橋本屋吉次郎電子日誌

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亀山城(伊勢国)

2013-08-03 | お城巡り(その他)


亀山城は、伊勢国鈴鹿郡亀山(現在の三重県亀山市本丸町)にあった城です。

まずは、亀山市歴史博物館で概略をつかもうと考えたのですが、


あ~あ、残念


この日は、バイクを置いて徒歩で移動しました。


平面図(現地案内板)
東から西に向かって紹介します。

城は東海道に沿ってありますので、亀山は宿場町でも城下町でもあります。


東端すなわち江戸の方向に設けられていた江戸口門
案内板だけで遺構は残っていません。


【東三の丸】
このあたりに大手門があったようです。


高札場跡


高札は酒屋の看板に代わっていました。


北側にあった江ヶ室門および神戸櫓跡
神戸櫓は三重県鈴鹿市神戸本多町にあった神戸城(かんべじょう)から移築されたのでこの名が付いています。

 

【二の丸】


帯曲輪
復元された土塀には狭間がありません。
これは古い写真をもとに忠実に再現したためですが、御殿の北側に付属した防御施設はずなのに・・・。
平和な時代が続いて、江戸時代にはお花畑になっていたようですので不必要となっていたしょうか。


排水路


埋門


江戸時代、亀山城は幕府の宿所としての役割がありました。
上洛する将軍は本丸を休泊に利用してたため、御殿は二の丸におかれていました。


御殿跡は小学校になっていますが、当時を忍ばせるデザインになっているのはさすがです。


築山すなわち人工的に作られた山
造園的なものでしょうか。


石坂門跡
西の丸側からの出入り口です。
現地に遺構は残されていませんでしたが、

歴史博物館前に掘り出された石垣が展示されています。


石井兄弟亀山敵討遺跡と記された石碑
1704(元禄14)年に起きた仇討ちの記念碑です。
石井宇右衛門は武芸指導をたのまれ、同輩の子赤堀源五右衛門の慢心をこらしめるため試合で打ち負かして訓戒しました。
しかし、源五右衛門それを恨みに思って宇右衛門の不意を襲い殺害、逃走してしまいます。
長男の三之丞が敵討ちの旅にでましたが、美濃で返り討ちにあってしまいます。
次男の彦七は伊予へ渡る時、嵐のため遭難して亡くなりました。
ようやく、三男源蔵・四男半蔵が本懐を遂げることができたのです。
父の死から29年目もの月日がたっていました。


【本丸】


楠木門
二の丸と本丸の間の門です。
現在は道路を挟んで石柱が2本立っているだけです。


三重櫓

高さはありませんが、背後は急峻な崖になっており、背後からの守りは堅そうです。



多聞櫓
亀山城だけでなく三重県下で唯一の中核的城郭建築の遺存例です。


南からみるとけっこうな迫力です。
2007(平成19)年、地震により石垣の一部が崩れてしまいました。
しかし、調べてみると崩落箇所は1972(昭和47)年の補修部分のみで、穴太衆によって築かれたところは無事だったそうです。


市内で見かけたマンホールの蓋も多聞櫓がデザインされていました。


残念ながらこの日は平日だったので見学できませんでした。



実は、ここには天守閣があったのです。
ところが1633(寛永9)年のこと、幕府は堀尾忠晴に亀山城修築を命じ、天守を解体してしまったのです。
しかも、幕府の命令はここ伊勢亀山城ではなく丹波亀山城であったことが後に発覚します。
つまり間違いで破壊されてしまったのです。
なんとか再建の申請はするのですが認められず代わりに多聞櫓を建てたのでした。
堀尾忠晴は後世にも残る大チョンボをやらかしたといわれいますが、果たしてそうでしょうか。
亀山城の敷地は結構広いです。
1万2000石の小大名としては不相応です。
なおかつ、東海道直近であり、嫌が上でも威圧感を感じさせられます。
当時、参勤交代の大名は、亀山の宿に泊まるのを嫌がったそうです。
ですから、幕府は適当な難癖をつけて取り壊したかった。でも、理由が見つけられなかったので一世一代の大芝居を打ったのではと予想します。


与助井戸
一説には場外への抜け道があったそうですが、埋められてしまっていますね。


本丸御殿の跡は亀山神社となっています。


大久保神官家棟門



亀山古城跡
亀山城は、1265(文永2)年に関実忠によってこの山に築城され、その後現在の位置に移されたのが始まりです。
1590(天正18)年に豊臣秀吉に従った岡本宗憲が入城後、天守、本丸、二の丸、三の丸などのその後の亀山城の母体となる城が形成されたそうです。

【西の丸】


家老である加藤家の屋敷跡
長屋門と土蔵が残っています。


発掘された遺構をもとに再現された堀



梅厳寺
このあたりが城下町の西端で京口門が設けられていました。


安藤広重の東海道五十三次「亀山雪晴」はここから描いたとされています。


現在は、こんな様子です。
橋の上から見ると、結構深い谷ですね。


でも、下に降りて見ると・・・そうでもないか?

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4 コメント

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へ~ (バビロニア)
2013-08-03 17:19:31
平日に休館日なんですか?!
土日以外は、来館者が少ないからの措置なんですかね。
橋吉さんの解説を聞くと、なろほどね~って気持ちになるから不思議です。
陰謀による取り壊し・・・ね。(^^;;
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Unknown (タケ)
2013-08-03 22:45:19
こんばんわ!
休館日・・・よくありますよねぇ~私なんか鹿児島まで行って、裏口まで回って、入れませんでしたから・・・
観光地は特に平日は空いていると思って油断してしまいます!
返信する
多聞櫓 (橋吉)
2013-08-04 05:56:40
>バビさんこんにちは
開館日が土・日曜日および祝日なんですが、私は休館日と読み違えてしまいました。そして、「この入り口の戸、重いな!」なんて重いながら引いて、気がつきました。平日は日に数人来るか来ないかの見物客のために係員を置くわけにはいかないのでしょうね。
現地を歩いてみると随分広い敷地であったこと、また実際よりも立派に見えること、東海道にとても近いことからこう思いました。
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失敗 (橋吉)
2013-08-04 06:28:32
>タケさんこんにちは
そうなんですよ。平日はすいていると思って油断していたのは事実です。歴史博物館の開館時間は調べておいたのですがねぇ。この日は火曜日でした。公立の資料館は月曜休みのところが多いからすっかり安心しておりました。
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