Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

多文化主義受容への視座の確立

2010-04-27 | 文化一般
翻訳と編集で、日本の伝統的思考を如何に現在のドイツの視点から紹介出来るか試みている。「現在生存している者がなぜ現在を代理していなくて、過去をを代理しているような立場をとるのか」と、熱心なプロテスタント信仰者に指摘された。

日本の伝統文化の場合、過去をまるで現在のように生きながら、それを提示する事にその骨頂があるのだろう。吹き溜まりのような島国の文化的保守性そのものだ。

私の視座はこのサイトにて繰り返し繰り返し明確にしている心算であるが、私は日本人のその視座を正しく伝える事に妥協はしない。それは、そこを好い加減に誤魔化せば、決して理解も反論も得られない事が解かっているからである。文化を批判に曝す事こそが重要なのである。

要するに、対話こそが必要なのであって、一方的に言い放しも許されない、必要なのは「同じ言葉」をもつ事である。当然ながら意味論における多くの事は異文化間でのその大きな溝を完全に埋める事は出来ない。

しかしその溝こそが重要な歴史的な文化の断層であり、そこにこそ文化の歴史的な襞が見え隠れするのである。それを見逃しては、なにもはじまらない。

私は、少しだけ日本の吹き溜まりのような文化価値を今見直している。その際たるものは散々言われるような日本の「異文化の受容の文化」であり、今日の我々が改めて直面している多文化主義への扱い方の一つの参考になるに違いない歴史的発展なのである。

そこまで、対象とする人々の視座におけるヴェクトルを伸ばすことが出来れば、私が今試みようとしているプロジェクトは所期の目的を達成する事になる。そのためにも明日にでもプレス向きの文章を完成したいと思っている。



参照:
災い転じてプレートを発見する 2010-04-07 | アウトドーア・環境
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