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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

全脳をもって対話(自問)するとは?

2010-04-05 | 
承前)バロックのアフェッティ(感情の表出)と方法に言及している。その前に、もう一度ルネッサンス音楽とバロック音楽と呼ばれるものの相違を、復讐しておくのも良かろう。ヘルヴェッヘ氏は、ルネッサンス音楽の神による成就で平衡した世界を挙げるが、もう少し音楽的に即ち音響物理的にそれを考えておくと都合の良い視点が確立出来るだろう。

物理といっても具体的にピタゴラスの音率などに拘ってはいけない。寧ろ、共鳴や倍音の音波の音響的な自然の摂理だけを頭に描けば良いのである。つまり、共鳴するものとしないものを考えて、既にルネッサンス期に生じていた長短の描き分けがバロック期に楽器の発展に伴い調性が確立したと捉えれば十分で、その他の律動などの要素はそこに付き纏う。

重要な例としてヴァイオリン属の楽器が17世紀に有名なクレモナなどで確立されていること ― 当然の事ながら具体的な楽器を挙げれば正弦波を思い浮かべる者もおらず、その楽器特有の基本振動を思い浮かべるだろう、同時に管楽器の発展、そしてオルガンにペダルが付け加えられていく過程などを挙げて置けば十分であろう。特に弦楽器の確立は、その演奏法と相俟って、調性感の確立そのものであって、更にスコルダーテなどの各弦の調性を変える事で全ての可能性が汲まなく試されたことでも分かる。また弦楽器の演奏は、運弓のフレージングによるリズムパタンやアーティキュレーションに深く影響を及ぼすことも明白である ― これに関しては今年になって安売りを注文したジョバンニ・フォンタナなどの曲が入っているCDでも確認できる。

それは、ヘルヴェッヘ氏がマタイ受難曲について触れると、「バッハの音楽の表現力を支える素晴らしく描き分けされていた、マッテゾンが描くそのものの調性感のお陰」となる。要するに、それはロマン派時代に呼ばれたような不協和音の増加とかの問題ではなくて、その後の平均率化する楽器の変遷に対しての当時の調性感の純粋性であったと読み変えても良いだろう。

それは、合唱のコラールながら調性の変化のみで、もちろん謳われる歌詞は変るが、その音楽の内容が変っていく移り行きの妙でもあり、それを進める挟まれるレチィタティーヴォの見事さでもある。そうした配慮があってこそ、指揮者として福音家が語る「弟子達はちりちりに逃げて行った」の言葉を受けて、次ぎの第一部の最終曲のテンポを早くすべきであると確信できることが素晴らしい。

これに関しては偶々目前の新聞で最初の十二拍子の二重コーラスのテンポによってクイケンとシャイーの新録音の聞き比べをして、メンデルスゾーンの編曲や現代楽器や古楽器などの演奏実践の研究と共にその演奏時間を比べる「一見科学的」な方法をビューニック女史は採っている。しかし、正直なところ快活であろうが跳ねていようが、独奏者で合唱を節約しようが、こうした「音楽的」な対峙の仕方はそのもの多感主義・ロマン主義から解放されていない聴態度でしかないことは述べた通りである。

それ以上にこの指揮者が素晴らしいのは、バッハの時代の世界と我々の住んでいる世界は全く違うわけであるから、― たとえそれをバッハ先生の講演会としても ― この大作曲家がその修辞法を駆使して描くそれの意味について確信できない部分もあると述べる正直さであろうか。

当然の事ながら作曲家が赤インキで書きこんだ部分への言及もするが、そうした図示で示唆している部分だけでなく、当時の平均的な聴衆にも理解し難いものも含めて、楽譜を見て音楽を実践する優秀な者ならばそれを伝えられるかも知れないがと自問している。

音楽的な詳細は、楽譜を眺めながらその綴り方を追って行くだけで、なるほどと思わせる例示の枚挙には暇がないが、それはこうした大曲の場合殊更、全体と部分、そして部分の運び方を細かく叙述法として見ていくことで、はじめて創作家の意図が見えてくる、言い換えるとそのように筆運びをさせる意図が、これまた重要なピカンデリの詩作の創造と共に浮かび上がってくるに違いない。

そしてそこで意図される事の本質は、プロテスタンティズムの本質である「対話」にある訳だが、例えばそれをルターの友人でもあったクラナッハの造形の意図する初期のそれと比較するとき、我々はその進展と深まりを感じないわけにはいかない。

その意味から、こうした音楽作品は全身を耳にして聞きこんでも、テキストに顔を付けて追っていてもなにも分からない。まさに「全脳をもって対話する芸術作品」なのである。

最初の質問と予想に戻れば、なるほど2002年の演奏会では諸事情から対話がスペクタクルになされたが、そこにトーマス教会のオルガンなどの史実に纏わる利があったとしても、それは本質的なことではないと確信できた。(終わり)



参照:
橋本絹代著、「やわらかなバッハ」について (私的CD評)
バッハ・コレギウム・ジャパン バッハ:「マタイ受難曲」(4/3) (ETUDE)
18 世紀啓蒙主義受難曲 2007-03-22 | 音
大バッハを凌駕して踏襲 2006-02-22 | 音
楽のないマルコ受難曲評 I (14.1-14.11) 2005-03-22 | 暦
保存資料の感情移入する名技性 2010-01-19 | 雑感
若手女教授の老人へのマカーブル 2010-03-19 | 音
いつまでも懲りない受難の人達 2010-03-28 | 生活
改革に釣合う平板な色気 2008-01-18 | マスメディア批評
コメント (4)
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