名古屋市守山区の守山城は織田信光(織田信長の叔父)の居城で、徳川家康の祖父・松平清康が亡くなった城でもあります。
下調べの段階で、周囲に適当な駐車場が密蹴らなかったので、新守山駅近くのアピタパワー新守山店に駐輪させてもらいました。
閑静な住宅地を南下します。
守山城の北400mほどのところにコインパーキングがありました。
こちらを利用するのも良いかと思います。
ちなみに日曜の昼でしたが、結構あいていました。
名鉄協商パーキング 鳥羽見第2
愛知県名古屋市守山区鳥羽見2丁目3−19
城跡に近づくにつれて登坂となり、さらに勾配が急になりました。
下調べの段階で、周囲に適当な駐車場が密蹴らなかったので、新守山駅近くのアピタパワー新守山店に駐輪させてもらいました。
閑静な住宅地を南下します。
守山城の北400mほどのところにコインパーキングがありました。
こちらを利用するのも良いかと思います。
ちなみに日曜の昼でしたが、結構あいていました。
名鉄協商パーキング 鳥羽見第2
愛知県名古屋市守山区鳥羽見2丁目3−19
城跡に近づくにつれて登坂となり、さらに勾配が急になりました。
城跡が見えてきました。
二階建てアパート(その名も城跡荘)の奥に城跡があります。
二階建てアパート(その名も城跡荘)の奥に城跡があります。
登り口
円形古墳のような感じ
守山城跡碑
守山城は、1521(大永元)年、今川氏親(今川義元の父)が、那古野城を築いた頃、それに対抗して織田方が築いたといわれます。
【守山崩れ(森山崩れ)】
1535(天文四)年 、三河の大半を手中にした松平清康(徳川家康の祖父)は、宿敵・織田信秀(織田信長の父)の尾張を攻略する為、守山城攻めを画策します。
守山布陣の翌12月5日早暁、清康の本陣で馬が暴れ騒ぎが起こった。
これを阿部正豊は、父が清康に誅殺されたためであると勘違いし、本陣にいた清康を惨殺してしまいます。
正豊はその場で殺され、主君を失った松平軍は岡崎に撤退しました。
この松平家内部騒動を守山崩れとよんでいます。
ちなみにこの守山崩れで松平清康は亡くなり、代わりに当主となった広忠はまだ10代で松平家を統率できず、尾張の織田氏の侵攻にも対応できなくなり、嫡男の竹千代を駿河に送って、今川氏の力を借りる事になります。
城跡から北側を臨む
足元
もともと切岸になっていて削られていたか、駐車場確保のためかはわかりません。
南側には竹林があります。
どうやら堀切であったようです。
城跡の西、数軒の住宅を含めた部分および南側の宝勝寺が城域だと考えます。
なお、西側からはいけませんので、ご注意を!
近所の方も困っておられるようです。
城跡南側にある矢田川
この川の河岸段丘に築城されていたようです。
宝勝寺の南側
このあたりが、城跡の南端でしょうか。
守山区の史蹟を巡るのも楽しそうですね。
宝勝寺入口
山門
本堂
この境内が本丸で、碑があった部分は出丸だと思います。
宝勝寺駐車場
宝勝寺も寄るのであればここに駐めるのもよいかと思います。
所要時間:50分