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愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

山添村大西 極楽寺の五輪塔:他

2014年02月16日 | 石塔:石造物

山添村の中心地、大西集落の道路を挟んで北面する小高い岡に建つ「極楽寺」境内墓にある「郷塔」と呼ばれる五輪塔。

道路からは少し解り辛い場所に建つ極楽寺は、無住で小さい一堂があるだけの田舎寺、集落の公民館を兼ねて居るようで、長閑な集落を一望に見下ろせる。

奈良様式の複弁反花座の上に建つ五輪塔は、高さ154cmと小振りながら全て造立当初のままで保存状態が良好。

地輪の一面に正中二年(1325)乙丑4月□日の銘が有り、鎌倉後期の造立・・・・山添村の文化財に指定されて居る。

前述の不動院とは歩いても10分弱程の位置にあり、鎌倉後期のこの土地の仏教文化が偲ばれる。

一方、無縁仏の集積の中には・・・後列中央に総高約1.3mの阿弥陀坐像石仏と、高さ約70cmの地蔵箱石仏が目を惹く。

阿弥陀石仏は江戸期のありふれた作風ながら、地蔵箱石仏は上部に枘突起が有り、元は笠石が載っていたもので、室町後期の様式をよく表している。

胸元で断裂しているのは、ちょっと痛々しいのですが・・・・。

撮影2012.4.14


山添村春日 不動院の宝篋印塔:五輪塔

2014年02月15日 | 石塔:石造物

昨日に引き続き、山添村春日、「不動院」に有る石造品から・・・・。

本堂前、向かって右手、植え込みを後ろに古式な宝筐印塔が健っています。

山添村文化財指定、総高139cm、文保元年(1317)の銘を持ち、奈良県下では五指に入る。

塔身三面には、金剛界三仏(宝生、阿弥陀、不空成就)の種子を月輪内に薬研彫り・・・

他の一面に蓮座に座する定形地蔵を中肉彫りで刻みだし特色が有る。

小型ではあるが古式の中に独特な個性を持つ辺境の宝筐印塔です。

方や、宝筐印塔に先立つこと四年、正和二年(1313)の銘を持つ五輪塔。

高さ190cmとさほど大型では有りませんが、鎌倉時代後期の典型的な様式を持ち、複弁反花座を設け、大和地方独特の美しさを見せている。

こんな草深い田舎寺にもこれだけの石造物が有る大和文化圏の奥深さを思い知らされる。

撮影2012.4.14


京都市右京区嵯峨 嵯峨釈迦堂(清涼寺)石造層塔:宝筐印塔

2014年02月06日 | 石塔:石造物

古い寺には古い石造遺品・・・・、昨日に引き続き京都嵯峨釈迦堂(清涼寺)の三石塔。

その一基目、「源融(みなもとのとおる)の塔」と呼ばれる鎌倉時代後期の宝篋印塔。

相輪を除いた高さは163cm、塔身には金剛界四仏の種子を刻むと言うが、彫りが浅いのか良く見えない。

直立に近い隅飾り、切石の上に、基礎を無くし、別石で造られた単弁反花座の上に載り、均整の取れた風格を持つ。

因みにここは、源融の山荘「 棲霞観(せいかかん)」があり、死後「棲霞寺」としたのがこの寺の始まりと言われている。

二基目の宝篋印塔は「源融の塔」の少し北側、石柵に囲まれた基壇の上に後ほど紹介する石造層塔と並立している。

一目見るなり何処か変、笠部の隅飾りが全て欠損、どこか締まりなく、何となく落ち着きません。

四隅共に欠損するなんて・・・、なんか人為的なものも感じ無いでは居られません。

複弁反花座上に載る塔身には、金剛界四仏の種子を、線彫りの月輪内に刻み、「嵯峨天皇の塔」との伝承があるようですが、鎌倉時代後期の造立。

同柵内、向かって左手には、古びた様式を持つ石造層塔。

特に初重軸部と一段目、二段目の屋根部は軒が薄く勾配も緩く、軒反りも少なく、特に古い様式示している。

特筆すべきは、隅取りした細くて高い塔身、古様な顕教四仏の種子。

基台上部も面取りがあり、古式をを踏襲・・・・上部を欠損するも平安末期の五重層塔だと考えられ貴重な石塔です。

撮影2006.12.16:2012.8.25


右京区嵯峨 嵯峨釈迦堂(清涼寺)八面石幢(再UP)

2014年02月05日 | 石塔:石造物

清涼寺を開基した然(ちょうねん)上人(938~1006)の墓標だとされる八面石幢。

六角形や燈籠型のものは多いが、八角形の石幢は珍しく、その上風化摩耗も激しく、上部の笠がなければ丸い石柱・・・・。

高さ155cmの花崗岩を丸みの強い八角形に整形、上部に括れ造りその下方、各面のそれぞれ如来形立像を刻み出している。

しかし石仏は風化摩耗が激しく、肉眼では何が何やら状態。

古い形式を伝え鎌倉期の像立とされるが、元から然(ちょうねん)上人(938~1006)の墓だとするには無理がある。

因みに上部八角形笠石宝珠は最近の後補です。

一切経蔵(輪蔵)の前に安置された「傅大士(ふだいし)」父子像・・・・やっぱりどこか異国風で彩色もよく残っている。

撮影2012.8.25


京都府八幡市 石清水(いわしみず)八幡宮五輪塔(再UP)

2014年01月31日 | 石塔:石造物

最近になり、僕のチャリ散歩範囲も広がり、ここ石清水(いわしみず)八幡宮にも良く出かけるので、この五輪塔にも立ち寄り再撮して来た。

八幡宮一の鳥居を潜らず左手に見て境内脇道を奥に進めば神應寺の山門、その先左手、廃寺「極楽寺」跡に立ち尽くしている。

道路より一段上がった極楽寺跡、中央に建つ五輪塔は「航海記念大石塔」の名を冠せられた高さ6mにも及ぶ五輪塔。

二段に継ぎ足された地輪の一辺は2.4m、基壇には反花座を備え、一辺3.2mと言う巨大さ。

中央に見える水輪は扁平な球形で安定した力強さを感じ取れる。

石清水八幡宮頓宮聳える様に立ち尽くす五輪塔は、無銘ながら摂津尼崎の商人が宋との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、恩に報いるため寄進したと伝えられ、鎌倉期を代表し、中世最大の五輪塔として知られる。

国の重要文化財にも指定され、その威容と優美さを合わせ持つ大五輪塔です。

撮影2013.11.28


米原市清滝 清滝寺徳源院京極家墓所宝筐印塔

2013年06月30日 | 石塔:石造物

近江源氏を祖に、佐々木氏の別家、京極氏の菩提寺「徳源院清滝寺」に約600年亘る京極氏の歴代宝筐印塔が一同に会している。

古式の鎌倉塔から江戸時代の近世塔まで上段下段と岐れその数約35基が居並ぶ姿は、京極氏の栄枯盛衰と相まって圧巻です。

清瀧寺は弘安九年(1286)、京極氏の初代氏信が建立、東海道本線柏原駅、西へ約1km、清滝集落のドン突き山裾に閑静な佇まいで建っている。

墓地は本堂裏、山裾の斜面を二段に分け周囲を白壁土塀で取り囲んでいる。

一段高い上段の白壁土塀を背に向かって右から始祖氏信(うじのぶ)を筆頭に、南北朝時代に活躍した道誉(どうよ)を含む、歴代当主の墓碑宝篋印塔が18基が横一列に並び建つ。

これは22代、高豊(たかとよ)が寛文12年(1672)境内に三重塔を建て、付近に散在していた墓を菩提寺のここ集めたと言われて居ます。

右端、永仁三年(1295)銘を持つ京極氏始祖氏信(うじのぶ)の墓碑宝篋印塔。

京極氏の家名は氏信が京都、京極高辻の地に宿所が在ったことによるとか・・・・。

下段には左から19代あの大河ドラマ「江(ごう)」、浅井三姉妹の次女「初」を娶った京極高次(たかつぐ)の石廟や木廟が並び建つ。

石廟内、高次の墓碑宝篋印塔・・・・、江戸時代初期、笠の隅飾りはそっくり替えっている。

これは24代、京極高矩(きょうごく たかのり)の墓碑宝篋印塔。

下段、廟無し墓碑宝篋印塔。

とても詳しくは書き切れません・・・。

殆どが国の史跡や県の史跡に指定され、兎に角圧巻、一見の価値有り。

撮影2011.8.15


高島市安曇川町 田中神社の石造宝塔・他

2013年06月29日 | 石塔:石造物

田中神社、石段参道脇の斜面に並び建つ三基の石造宝塔と、二基の宝篋印塔・・・。

特に大型古式の石造宝塔が三基も一列に並び建っている姿は圧巻です。

田中神社は湖西線JR安曇川駅北西へ約2km、田中集落奥突きの山裾に鎮座・・・・

背後の山上には継体天皇の父「彦主人王」の墓とされる古墳があり、ここも継体天皇の影が色濃い神社です。

三基並んだ古式鎌倉時代の石造宝塔・・これだけでも充分壮観。

参道側より一基目の石造宝塔

少し頭でっかち感は否めませんが重厚な屋根石、基礎石には格狭間内に開蓮華と三茎蓮。

軸部塔身は、正面のみに鳥居形を刻み出し、首部は特徴的な高欄付き二段で鎌倉後期の造立。

二基目の石造宝塔、四面共に素地の基礎石、やや薄い屋根部、相輪の上部は欠損している。

軸部塔身は四方に鳥居扉型を刻み出すがボロボロ・・・首部は二段

三基目、粗面の基礎石、軸部塔身には二段の首部、屋根石軒下も二段落ち・・・・

軸部塔身正面に舟形を彫り沈め阿弥陀坐像?を刻み出し、鎌倉後期の造立。

その奥にも二基の宝篋印塔が並ぶが一塔は塔身を失っている。

撮影2011.2.20


高島市拝戸(はいど) 水尾神社(みをじんじゃ)の宝塔

2013年06月28日 | 石塔:石造物

先日に引き続き水尾神社(みをじんじゃ)の石塔・・・、庭園の西端に二基並び立つ大型宝塔の残欠。

正面から・・・基礎石は共に格狭間を造り出し・・・

軸部塔身には扉を刻み出し、首部は二重構え・・・

しかし屋根部は共に宝篋印塔の物を転用している。

基礎部、軸部は優秀な物だけに惜しまれる 。

撮影2011.12.4


高島市拝戸(はいど) 水尾神社(みをじんじゃ)層塔残欠 

2013年06月27日 | 石塔:石造物

同じく高島市拝戸(はいど)、水尾神社(みをじんじゃ)境内脇の新しい庭園に建つ二層塔の残欠、寄せ集め二宝塔。

完品は何一つ無いのですが・・・・、それはそれなりに見事です。

高島市役所より西へ約3Km、県道296号線脇に一際目を惹く立派な神社・・・・「古事記」や「日本書紀」にも登場するような神代から連綿と続く旧い神社。

一昨日にも紹介した「三重生(みおう)神社」と多分同じ語源だと思われる水尾神社(みをじんじゃ)、このあたりは継体天皇の故地、三つ子の第三子に因み、三尾、三重生、水尾などと書くが読みは皆「みお」と読む。

因に継体天皇の母「振姫」は当社の拝殿を産所とし、三児を同時に安産したと伝えて居ます。

拝戸古墳群に囲まれるようにしてある境内、その南側を利用した巨石の庭園が造られ三基の古石塔が並び建っている。

向かって左手は別にして、中央と右手は層塔の軸部と屋根部の残欠、屋根部と塔身は寄せ集めでしょうが・・・・。

向かって右端の層塔残欠、軸部には舟形の中に中肉彫りの四方仏

正面は北面してるが・・・・これは阿弥陀

これは左北面、右西面・・・・

左西面、右南面・・・、四方仏の方向も間違っている様ですが、鎌倉時代中期 仁治二年(1241) 滋賀県の層塔では最古の紀年銘を持つ。

中央の層塔は側面四方に格狭間を持つ三茎蓮を刻み二段台の基礎石の上に建つ。

右側、正面を北向き、深い舟形の中厚く四方仏を刻み出す。

西側の四方仏

こちら南面の四方仏・・・

こちら、南西方向から・・・・・宝篋印塔の基礎石、軒先を欠損した笠石は宝塔の転用・・・・取り敢えずという感じ。

一方こちらは・・・・、残り物の寄せ集めという感じ、おまけに層塔の屋根を逆さに積んだり

ジグソーパズルの様に積み直してみたら一塔ぐらいはまともに成るかも・・・・。

撮影2011.12.4


高島市新旭町 大善寺石造宝塔

2013年06月26日 | 石塔:石造物

最澄開基と伝える古刹「大善寺」の境内脇墓地に建つ中型の石造宝塔。

安曇川左岸、高島市役所より南に約1km足らず、旧い在所道脇にひっそりと建つ、最澄開基の古刹とは言え、織田信長の兵火で 焼失、その後この地に再興されている。

石造宝塔は本堂正面に集めた小石造物や墓石の中央に建っている。

少し小振りに感じるが姿の良い宝塔、大きい基礎石には格狭間内に三茎蓮文様を刻み、塔身には舟形を彫りくぼめ、定印の阿弥陀坐像を半肉彫りしている。

基礎石正面左に鎌倉後期の正和二年(1313)の紀年銘を持ち、総高186Cm

屋根石の軒ぞりの力強さと、塔身の定印阿弥陀坐像の釣り合いが実に良い。

撮影2011.12.4


高島市安曇川町常盤木 三重生(みおう)神社の宝塔

2013年06月25日 | 石塔:石造物

前回に同じく湖西高島市、安曇川右岸、三重生(みおう)神社の石造宝塔。

三重生(みおう)神社とはまた聴き慣れない名前の神社だと調べてみると「三つ子の母の社」とも呼ばれ、三つ子の第三子として産まれた第二十六代継体天皇ゆかりの神社だそうです。

集落の中ほどに有る小さな社殿の神社ですが・・・・・因に祭神は継体天皇の両親である彦主人王と振媛と成っている。

石造宝塔は社殿背後の玉垣に沿いの一段高い位置に建つ。

基礎石側面には全てに輪郭付きの格狭間設け、低く安定感がある。

総高2.5m塔身は粗面で、上に載る屋根部はやっぱり重厚で力強く、鎌倉中期末から後期初頭の造立だと考えられている。

撮影2011.2.20


高島市新旭町 森神社の石造宝塔

2013年06月24日 | 石塔:石造物

昔流に云えば・・・前回紹介の針江集落の西隣り村の鎮守に有る宝塔です。

この辺りの地域では何処に行ってもこうした石造宝塔にぶち当たる・・・・まるで犬も歩けば状態です。

今でこそ住所表示に森の字は使わなく成ってしまったが、以前は新旭町旭字森という標示だったようで、この森神社という社名も納得出来る。

神社は在所道、辻の一角に南面して建ち、家並の中に在っても緑多い神社です。

そんな神社境内への南東入口脇に西面して建っている。

古風な石造宝塔は花崗岩製の高さ約2.15m、基礎石向かって右側面には輪郭をの中、格狭間を作るが主部塔身には何の装飾もなく、首部は一段。

上に載る屋根部は比較的重厚で下部に二段の斗拱部を持ち、屋根上の相輪部は何処も同じように一部欠損。

鎌倉時代中期の造立と言われ、旧新旭町の文化財に指定されて居た。

撮影2011.12.4


高島市新旭町針江  日吉神社石造宝塔/大日種子板碑

2013年06月23日 | 石塔:石造物

湖西、高島市の中心域、湖岸地帯は石造宝塔の密集地帯としてよく知られて居り、そんな一つ新旭町針江集落の日吉神社には宝塔を中心に三基の石造物が並び立って居る。

針江集落は湖岸穀倉地帯、「生水(しょうず)里」と呼ばれ、豊かな湧水が水路となり集落を潤し、人々の生活と蜜着してきた。

そんな水路を跨いだ日吉神社は、永仁2年開基の石津寺の鎮守社として寺と同時に創建されたと伝えられるが、石津寺はすっかり衰退、小さなお堂が境内の片隅に残されて居る。

そんな小堂の前、大きなタブノキの根元に、古式然とした石造が並んで居る。

所謂、石津寺の遺物なのだろう??中央には十尺塔と呼ばれる大きく立派な宝塔、向かって左手には二梵字板碑、右手には層塔の残欠。

宝塔は基礎石に鎌倉時代後期の徳治二年(1307)の銘を持つ花崗岩製、

軸部と二段の首部は一石から成り、軸胴部は粗面で何の装飾も見られない。

屋根部は二段落ちの斗拱部を持ち、重厚で力強い軒そりが時代を現しているが・・・軸部に対して屋根部が少し貧弱。

現行、屋根部直下までの高は約2m、上部相輪は間に合せの五輪塔残欠を載せているが総高は3mとなり、十尺塔として造られ、宝塔の多いこの地域に於いても珍しい。

宝塔右サイドに有る二梵字板碑は前後で一柱、後方の石柱はその下部、枘で繋がれ前方の上部がその上に載っていた。

上部は山形の頭部造り出し、その下に二段の切込みをいれ、塔身に金剛界大日如来の種子「バン」と胎蔵界大日如来の種子「ア」を大きく彫り沈めている。

上下合わせると3mにも及ぶ巨大な「金胎大日種子板碑」と言えるものです。

左サイドには層塔残欠が四方仏を刻んだ初軸部の上に笠石を一層載せ、五輪塔の水輪らしき間に合わせ石を載せている。

この残欠は寄せ集め感の強いものですが、中世に遡る石造物に違い無く、ほのぼの良い味出してます 

撮影2011.12.4


高島市新旭町 阿弥陀寺石造宝塔/他

2013年06月22日 | 石塔:石造物

 

前回紹介の高島市新旭町、阿弥陀寺墓地の豊かな石造物の中では、この石造宝塔が一番よく知られて居る。

一列に並び立てられた五輪塔の中、見事な石造宝塔が一基、特別な存在感を持ち立って居る。

総高190Cmに及び、塔身の四方仏が風化摩耗も進んだ中でも存在感を強く示して居る。

真正面から見る宝塔はどっしりとして重厚、塔身四方にそれぞれ舟形を彫り沈め顕教四仏を中肉彫りで刻み出して居る。

これは東面、薬師如来坐像?。

相輪をを除いた高さ約130Cm、鎌倉中期の造立、旧新旭町指定文化財。

こちら西面阿弥陀如来坐像??

居並ぶ五輪塔の中に一際目立つ均整の取れた美しい五輪塔・・・・・鎌倉後期の正安銘が確認されて居るようです。

撮影2011.12.4


大分県中津市 羅漢寺橋

2013年04月22日 | 石塔:石造物

院内町から一山隔てた東向谷は、名勝「耶馬渓」として全国的に知れ渡り、その流れ、山国川に架かる石造三連アーチ橋です。

上質な石を産出するのか?歴史的にそういう技術を育んで来た土地柄か??概して九州は石造文化の発達した地域です。

ここ大分県中津市本耶馬渓町にも、石造五百羅漢や地蔵石仏の居並び圧巻の「羅漢寺」と言う岩窟寺院が在り、こちら特有のアーチ石橋も有ります。

元、羅漢寺への参道として建造された様ですが、現在羅漢寺へはこの橋を利用する事は無い。

長さ約90m、大正九年(1920)完工するも、難工事で完工までに二度の崩落事故を起こしたようです。

大分県有形文化財指定、現在は静かな水面に三連アーチを美しく写し出して居ますが・・・・。

又すぐ下流には耶馬渓を代表する名勝として「青の洞門」がある 

撮影2009.12.26