境内続きの「佛法寺本堂」左手脇にはどっしり構えた宝筐印塔。

基礎石側面には、それぞれ格狭間内に開蓮華文様を浮彫に・・・・

上部には複弁の反花を施し、また塔身には月輪を薄く陰刻、内に金剛界四仏の種子を刻み込む。

塔高、233Cm、基礎石両側に「文保三年己未三月廿三日、願主左衛門尉景光」の銘がある。

宝塔と同年号を持ち、同時建立したものでは無いだろうか??

撮影2012.10.26


守山市 副林寺の宝塔/他

2015年03月05日 | 石塔:石造物

 

 湖南、守山市の湖岸に近い副林寺境内に並び建つ、二基の石造宝塔が建っている。

旧野洲郡下最古の歴史をもつ寺院と言われる「副林寺」は、木浜集落の真ん中辺り、集落を縦断する旧道脇に狭い境内があり、山門が道路とくっつく様に接して居る。

もとは野洲に在り、「最澄(767-822)」が開いたといわれる古刹ですが、例に漏れず戦国時代に焼け落ち、後この地に再興された様です。

宝塔は本堂右手脇、背の低い植え込みの中に建てられ、二基の宝塔は殆ど瓜二つ・・・・・

<向かって右手の宝塔>

この宝塔は鎌倉時代の武将・「佐々木高綱」が「宇治川の戦い」に出陣する折、「経筒を塔身に収めた」と寺伝にあるといわれ・・・・・・

後補のつぎ足し相輪を除く高さ 218Cm、塔身下部正面に如来坐像が浮彫され、風化摩耗が激しく不確かながら釈迦如来だと言われて居ます。

<向かって左後方側から・・・>

向かって左塔は高さ255cm・・・共に二段の首部が大きく高い。

屋根石の軒反りは力強いものの重量感に少し欠け、鎌倉中期から後期への移行期の造立???

しかしなぜに同じ宝塔を二基も同時に造立しなければならなかったのだろう??

一方、横手には不動明王立像を刻み出した石龕仏・・・・略式化、形式化の進んだ江戸期の造立か????

撮影2012.10.26


葛城市 当麻北墓の石塔

2015年02月27日 | 石塔:石造物

昨日に引き続き、当麻北墓に建つ石塔を二基。

古道在所道脇に建つ地蔵堂の裏、墓地参道脇に最近整備された基壇の上に・・・・・

中将姫の墓と書かれた石碑が建ち、三重層塔と十三重石塔が並び建っている。

 もとより造立年代と中将姫との時代が全く合わないので後の世に墓塔とされたものだろうが???

高さ285cm、四面共に粗面の一石切石基礎に建ち初層軸部に縁取りの中、舟形を彫り沈め中に像高25cmの蓮華座に座す、顕教四仏を半肉彫りで刻み出す。

これは正面、西面の阿弥陀如来坐像・・・

南面の釈迦如来坐像・・・・

 

 屋根石は分厚く重量感があり、両端で反り、鎌倉末期の造立だと考えられて居る。

 一方向かって左側に建つ三層石塔は相輪を欠失し、新しい五輪塔の風・空輪を載せている。

初層軸部に大きく深い金剛界四仏の種子を薬研彫りにする・・・・凝灰岩製の高さ156cm、無骨で野趣豊かな平安時代後期の造立とされて居る。

 古道脇に建つ自地蔵堂には木造の彩色が残るこんな半跏座地蔵菩薩像

撮影2012.10.10


葛城市 当麻北墓の五輪塔 

2015年02月26日 | 石塔:石造物

当麻北墓に誰が見ようが古式の五輪塔が建っている。

当麻北墓は當麻寺の山門を右折、古い在所道を道成に10分も歩くと、旧「造り酒屋」の茅葺き民家が有り・・・・

その裏手に当たる処にこの地域の広大な惣墓があり、一画に見慣れぬ棗型の水輪を持つ五輪塔が、異彩を放って建って居る。

高さ2.4m、四門梵字は位置が移動しているものの雄渾な薬研彫りで刻まれ・・・

地輪は低く安定感が有り、火輪の軒は無骨に厚く、軒ぞりは緩やかで、水輪は大きく棗型。

見慣れた五輪塔とは一線を画し、どちらかと言うと宝塔に近い感が有る。

古式な造形から平安時代後期の造立と考えられ、大和最古の五輪塔だとされて居る。

撮影2012.10.10


太子町 叡福寺の層塔 

2015年02月22日 | 石塔:石造物

 

聖徳太子ゆかりの叡福寺には、他ではあまり見れない様な古石塔が二塔もある。

 「上の太子」と呼ばれ、聖徳太子御廟所としてよく知られているが、天正2年(1574年)の兵火で大きな被害を受け、古代の建物は残っていない。

その後、慶長年間(17世紀初め)、後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が伽藍を再興した。

 二つある古式な豊かな多層石塔の内、叡福寺墓地にあるこの塔にはゆるぎ無い存在感がある。

高さ約2.5m、簡素で古式な五重石塔は初層以外の軸部が極端に低く、こんなに歪んでいても何とか安定を保っている。

凝灰岩系の軟質石材で荒削りな造りや全容から平安時代後期の造立とされて居る。

一方太子廟を挟んだ右手には、融通念仏宗「宗祖 良忍大師御廟」が有り・・・

その前方、石柵で囲まれた中にも古風な三重石塔が建っている。

高さ約等身大程、前記の層塔と同じく凝灰岩性での簡素な造り

力強く感じるが最上段に乗る双輪は全くの後補でいただけない。

 これは多分本来ここに有ったのでは無く、境内の他の場所に有ったものを、供養塔として移動し来たのでは無いだろうか??

現在は三重塔だが屋根の形もちょっと不自然・・・・前期と同時代の物だとは思われますが??

撮影2012.10.10

 


長岡京市 長法寺の石塔

2015年02月18日 | 石塔:石造物

長岡京市、西山麓の天台宗長法寺に建つ二基の石塔。

長法寺は、寺伝によれば、七堂伽藍も整い十二坊もある洛西での大寺だったが、応仁の乱で悉く焼失したといわれている。

境内脇の真新しい洒落た庫裡を背に、切石枠に玉砂利を敷き詰めた基壇の上に古風な三重の石塔と宝筐印塔が並び建って居る。

 宝篋印塔は、南北朝時代前期頃、高さ1,72mの花崗岩製・・・・

古風で一見華奢にも見える三重石塔は、高さ2,05mの花崗岩製。 

丸みを帯びた屋根石や軸石には穏やかで独特な雰囲気が感じられ、初層軸石には舟形光背の中、四方仏が刻まれて居る。

正面を西向きに立つ三重石塔は、長法寺開祖、千観上人の供養塔だと伝えられて居ます。

撮影2012.10.7


高取城趾 登山道の猿石(再撮)

2014年09月30日 | 石塔:石造物

   

以前にもこのページで紹介したが、新しい写真での再UPです。

 前回紹介の岩屋不動へ行った序でに直ぐ近くに置かれた謎の石造物「猿石」に再度寄って来た。

高取城、登山道の旧坂、一升坂を登りきった明日香村栢森へ下る道筋の分岐点に置かれ、登城のハイカーを奇妙な顔つきで迎えて呉れる。

明日香檜隈の吉備姫王墓にある猿石同様、江戸時代・元禄15年に欽明天皇陵(きんめいてんのうりょう)の南の田圃から掘り出され、
この地に石垣用石材として運ばる途中でここに置かれた様です。

高さ85cm、幅75cm、厚さ65cmを測る奇妙なかたちの石造物・・・・猿石の名前の通り猿に似ています。

麓、明日香の吉備姫王墓に置かれた他の石造物と同じく真正面に見事な陽物を付けている。

猿石は飛鳥時代、斎名朝(7世紀)の頃に作られたものと推定され、猿石はもともと欽明天皇陵の堤に置かれていた呪物では無かったのかとも言われて居ます。

古代、陽物は命の再生の根源として崇拝されて居た。

背面から・・・

撮影2012.11.16


平群町鳴川 千光寺の石塔

2014年09月20日 | 石塔:石造物

ちょっと前に紹介の信貴山より尾根伝いに北へ約8km、竜田川の枝流、鳴川渓谷最奥に建つ「千光寺」の石塔。

千光寺は660年頃、役行者(役小角)が草堂を築き、白鳳12年(684)天武天皇の勅命により本堂が建立されたと言われる修験道の霊場。

境内には修験道行者が使う大きな金剛杖がモニュメントとして立っていた。

役行者が大峰山を開く前に修行していたことから「元山上」とも呼ばれる千光寺。

参道には多くの・・・・、勿論「役の行者」の現代石仏が並べられている。

本堂後方には一見五輪塔かと見紛うばかりの宝塔。

脇の五輪塔と比べれば確かに違いは分かるが・・・これに近い五輪塔も当麻墓地で見掛けた様な・・・・・

相輪でなく宝珠を置いた、珍しい形状で、高さ133cm、鎌倉前期の造立つだと考えられている。

 一方その横手には十三重石塔

掲示板には創建「藤原時代」と成っているが、それは千光寺創建の間違い・・・・誰が見ても鎌倉時代後期の特徴を持っている。

総高4.17m、屋根の軒反りは力強く、軒裏に一重の垂木型を作り出し、塔身には金剛界四仏の種子を刻んでいる。

共に平群町の文化財に指定されて居る。

撮影2012.11.21