Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

開かれた議論のない技術大国

2011-06-20 | 文化一般
ドイツ連邦共和国は十一年後には全ての原子力発電所を止める。その後のことを考察するためか近過去の経験を振り返っている。あまり知られていなかった東ドイツでの原発処理の話である。つまり1989年に停止されたソヴィエト製の原子力発電所の処理を振り返っている。

端的に言えば被曝する労働者が必要で、二十年以上かけて一つ一つの部品を除洗して胴切りにして格納するしかないのである。目も眩むような気の長い作業なのである。そして今も続いている。

独第二放送が福島について報道していたようだ。帰るに帰れない老人が紹介されていたが、生きているうちには戻れないならどうせ老い先短いので無理してでも帰るというのだ。

こうした問題を解決しなければいけないことは小出助教が政府がバックアップしなければいけない事例として繰り返しあげていた。今後爆発的な事故がないという未だ釈然としない前提では、同心円状の避難地域にはあまり意味がないので、少なくとも現時点での汚染の実際に即した避難地図やホットスポッツの明示こそが必要になるのだろう。

子供の疎開や事後避難などの議論が盛んなようであるが、今からでも被曝からの回復や障害の低減に役立つという合理性があるならば、海外を含めて子供たちの受け入れは十分に大規模な展開が可能であり、交換児童留学などの枠組みを拡大すれば全く問題がない。

中部大教授武田邦彦への国会での発言をみた。福島の現地での被曝者への気遣いを見せたその講演風景は印象に残っていたが、技術屋としての発言内容やその思考は「脱原発運動家」のそれではないのでこれまた興味深い。たとえば原発の外部汚染濃度上限の底上げを、生産におけるレギュレーション問題として扱っている。要するに年間20ミリシーベルトと上げてしまうと、その技術的苦心もその規制値からの技術的向上や市場も破壊してしまうということなのである。適当に危ない原子力発電が欲しいだけならば、なにも高価な技術や材料によって製造されるプラントなどは必要ないということになる。この点においてEUが明白な戦略を確保していることはいつも述べている通りである。

核開発の将来や未来への指針を考察する場合、危険性は伴っても研究や実験は必要となる。しかし高速増殖炉「もんじゅ」などは実用化への疑念が叫ばれている。これに関しては鳩山グループの会合での広瀬隆の講演でも扱われている。かなり初歩的なプラントや機械の設計ミスのように見受けられる。日本の基礎工学的な能力の限界をそこに見るようでもあり、工業製品輸出超大国となれなかった日本の実力なのであろう。汎用技術の洗練や低価格化はなされてもなかなかパイオニアにはなれない技術力であり、日本の工業製品を観察すれば一目瞭然なのである。科学や工業技術といっても基本は「開かれた情報と議論」であることに他ならなく、その社会が成長しない限りこうした高度の先端技術を押し進めることは不可能であろう。「開かれた情報や議論」は、政治や社会のことだけでは全くないのである。

なぜ菅首相の「再生エネルギー構想へのすり替え」がいけないかといえば、まさにこの点であり、先ずは「便所のないマンション」である原子力発電の非合理性から、その限界と現在における「過渡的な発電方式」として認知することが何よりも重要だからなのである。少なくとも同じ物理を学んだ学徒であるメルケル首相は、福島前からこれを公言していたのであった。なぜそれが出来ないのか。そうした過程こそが、科学技術への正しい論理的な取り組み方なのである。屁理屈やまやかしでなくしっかりした修辞法を使うべきなのである。



参照:
原発廃止後のエネルギー貯蓄 2011-04-10 | テクニック
脱原発は集団ヒステリーか? 2011-06-15 | 文学・思想
再生可能な環境税の導入 2011-06-11 | アウトドーア・環境
瑞西の交通規制行動 2006-02-09 | アウトドーア・環境
太地イルカ猟とKorus 2008-10-23 | 文化一般
緑への細やかな手順 2009-01-29 | アウトドーア・環境
これで結構真剣勝負なのですよ 2010-04-11 | 試飲百景
議論出来ない情報社会問題 2009-11-30 | 歴史・時事
前近代に生きる日本の自己欺瞞 2011-04-03 | 文化一般
近代物理教の使徒の死 2007-05-02 | 文化一般
ジャンル:
文化
コメント (2)   この記事についてブログを書く
« 一生の四分の三の暮らし方 | トップ | バラの名前の閉じられた世界 »
最近の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
terasima@gold.ocn.ne.jp (noga)
2011-06-21 22:49:46
言語は考えるための道具である。
英語は、高度の考えを編み出すために適した言語である。
英米人の高等教育は、子供には学習が難しい彼らの国語 (英語) 教育である。

我が国には、英米流の高等教育は存在しない。
修業年限を英米と同じにするなどの教育制度の確立だけでは、高度な職業人を育成することは難しい。
我が国では最初から最後まで行われている丸暗記 (rote memory) と受け売り (regurgitation) の修行では、自らを決することが難しい。
これを「教養がない (uneducated)」という。子供のような状態かな、赤子かな。

自らを決することのできない人たちには、論点を定めることができない。
自分の意見を大声で言う、
相手をこき下ろす、
相手がしゃべっている最中に反対意見を言うなど、「議論をすれば、喧嘩になります」という事態が事実になる。

議論と無礼は同等と見なされているのかもしれない。
だから、礼儀正しい日本人は誰も議論をしたがらない。
いつも静かに笑っている。
耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、もって万世のために太平の世を開かんと欲するのみである。

少しおかしくはありませんか。
自分に必要なものを、自分自ら手に入れるのが大人の態度でしょう。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

言語体系と社会関係 (pfaelzerwein)
2011-06-22 02:19:36
nogaさん、コメント有難うございました。リンクをざっと覘いてみました。

英米主義がどうかは別として、印欧語と日本語の問題は上のものを書きながら考えていたことです。

言語からその文化論までとても大きなテーマですが、ご指摘のように敬語と呼ばれているような独特の社会的な関係を表す言葉に日本語の独自性が凝縮していて、一向に議論が成立しない言葉となっていることは明白でしょう。

この点を悲観している英語文献を読んでいるらしき社会学者宮台氏が、今回の一連の現象でも「原発」を廻る成否の議論は嘗てのイデオロギーを表層化させるので寧ろ避けるべきだと語っているのです。

これをみてでもですね、要するに日本語の中には自分が含まれる「党派」とその利害関係抜きには表現できない言語体系と社会関係があることが分かります。

ここでもディベート教育批判を何回も書いておりますが、所謂争点を明白にしてプロ・コントラの意思表示しか出来ない議論や決定手順は間違いなのです。

実際にディベート教育を受けているとみられる若い世代の議論は全く戦前の日本人とその言葉が変わらないのです。それゆえにポピュリストが絶えないのです。

もう一つ疑問は、進駐軍下の戦後教育でそうした日本語を変える改革をなぜ統治政策に入れなかったかです。つまり、戦前からに日本の統治方式をそのまま利用することになった理由が興味深い。

今後とも宜しくお願いします。

コメントを投稿

文化一般」カテゴリの最新記事