橋本屋吉次郎電子日誌

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久保田城

2016-08-23 | お城巡り(日本100名城)

駒形神社からバイクで2時間、秋田市へやってきました。
秋田は、久保田城の城下町です。

久保田城本丸は1880(明治13)年の火災で全焼し、現在では千秋公園と称し広く市民に開放されています。

秋田市立中央図書館脇の唐金橋跡から入城


 

松下門跡をパスすると


 




コインパーキングが用意されていました。
ここに駐めようかとも思ったのですが、それでは自動車のスペースを1台分つぶしちゃうので、




公園入り口に駐めちゃいました。
なお、旅慣れているように見えるXTですが、この日はポケモンGoを探しに来たそうです。

まずは、こちらで予習をします。

 

秋田市立佐竹資料館
所在地: 秋田県秋田市千秋公園1-4
開館時間: 9:00~16:30
休館日: 年末年始(12/29~1/3)
入館料: 一般100円,高校生以下無料

なお、日本百名城スタンプはこの史料館の受付で押すことができました。

久保田城は久保田藩(秋田藩)20万石佐竹氏の居城です。
佐竹義宣は関ヶ原の合戦時に東西両軍に態度を明確にせず、中立的な立場をとったために、戦後、54万5千石の常陸から20万5千石の秋田に転封されてしまいました。
家臣の知行減を糊塗緩和するため、当初は豊富であった、秋田杉と銀山の収入を、藩財政のあてにしましたがやがて枯渇します。
西国で藩札というものを発行し、財政再建をしたという情報を得て、久保田藩でも藩札を発行しますが、インフレを信用低下をまねいてしまいます。
さらに、それに飢饉が追い打ちをかけ・・・佐竹氏は明治維新までこの地を治めますが、かなり大変だったようです。

 




二ノ丸跡
久保田城は最初に二ノ丸にたどり着く構造になっています。
この二ノ丸を経て本丸へ至ります。





土塁
減封された佐竹氏は幕府の目を気遣い、石垣をなるべく使わなかったそうです。
そのかわり、久保田城は土塁の囲まれた構造になっています。




長坂門跡
二ノ丸から本丸へ続くのがこの長坂門であり、「二ノ門」とも呼ばれていました。
この長坂という名称は長い石段「長坂」にちなんでいるといわれています。



表門(一ノ門)



表門の礎石




御物頭御番所
久保田城唯一の現存建造物です。
御物頭とは久保田藩では番方に属す役割であり、配下の足軽を指揮して本丸への玄関口である表門の開閉及び城下一帯の警備を担当しました。
1758(宝暦8)年の火災で焼失し、その後再建され1778(安永7)年以降の火災では焼失を免れたというので18世紀後半の建築であろうと推測されます。



表門をくぐると本丸です。



佐竹義堯(よしたか)の銅像
久保田藩最後にあたる12代藩主です。

このあたりにかつて本丸御殿があったようですが、現在は何本かの赤松に巨木が残っています。


 

松の根元にはこのような石柱が立てられているのですが、古すぎて何と刻まれているのか読めません。


 

案内板を探すも「アカマツ」と書かれているだけでした。

 



八幡秋田神社
1867(明治11)年、佐竹義宣を祀るため創建されました。



本殿



埋門跡
久保田城に限らず、今回訪れた城跡では、ポケモン探しの人たちが多く見られ異様な光景でした。



多門長屋跡



御隅櫓
1989(平成元)年に市制100周年を記念して復原されました。
二階までは当時のまま再現したが、その上に模擬として展望台が設けられています。
鉄筋コンクリート造り三層四階建てで、内部は佐竹の資料の解説やパネル展示の資料館になっています。




幕府への気遣いより、天守閣は作られなかったようです。
しかし、こうやって見ると堀と土塁によって囲まれた、堅固な縄張りのようです。

展望台から見下ろした秋田の市街地

 




帯曲輪門跡
本丸北側から二ノ丸の土門方向に通じる門です。




裏門跡
二ノ丸から本丸へ続く門のひとつで主に夜間の出入りに使われたそうです。




胡井池




黒門跡




北側の外堀

東北はすでに秋のにおいがします。
メッシュジャケットで、バイクに乗っていると、暑くも寒くもなく快適です。
しかし、日差しはまだまだ強く、城を見て歩き回っているとびっしり汗をかきます。

コメント
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