ブックステーデの音楽に触れる事が出来て幸福であった。勿論そのオルガン曲やカンタータや名声は、資料や楽譜や録音などからも知らないわけではなかったが、こうして鳴らされる空間とその影響を感じ取るのは別である。それは、フランドルのルネッサンス画家達が描いた様な民衆のいる風景であった。
一般的には、あの大バッハが三百キロも歩いてブクステーデの弾くシュニットガー作のオルガンを聞きに行った事は若きバッハのエピソードとして最も有名である。ディートリッヒ(若しくはディーテリッヒ)・ブクステーデは、1637年オルガニストの息子として、デンマークのオルデソールかハムレットの城で有名なヘルシンボウに生まれて、地元でオルガンを弾いた後に、リューベックで元々は出納や管理のキャリアを積んで、その後1673年から「夕べの祷り」の前の「夕べの音楽会」を催すようになる。此れは、この種の会の始まりの様で大きな反響を呼んだとあり、青年バッハもアルンシュタットから教えを請いに態々やって来て、師の前でのBACH(変ロ、イ、ハ、ロ)の主題による即興演奏の課題を弾かされた事情が知れる。
そのように100曲を越えるカンタータや室内音楽を残しながらもどうしても北ドイツオルガン流派の中で位置付けられる事が多く、そのイメージがその名前の響きと共に幾らか無骨に定まって仕舞っている。因みに北ドイツオルガン流派は、地理的にエルベとヴェーザーに挟まれた、ブレーメン・クックスハーフェン・ハンブルクの三角地点とアープ・シュニットガー作オルガンのある教会などを指す様だ。しかしこれに関する楽譜等は、まるで上述の帳簿同様に簡単に破棄されていた様だ。先日フライブルクのコンラード・キュスター教授がクックスハーフェンで発見した1560年に死去したパウル・ルスマンの手書きの指示書が最古の物と言い、このオルガン流派に関する発掘調査プロジェクトは現在も続行中である。
こうした研究から当時の教会の式次第も分かってくると言うが、プログラム二曲目として今回演奏されたカンタータ「主、汝まことの神よ、我らから取り去りたまえ」BuxWV78などを聞くと、当時の精神的な背景のみならず、演奏風景が手に取るように体験出来る。ある種の「ぼやき節」の感覚と言い、その心情告白の直截は、当時の会堂に集まった庶民の慰め以外の何ものでも無かったであろう。飾らない庶民的な情緒は、チェロを外したオルガンとファゴットの通奏低音が対旋律として奏でる半音階移行の動きに感情的な比重を保って、またそれに乗って く る く る とした節回しをもって歌われる。まさにバッハの叔父さんなどの世代の音楽的特徴で、「如何に音楽で素朴な宗教的心情を表現出来るか」と言う歌謡の原点が試みられる。こうした 世 俗 的、 感 覚 的 と言う点では、遥かに大バッハの音楽を凌駕していて、音楽需要の対象としてはこちらの方が遥かにポピュラリティーが高くても良い筈である。
しかし、同時代の人気や名声は別として、このプログラムの最後に演奏された同じ題名のBWV101番は、現在に於いて比較出来ないほどバッハの曲が受容されている理由を示している。通奏低音などは此処では重く既に鈍調となっている反面、それを補うように遥か高みではオブリガート風に主旋律が奔り動く。トーマスカントライに充てて、殆んどブランデンブルク協奏曲を思わせる音楽を奏でさせて、過去のバロックの成果をコラージュの如く融合させる。この極めて 思 弁 的 な作曲家は、それに当たってポリフォニックな構築やコラールによるハーモニーの動きを効果良く引き出して、さらに踏襲された馴染みある旋律等を交えてそれを楽曲の中で音楽芸術としている。
そこで思い出すのが二十世紀の作曲家アントン・ヴェーベルンの代表的な後期の合唱作品である。ここでオーストリアの後輩が中部ドイツの先輩の多声音楽構造から和声音楽構造、和声から多声への時代の組み合わせを踏襲したのには違いない。しかしバッハの創作自体が過去の集大成と同化にあった事を考えると、容易に未来から過去への一方的な「影響のベクトル」を牽く事は出来ない。このような不思議を示したのはフィリップ・ヘレヴェッヘ指導のコレギウム・ヴォカーレ・ゲントであった。今回は主役の16人の合唱団以上に重点のあった20人規模の管弦楽団は、シカゴシンフォニーさながらに丁寧に調弦をして、その器楽的技術やアンサンブルのアインザッツの精緻さ以上の力点をここに表明していた。実際、多声音楽構造と和声音楽構造間の両方向への転換に於いて、和声的律動に力点を置いても、対位法の流れに力点を置いても丁度良い立ち位置とはならない。
それでも合唱も含めて、「フランドルのバッハ像」は、フランクフルトのバッハ会定期聴衆にとっては違和感があるのも事実で、寧ろブクステーデの演奏に支持が集まった。またバッハのカンターターへの一般的な期待はそれほど高くはないのであろうか、入りも同じメンバーの大ホールが満員となる受難オラトリオ演奏会などに比べると二割ほど少ない。これらを関連付けると、このような演奏スタイルは、「現代の癒やしのバッハ」などではなくて、「現代に於けるバッハの受容」を特徴付けていて、時期が来ればきっとヴェーベルンの後期の「眼の光」やカンタータ二曲の大作の方がバッハの音楽よりも受容されるようになることを示唆している。
参照:
番外 ヘンデル 対 バッハ [ 文化一般 ] / 2005-06-13
楽のないマルコ受難曲評 I (14.1−14.11)[ 生活・暦 ] / 2005-03-22
楽のないマルコ受難曲評IV(15.14−15.47)[ 生活・暦 ] / 2005-03-26
滑稽な独善と白けの感性 [ 歴史・時事 ] / 2005-03-10
われらが神はかたき砦 [ 文学・思想 ] / 2005-03-04
賢明で理知的なもの?! [ 歴史・時事 ] / 2005-02-25
音楽愛好家結社 [ 音 ] / 2005-12-12
非日常の実用音楽 [ 音 ] / 2005-12-10
一般的には、あの大バッハが三百キロも歩いてブクステーデの弾くシュニットガー作のオルガンを聞きに行った事は若きバッハのエピソードとして最も有名である。ディートリッヒ(若しくはディーテリッヒ)・ブクステーデは、1637年オルガニストの息子として、デンマークのオルデソールかハムレットの城で有名なヘルシンボウに生まれて、地元でオルガンを弾いた後に、リューベックで元々は出納や管理のキャリアを積んで、その後1673年から「夕べの祷り」の前の「夕べの音楽会」を催すようになる。此れは、この種の会の始まりの様で大きな反響を呼んだとあり、青年バッハもアルンシュタットから教えを請いに態々やって来て、師の前でのBACH(変ロ、イ、ハ、ロ)の主題による即興演奏の課題を弾かされた事情が知れる。
そのように100曲を越えるカンタータや室内音楽を残しながらもどうしても北ドイツオルガン流派の中で位置付けられる事が多く、そのイメージがその名前の響きと共に幾らか無骨に定まって仕舞っている。因みに北ドイツオルガン流派は、地理的にエルベとヴェーザーに挟まれた、ブレーメン・クックスハーフェン・ハンブルクの三角地点とアープ・シュニットガー作オルガンのある教会などを指す様だ。しかしこれに関する楽譜等は、まるで上述の帳簿同様に簡単に破棄されていた様だ。先日フライブルクのコンラード・キュスター教授がクックスハーフェンで発見した1560年に死去したパウル・ルスマンの手書きの指示書が最古の物と言い、このオルガン流派に関する発掘調査プロジェクトは現在も続行中である。
こうした研究から当時の教会の式次第も分かってくると言うが、プログラム二曲目として今回演奏されたカンタータ「主、汝まことの神よ、我らから取り去りたまえ」BuxWV78などを聞くと、当時の精神的な背景のみならず、演奏風景が手に取るように体験出来る。ある種の「ぼやき節」の感覚と言い、その心情告白の直截は、当時の会堂に集まった庶民の慰め以外の何ものでも無かったであろう。飾らない庶民的な情緒は、チェロを外したオルガンとファゴットの通奏低音が対旋律として奏でる半音階移行の動きに感情的な比重を保って、またそれに乗って く る く る とした節回しをもって歌われる。まさにバッハの叔父さんなどの世代の音楽的特徴で、「如何に音楽で素朴な宗教的心情を表現出来るか」と言う歌謡の原点が試みられる。こうした 世 俗 的、 感 覚 的 と言う点では、遥かに大バッハの音楽を凌駕していて、音楽需要の対象としてはこちらの方が遥かにポピュラリティーが高くても良い筈である。
しかし、同時代の人気や名声は別として、このプログラムの最後に演奏された同じ題名のBWV101番は、現在に於いて比較出来ないほどバッハの曲が受容されている理由を示している。通奏低音などは此処では重く既に鈍調となっている反面、それを補うように遥か高みではオブリガート風に主旋律が奔り動く。トーマスカントライに充てて、殆んどブランデンブルク協奏曲を思わせる音楽を奏でさせて、過去のバロックの成果をコラージュの如く融合させる。この極めて 思 弁 的 な作曲家は、それに当たってポリフォニックな構築やコラールによるハーモニーの動きを効果良く引き出して、さらに踏襲された馴染みある旋律等を交えてそれを楽曲の中で音楽芸術としている。
そこで思い出すのが二十世紀の作曲家アントン・ヴェーベルンの代表的な後期の合唱作品である。ここでオーストリアの後輩が中部ドイツの先輩の多声音楽構造から和声音楽構造、和声から多声への時代の組み合わせを踏襲したのには違いない。しかしバッハの創作自体が過去の集大成と同化にあった事を考えると、容易に未来から過去への一方的な「影響のベクトル」を牽く事は出来ない。このような不思議を示したのはフィリップ・ヘレヴェッヘ指導のコレギウム・ヴォカーレ・ゲントであった。今回は主役の16人の合唱団以上に重点のあった20人規模の管弦楽団は、シカゴシンフォニーさながらに丁寧に調弦をして、その器楽的技術やアンサンブルのアインザッツの精緻さ以上の力点をここに表明していた。実際、多声音楽構造と和声音楽構造間の両方向への転換に於いて、和声的律動に力点を置いても、対位法の流れに力点を置いても丁度良い立ち位置とはならない。
それでも合唱も含めて、「フランドルのバッハ像」は、フランクフルトのバッハ会定期聴衆にとっては違和感があるのも事実で、寧ろブクステーデの演奏に支持が集まった。またバッハのカンターターへの一般的な期待はそれほど高くはないのであろうか、入りも同じメンバーの大ホールが満員となる受難オラトリオ演奏会などに比べると二割ほど少ない。これらを関連付けると、このような演奏スタイルは、「現代の癒やしのバッハ」などではなくて、「現代に於けるバッハの受容」を特徴付けていて、時期が来ればきっとヴェーベルンの後期の「眼の光」やカンタータ二曲の大作の方がバッハの音楽よりも受容されるようになることを示唆している。
参照:
番外 ヘンデル 対 バッハ [ 文化一般 ] / 2005-06-13
楽のないマルコ受難曲評 I (14.1−14.11)[ 生活・暦 ] / 2005-03-22
楽のないマルコ受難曲評IV(15.14−15.47)[ 生活・暦 ] / 2005-03-26
滑稽な独善と白けの感性 [ 歴史・時事 ] / 2005-03-10
われらが神はかたき砦 [ 文学・思想 ] / 2005-03-04
賢明で理知的なもの?! [ 歴史・時事 ] / 2005-02-25
音楽愛好家結社 [ 音 ] / 2005-12-12
非日常の実用音楽 [ 音 ] / 2005-12-10










リューベックのマリエン教会でも、ブクステフーデのお墓プレートより「バッハが会いに来た伝説」を示すプレートのほうが立派でした。
バッハが中心に見えるのは、まさに上で触れていらっしゃるように、彼が当時の音楽的流行に対して神がかり的な嗅覚を持ち、また同時に過去の語法を抜かりなく取り入れる方法を知っていたからなのでしょうね。
どの地点に立って音楽を演奏するか(聴くか)が曖昧になる危険はどこにでもいくらでも転がっているのだと思いますが、ヘレヴェッヘが和声を立脚点に選ぶのは面白いところだと思います。(鈴木雅明と彼のアンサンブルは、和声構造よりも横に流れるたくさんの声部を処理していくのが楽しいようでした。)
「東京のバッハ会」ですが、鈴木雅明とアンサンブルはラジオで聞いたぐらいしかないので噂しか知りません。しかしこちらからも腕達者な若い奏者がゲストで呼ばれて、その顔ぶれや批評を見るとある程度想像しています。
ポリフォニックに流すといってもコラールで堰き止められてしまうので、バッハ演奏家はその間で身を処しているのでしょう。ですから、如何に、その処し方では無しに、音楽構造を聴衆に意識させるかが、面白い演奏のコツと思います。それを多彩なサウンドとしても間違いではないでしょう。
それを曲によって古楽器の特徴を活かした即興性の強いものにするか、反対に「合わせて」ハーモニックを活かすかですね。現代楽器の演奏実践は後者の領域で行われてきたのでしょう。その交代の綾を魅せるのには楽器間や声部間の徹底的なピッチ合わせや「自由な出会い」を邪魔しないテンポが必要になりそうです。
独奏曲、協奏曲やカンタータ、受難曲などでは形式の違いもありますが、共通している事象にも気が付きました。またバッハの多くの研究論文のように宗教的や象徴的な意味合いをその歌詞や楽譜から読み取って、強調するのは上のような理由から、些か本末転倒のドグマではないかなと考えるようになりました。地方のカントールの大先生をロンドンに引き連れて来て−だけでなく聴衆にも−スポットライトを当てるようなものです。