脱原発現象は庶民の集団ヒステリーかどうかについてFAZ新聞の文化欄で社会学者ウルリッヒ・ベックが考察している。
「一匹狼のドイツ人」と、環境保護運動家シュテュワート・バーンドに散々貶されたのであるが、イタリア人も続いた。もしかすると日本人も続くかもしれない。
「一人も死者も出ていない福島のおかげで、原子力発電の価値に確信を持った」と語る英国の運動家ジョージ・モンビ-ト流の試練と実験を乗り越えての近代化への道が拓かれた - 経験による危険性の免疫化 - 十九世紀の前近代と、二十一世紀の原子力の現状を取り違えてはいけないと警告している。
それは、その科学技術的な現象であると同時に人文社会学的な事実であって、具体的には当然ながら政治・経済へと広がる特定のイデオロギーがその背後を支えていることを浮き彫りにする。
たとえば自由主義国アメリカ合衆国が原子力災害に採用している補償限度制度などは、私企業が儲けるのに対して国がその限度を超える賠償に関しては補償するという社会主義思想である矛盾を指摘している。
これは、超司法処置体制を取れないような政府は原発を保持するべきではないとする西尾幹二らの言にも一致しており、第二次世界大戦の敗北国つまり核兵器を放棄した国々にとっては原子力の平和利用などは到底あわないということなのである。
さらに再生利用エネルギーへと視野を広げているのだが、化石燃料の地主の権益どころかそれを奪い取ろうとしたコロニズムやポストコロニズムの社会を脱皮して、誰もが自由に利用できる太陽光線や風を使うことで、原子力におけるウランの奪い合いからの脱皮から大きく民主主義へと足を踏み出すというのである。
ジョン・デュウィーの1927年の「The public and its’ Problems」によれば、「共同体構築への力である、国を超えた公共とは、政治的な意思決定ではなく、生存の問題としての決断の帰結として、市民の文化的認知の中にある」となる。
そして本来ならばお互いに無関係なものどおしのコムニケーションをすべからず促すのが、公共としての「危険の認識」に他ならなく、「原子力の危険に過剰反応するヒステリー」として揶揄されるものこそが、生きるために重要な一歩であり、民主主義の変換としてのエネルギーシフトなのであるとする。
国と市民の運動は、正統性の根源と交渉の可能性を浮かび上がらせるので、こうした原子力破局において強化されて、同時に原子力産業は弱体化される。それを経て、今ドイツで注目されているような国と市民運動の新たな協調の好機となっている。
だから、合衆国やフランス、英国というような民主主義を代表する国がこれに無関心なのが解せないと書く。それは同時に市民運動家出身の首相である菅直人にとっては、再生可能エネルギーの実現よりも「脱原発による民主主義の実現」こそが天命なのである。新聞は、日本での6.11の脱原発パレードを写真つきで大きく報じている。諦めるべきではないだろう。決して一人ぼっちではないのである。
参照:
Der Irrtum der Raupe, Ulrich Beck,
Widerstand gegen Atomenergie in Japan wächst, FAZ vom 14.6.2011
死ぬも地獄、生きるも地獄 2011-04-16 | 文学・思想
福島なんて取るに足りない事故 2011-04-12 | アウトドーア・環境
「一匹狼のドイツ人」と、環境保護運動家シュテュワート・バーンドに散々貶されたのであるが、イタリア人も続いた。もしかすると日本人も続くかもしれない。
「一人も死者も出ていない福島のおかげで、原子力発電の価値に確信を持った」と語る英国の運動家ジョージ・モンビ-ト流の試練と実験を乗り越えての近代化への道が拓かれた - 経験による危険性の免疫化 - 十九世紀の前近代と、二十一世紀の原子力の現状を取り違えてはいけないと警告している。
それは、その科学技術的な現象であると同時に人文社会学的な事実であって、具体的には当然ながら政治・経済へと広がる特定のイデオロギーがその背後を支えていることを浮き彫りにする。
たとえば自由主義国アメリカ合衆国が原子力災害に採用している補償限度制度などは、私企業が儲けるのに対して国がその限度を超える賠償に関しては補償するという社会主義思想である矛盾を指摘している。
これは、超司法処置体制を取れないような政府は原発を保持するべきではないとする西尾幹二らの言にも一致しており、第二次世界大戦の敗北国つまり核兵器を放棄した国々にとっては原子力の平和利用などは到底あわないということなのである。
さらに再生利用エネルギーへと視野を広げているのだが、化石燃料の地主の権益どころかそれを奪い取ろうとしたコロニズムやポストコロニズムの社会を脱皮して、誰もが自由に利用できる太陽光線や風を使うことで、原子力におけるウランの奪い合いからの脱皮から大きく民主主義へと足を踏み出すというのである。
ジョン・デュウィーの1927年の「The public and its’ Problems」によれば、「共同体構築への力である、国を超えた公共とは、政治的な意思決定ではなく、生存の問題としての決断の帰結として、市民の文化的認知の中にある」となる。
そして本来ならばお互いに無関係なものどおしのコムニケーションをすべからず促すのが、公共としての「危険の認識」に他ならなく、「原子力の危険に過剰反応するヒステリー」として揶揄されるものこそが、生きるために重要な一歩であり、民主主義の変換としてのエネルギーシフトなのであるとする。
国と市民の運動は、正統性の根源と交渉の可能性を浮かび上がらせるので、こうした原子力破局において強化されて、同時に原子力産業は弱体化される。それを経て、今ドイツで注目されているような国と市民運動の新たな協調の好機となっている。
だから、合衆国やフランス、英国というような民主主義を代表する国がこれに無関心なのが解せないと書く。それは同時に市民運動家出身の首相である菅直人にとっては、再生可能エネルギーの実現よりも「脱原発による民主主義の実現」こそが天命なのである。新聞は、日本での6.11の脱原発パレードを写真つきで大きく報じている。諦めるべきではないだろう。決して一人ぼっちではないのである。
参照:
Der Irrtum der Raupe, Ulrich Beck,
Widerstand gegen Atomenergie in Japan wächst, FAZ vom 14.6.2011
死ぬも地獄、生きるも地獄 2011-04-16 | 文学・思想
福島なんて取るに足りない事故 2011-04-12 | アウトドーア・環境
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