Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

反教養の為のスケルツォ化

2022-11-28 | 文学・思想
フランクフルトの新制作「魔女」の初日が一週間後に迫った。先ずはダウンロードした楽譜をざっと捲ってしまうしかない。そして粗筋をWIKIなどで読む。チャイコフスキーの音楽もそのオペラの創作の仕方も大体分かっている。それに関しては最早面倒なことはない。寧ろ創作の背景とか環境とかそういうものも探っておいた方が良いだろうか。

先日民謡とシューベルトに関しての話題が出たことから、吉田秀和が間接的に言及しているトーマス・マンの「魔の山」のことを思い浮かべた。そこで歌われていることは記憶にあったのだが、最初は明白には思い出せなかった。そしてフィッシャー版の文庫本を開けると「買い物」とする節にGe-statten Sie mirという綴りが出て来て、目を引いた。どう考えても、サッテンブリーニの喋りの特徴として映像化されているものだったからだ。その前後をみるとcの発音がイタリア風とぐらいしか書いていない。しかし紛れもない吃音気味のアクセントが聴き取れる。そして話すと...というのも目立つ。勿論そこには若いカストルフの表情を観察しながらというのが書かれているのだが、思っていたよりも絵文字効果に近い。

何故今迄こうしたところに気が付かなかったのかと思う。日本などでも文学研究などをしている人にとっては通常の分析なのかもしれないが、門外漢にとっては文字だけ追っていてそれ以上の情報が入らなかったようだ。その証拠にそのページで一度ブックマークが入っていたようで、それ以外の要素特にサッテムブリーニの長い台詞が一番苦手とするところだったから、何回目かの挫折をしていた箇所だろう。この大作ロマーンを最初から一気に読んだ人なんてそんなに多くはないと思う。問われるのは何回挫折したかだろう。

しかし、今それに気が付いてそのあとの長台詞を速度を上げて一気に流すと、その絵文字効果というか発声のリズム感で読んで仕舞える。音楽的にスケルツォの様でありドイツ語ではシェルツ即ち冗談なのだ。

20世紀初期ノーベル文学賞作家マンはSPで音楽を愉しんでいた。義理の父親はユダヤ人の高名な数学者でヴァ―クナーのパトロンであったプリングスハイムであるが、所謂今でいうクラシックオタクだった。

それで問題のシューベルトは蓄音機で聴いた「菩提樹」であって、それを第一次世界大戦の死の瞬間にそれも土豪の泥濘の中で頭の中で鳴らしているという、とても哀れな話で終わる。

これが何を意味していたかは明らかで、所謂教養というもののその虚しさを表現していて、その様なものの中で終える世界を描いている。この作品が何故反教養主義とされているかはこれで明らかで、それは勿論19世紀のドイツロマン主義の一様をも描いている。そこには当時のグリム兄弟やらドイツの国粋主義へと導く魔がそこに潜んでいたとなる。つまり「民謡とは」へと戻ってくるのである。

もう直バーゼルの劇場で最終公演を迎える「魔弾の射手」のマルターラーの演出もこうした文化のその影にギャグをかまして冗談化していますという手法はなにもマンのやり方とそれほど変わらない。



参照:
一ミリでも向上するために 2013-05-04 | 文学・思想
親愛なるキーファー様 2007-11-09 | 文学・思想
吹かされる黒い森の心理 2022-10-14 | アウトドーア・環境

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