箕輪城の現地説明に、「廃城後の資材は高崎城に使われた」とあるのをみて、高崎城を見てみたくなり、急遽向かいました。
元来この地には和田城という城があったのですが、1598(慶長3)年、徳川家康の命を受けた井伊直政がこの地に入り地名を高崎と改め、城も大幅に改修したのでした。
明治維新まで城主はたびたび変わってきましたがいずれも譜代大名であり、いかに幕府がこの地を重要視していたかわかります。
なお、三代将軍徳川家光が、弟の忠長を幽閉し、自害に至らしめました場所でもあります。
高崎市の中心部にあり、たやすく目につきます。
乾櫓
かつては、天守閣の代わりの御三階櫓とこれを取り囲む4基の隅櫓(乾櫓・艮櫓・巽櫓・坤櫓)がありましたが、現存するのは乾櫓のみです。
東門
唯一残されている門です。
北・東と南の一部には堀が残されています。
他に遺構は残っておりません。
城跡には多くの公共施設が建てられていました。
高崎市役所
NTT
群馬音楽センター
群馬シンフォニーホール
この日は合唱コンクールが開催されており、発表前の練習の歌声が流れておりました。
音楽があふれる街はすてきです。
城跡には公園も設けられていました。
何かイベントをしていました。
完全に現代の街にとけ込んでいる城跡です。
高崎城
群馬県高崎市高松町
今日は私は中津川に今から向かいます!!
んとじゃーかえってきたら・・・
同じ街でも、色々な角度から見られると新しい発見がありますよね!!
残っているのが東門だけというのが残念。
本当に、いい感じで都会になじんでいます。
山城もいいけど、これはこれで良しです。って、私が「良し」「悪し」の判定をしてどうするんだって思いますが。
私は千早赤阪村で筋肉痛。
城跡はホントにたくさんあります。これからもどんどん出かけてみたいと思っています。
城跡が官庁街や公園になっているところは他にもありますが、高崎は街にとけ込んでいるというか場外との障壁がないです。堀も風景の一つとなっています。自然な感じなので見落としてしまうのかもしれません。
東門も乾櫓も民間に払い下げられていたそうです。それを買い戻し、復元したそうです。ところで、東門はともかく、乾櫓は買ってどうしていたのでしょうね。
文化財という観点から考えると城跡は保存すべきだと思います。しかし、一度壊してしまったあとに歴史的に裏付けのない建物を鉄筋コンクリートで造るなんてのはどうかと思います。城なんて封建制度のシンボルですから。高崎城のように市民に広く開放されているのは一つの理想型だと思います。
以前紹介した下赤坂城ならば登山しなくても見晴らしよいので電波も遠くまで飛びそうな気がします。
立ち入り禁止・遠くから眺めるでは興味もわきません。
静岡市の駿府城辺りなども県庁やらの役所や学校・文化会館などがあり、公園もありますのでそんな気がするのでしょうか。
地図で見ると、なるほどこれは戦略的にも重要な所ですねぇ~
秀忠はこの道を通って関ヶ原に向かう途中に真田に足止めをくらったのですね?
姫路城や松山城のように天守閣だけでなく周囲の櫓や土塀・門・石垣・堀などがきれいな形で残った要る城は大変貴重で、是非ともそのままの形で保存していていただきたいと思います。高崎城のように遺構が少ない城は無理して復元せずに広く市民に開放するの良いと思います。ただ、昔の城の縄張りがわかるような工夫があると良いですね。
駿府城の雰囲気と似ています。駿府城は内堀の中が公園、外が官公庁・学校と分かれているのに対し、高崎城は官庁と公園が良い感じに混在しています。また、駿府城は堀がしっかり残っているのに対し、そうでもない高崎城は隔たり感が少なく感じます。
徳川の家臣の城ですから、きっとここで休んでいったと思います。しばらく進んで碓氷峠を越えるとほどなく上田城ですが、そこで待っているアクシデントも知らず、意気揚々としていたのではないでしょうか。
高崎城は箕輪城のリサイクルだったんですね。
長い歴史の中には、他にもお城の資材が形を変えて今に残っているものもあるのかと思うと、感慨深いものがあります。
城の木材って随分立派な物を使っているので移築・再利用することも多いです。伏見城の櫓は広島の福山城や江戸城に移築されています。明治時代に廃城になった際に民間に払い下げられたケースもあります。上田城は遊郭に使われたぐらいです。
東門だけ残されて貴重な門・・お城あまり残ってないんですね。
城跡の公園は、広いですね。
城跡自体は大変たくさんあります。おそらく全国では万単位でないでしょうか。しかし、明治に破却されたり、第二次世界大戦で消失したりして、建築物が残されているところは少ないです。