午後の方がお天気はよく、それだけ日差しも強かった。今は朝と同じ、朧雲がっ出
ている。これも秋の証拠だといえる。遠くの田んぼで稲刈りで、刈り取られた跡が見え
る。
めぼしいものはないけれど、歩いた後のファイルを帰って来てモニタで見ると、色
具合とかは悪くはない。何百枚かのファイルをブラウザで見ていると、まとまりとして、
秋の気配はする。しかし、やはりこれといったものはない。
アジサイ。
ヒマワリ。左側に、蜂か何か飛ぶものが。
透き通るヒマワリ。
セイタカアワダチソウなどの雑草の花はまだ。これも雑草の花のようで、
大きくしてみた。
ポツリとあちこちにある。点在。
ニラの花。チョウがいるような幻想。
後のコンクリートの壁と。
ベニシジミと書きたいところで、花はシロツメクサ。また新しい花が咲く。
ベニシジミの翅はボロボロだが、シロツメクサの花は新鮮。
きのうは午前中、草刈りの予定になっていて、こちらはここをどうしてくれという、
いってみると散髪にいったような感じだが、これもどうゆう風にということを明示しな
いと後が大変で、気分的に落ち着かないものがある。自分でやれればいいが、そうゆう
ことが出来ないので、しかたなしにお願いをする。もうなんどもお願いしていて、ここの
いえの構造というか、欠点は何かということもお話ししてある。だから、草もここは
刈らないでということが重要で、そうゆうことも含めて、結構執拗に説明をした。
草刈り器を動かすことはしないが、いえの中にいてもエンジン音はする。それから、
もしかして天気の変動があるとこれも困りもので、お願いする方も気を使う。幸いか午前
の大部分は晴れていて、正午近くで、通り雨が来たが、これが他のところだと豪雨を
もたらした。まったく油断できない雨で、通り雨で済んだことに感謝。もっとも、もう
終わりである。
予定時間内で終わらなければ、時間を増やしてもいいと思っていたが、うまい
こと片付けてくれた。やっていただく方が100倍は重労働で、見ているほうとしては安穏
とするのが一番だが、何度かあちこちを見回る。
ここに仔ネコと親ネコがいることになるが、この草刈りでもしかしていなくなるか
もと思った。これも運命というべきものか。大袈裟だな。
草刈りは、きのうのような若干涼しいといえる日でも、相当な重労働でまたそれこそ
ネコにとってはいい迷惑であるが、ここは人の生活が優先されて、ネコの身に危険があ
れば逃げてもらうしかない。それでいいと思う。
しかし杞憂だった。仔ネコの一つは休憩時間になると、広くなった草むら見学に
出て来た。無論どこから出て来たのかわからないが。その後、時間がたち、草刈りの儀式
も終わった。で、出て来た仔ネコも見かけないなと思ったが、今度は母ネコが、先に
出て来た。どうゆう肝っ玉を持った母ネコだろうか。それでも、かなりの時間ガタガタ
したのでネコの気持ちも揺れたのだろうが、夕方には平常に、何ごともなかったかの
ごとく、振舞っていたようで、
なんだかネコにうまく利用されているような、これはおかしいか、言い方を変える
とネコの方が利口であって、うまく利用されていると実感した。
それに比べて人の生き方はどうか。なんだか動揺している。母は高齢で、私自身も
そう健康というわけでなく、かろうじて生きているような、情けない存在である。
母は母で、失った父のことを思ってか、生きる希望もないのか、早く父のもとへゆ
きたいとゆうし、それで済めばいいが、なんだかものが投げられたり壊されたりで、見て
いる気にもならず、そこからしばらく遠のくしかない。そうでないと余計ひどくなる。
寂しいのかも知れず、面白くないというのは常だが、どうしていいかわからないものだ。
介護というが、さてこれが私を鍛えてくれるものか、母が残してくれる贈り物なのかと
いうと、今の段階ではなんともいえず、小さいようで大きな嵐が去るのを待つのみであ
る。
こうゆう日が続くのは間違いがない。それが続いてきて、忘れているが。
ている。これも秋の証拠だといえる。遠くの田んぼで稲刈りで、刈り取られた跡が見え
る。
めぼしいものはないけれど、歩いた後のファイルを帰って来てモニタで見ると、色
具合とかは悪くはない。何百枚かのファイルをブラウザで見ていると、まとまりとして、
秋の気配はする。しかし、やはりこれといったものはない。
アジサイ。
ヒマワリ。左側に、蜂か何か飛ぶものが。
透き通るヒマワリ。
セイタカアワダチソウなどの雑草の花はまだ。これも雑草の花のようで、
大きくしてみた。
ポツリとあちこちにある。点在。
ニラの花。チョウがいるような幻想。
後のコンクリートの壁と。
ベニシジミと書きたいところで、花はシロツメクサ。また新しい花が咲く。
ベニシジミの翅はボロボロだが、シロツメクサの花は新鮮。
きのうは午前中、草刈りの予定になっていて、こちらはここをどうしてくれという、
いってみると散髪にいったような感じだが、これもどうゆう風にということを明示しな
いと後が大変で、気分的に落ち着かないものがある。自分でやれればいいが、そうゆう
ことが出来ないので、しかたなしにお願いをする。もうなんどもお願いしていて、ここの
いえの構造というか、欠点は何かということもお話ししてある。だから、草もここは
刈らないでということが重要で、そうゆうことも含めて、結構執拗に説明をした。
草刈り器を動かすことはしないが、いえの中にいてもエンジン音はする。それから、
もしかして天気の変動があるとこれも困りもので、お願いする方も気を使う。幸いか午前
の大部分は晴れていて、正午近くで、通り雨が来たが、これが他のところだと豪雨を
もたらした。まったく油断できない雨で、通り雨で済んだことに感謝。もっとも、もう
終わりである。
予定時間内で終わらなければ、時間を増やしてもいいと思っていたが、うまい
こと片付けてくれた。やっていただく方が100倍は重労働で、見ているほうとしては安穏
とするのが一番だが、何度かあちこちを見回る。
ここに仔ネコと親ネコがいることになるが、この草刈りでもしかしていなくなるか
もと思った。これも運命というべきものか。大袈裟だな。
草刈りは、きのうのような若干涼しいといえる日でも、相当な重労働でまたそれこそ
ネコにとってはいい迷惑であるが、ここは人の生活が優先されて、ネコの身に危険があ
れば逃げてもらうしかない。それでいいと思う。
しかし杞憂だった。仔ネコの一つは休憩時間になると、広くなった草むら見学に
出て来た。無論どこから出て来たのかわからないが。その後、時間がたち、草刈りの儀式
も終わった。で、出て来た仔ネコも見かけないなと思ったが、今度は母ネコが、先に
出て来た。どうゆう肝っ玉を持った母ネコだろうか。それでも、かなりの時間ガタガタ
したのでネコの気持ちも揺れたのだろうが、夕方には平常に、何ごともなかったかの
ごとく、振舞っていたようで、
なんだかネコにうまく利用されているような、これはおかしいか、言い方を変える
とネコの方が利口であって、うまく利用されていると実感した。
それに比べて人の生き方はどうか。なんだか動揺している。母は高齢で、私自身も
そう健康というわけでなく、かろうじて生きているような、情けない存在である。
母は母で、失った父のことを思ってか、生きる希望もないのか、早く父のもとへゆ
きたいとゆうし、それで済めばいいが、なんだかものが投げられたり壊されたりで、見て
いる気にもならず、そこからしばらく遠のくしかない。そうでないと余計ひどくなる。
寂しいのかも知れず、面白くないというのは常だが、どうしていいかわからないものだ。
介護というが、さてこれが私を鍛えてくれるものか、母が残してくれる贈り物なのかと
いうと、今の段階ではなんともいえず、小さいようで大きな嵐が去るのを待つのみであ
る。
こうゆう日が続くのは間違いがない。それが続いてきて、忘れているが。