Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

小市民の鈍い感受性

2005-07-10 | 文化一般
先日、元ドイツ語教師つまり元国語教師の友人と飲んで語った内容を纏めておこう。

一つ目の対話は、先日の非ナチ化と陳腐な演出のドイツオペラの件である。彼は、バイロイト詣を計20日程、ザルツブルクやベローナ、ブレゲンツのフェスティヴァル、ベルリンやドレスデン、ヴィーンやチューリッヒへとオペラの旅に出かけ、マンハイムの劇場の定期会員と極一般的なオペラファンである。その彼に対して、「マイスタージンガーなどは、今日ではドイツ語が聞かれなくなってしまったので上演する意味など無くなってしまった。ナチ化の影響で地に落ちてしまったので救いようがない。本来の価値は、全く違うところに存在するのだが。」と挑発してみた。彼が古典的舞台装置と演出に傾倒しているのを知っているからである。すると、

「そんな事は知っているよ。この楽劇には反ユダヤ主義などは無いと、老人講座でハイデルベルク大の教授が講義しているんだ。ヴァーグナーには、アンチセミティズムなど見付からないのは、自明の理で常識だ。」

と、得意げに語るのだ。勿論素早く、東独からのマルキスト・コンヴィチニーのハンブルクでの演出やそれら批評を取り巻く状況を述べ攻め立てる。

楽劇の内容に関してや見解は、既に述べているが、その現状なり受け止められ方がここで問題なのである。つまり、ハンブルクやチューリッヒなどの大都会を除くと、聴衆の質もジャーナリストの質も落ちていて、何を試みても無駄なのである。ハイデルベルクやマンハイムの辺境の地において何を言っても始まらない。栄光は昔の話で、このような音楽劇場が文化的な意味を持っていたのは75年ほど前の話である。

執拗に繰り返しているようだが、このような芸術に税金を使うのは間違っている。エンターテイメントに徹するならば、経済的に自立すべきである。しかし、何よりも問題なのは、聴衆が鈍感になって何も感じない、気が付かない事なのである。音楽劇場が芸術的に過去の遺物になっている認識無しには、何を論じても始まらない。

こうした鈍感な芸術鑑賞の姿勢は、鈍感な現状認識でしかなく、社会に対する思考麻痺を生むものなのである。敏感な感受性を阻害しているのは何ものだろうか?勿論、「証拠を見せろ」、「思い込み」というこの友人に最近の劇場批評を集めて印字して、下線を引いて送りつけたのは言うまでもない。着いたかどうか、後ほど電話で確かめてみよう。


二つ目の対話は、タイ旅行の報告である。彼は、同性愛・少女売春の園バンコックでマッサージと絹のスーツなどを作って、高級ホテルで食べ放題、プールで日光浴とご満悦である。彼が十分愉しんでくるのは分かっていたので予想通りだったが、「あんたも、一度行って来ると良い。」と推薦されると、鋭く反応しないわけにはいかない。

「タイの東洋の微笑みが気に食わないね。嘗て知り合った色白で凄く素晴らしい女医さんなどの印象があるけど、あの仏教がね。富める貴族と貧しい庶民。中途半端な近代化で、昔の汚い町並みの方が興味があったな。何よりも暑いのがどうしようもない。興味ないね。」

彼に言わせると、アジアの暑さは同じで東京も変わらないという。タイを知らないのでなんともいえない。

「アレルギーのミルク抜きでと料理を注文したら間違って全てココナッツミルク入りの料理が出てきてね。まあ、牛乳でないから問題ないのだけれども。それにしても一部は辛過ぎた。」

タイの食事は、その甘辛さで有名だが、人に依れば中華やイタリアを越えて世界一旨いという。確かに料理人が良ければ世界中で愛される味覚には違いない。その匂うライスは、バスマティライスの商品名で有名なインドヒマラヤ米に次いで世界で最も素晴らしいライスだ。

そのアジア的政体や社会、人生観などは良く知らないが、そのセックスツアーや貧民層の上に築かれる政体や社会を忘れてはならない。それ以上に、経済の名の下そのようなシステムの介添えをして、貴族気取りで全てをしゃぶり尽くす工業先進国の小市民を見逃せないのである。(トンカツの色の明暗 [ 生活・暦 ] / 2005-07-11 へと続く)



参照:「聖なる朝の夢」の採点簿 [文化一般] / 2005-06-26
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