時間も、時計を見なくても大体何時ころかわかる。それが一つはお腹の減り具合だったりもする。それから、日を眺めて・・・、そうゆうことも出来ないことになっているし、やはり肉眼で日を、太陽を見ることは誰もが薦めず、逆にそれはやってはいけないということになるのだが、これはその通りである。太陽を肉眼で見てはいけない。その辺りを眺めることで、どこに太陽があるかわかるもので、それと地平の様子を足したり引いたりすると、大体今頃の時間というのもわかるようで、真西の辺りを太陽は通ってゆくが、まだ沈まず、遅い時間になってもいくらでも明るい。
今日は雨の後の、晴れ間でもあるから、まことにまぶしく、その明るさは初夏に戻った。朝だと、4時ころ薄明るい。もうすぐ、薄明るいが明るくなって、そのうち、太陽が睡眠を妨げるようにもなる。その場合でもしかし、日の当たるほうを見なければ眠れるもので、しかしある時間たつと、日はまだ出ていないが、暑すぎて眠れなくもなる。それがもう近い。カレンダ、日記、手帳、それから時計に、新聞を見ても、もう五月も後半で、それも18日とある。太陽の位置もまだ高く、それから日の沈む位置が、あーあの辺りが夏至のときの日没の位置である、というところに近づく。
日の出の時間と日の入りの時間は12時を基点としてまったく対称かというと違うような気がしている。さて夏至に近いと、朝が早い、つまり日の出の時間が早くて、日の入りの時刻は、12時から、朝の値を引いた時間かというと、そうではなく、はたして、どちらが12時と離れているのか、これは朝の方が、早く、夕刻はそれよりは、同じように少し早い。全体に朝にずれ込むような感じがあるが、どうだろうか。どちらでもいいような気がして、それも太陽の南中の時間というのが、どうゆうわけか、12時に至らないからである。これもどうでもいいような感じである。
やけに、夜が明るいと、これはさほど問題はないようで、なぜかというと、人の起きている時間が、午前より午後の方が長いような気がするからで、しかし朝方の人、夜も更けて元気な人は、起きている時間は午前が長い。夜型といっても起きているのは午前で、この辺りは健康人間という気もする。
朝起きてというと大体眠く、さて山に行くには早起きが一番でもある。これが出来なくなるときがあるもので、もう気力がない。だめだろうと思うといつまでたっても起きることも出来ない。そうゆうことがあった。
それからこんなことも書く気ではなかったが、昼夜の生活が反対になった、ということもある。これは何度か書いていて、しかしいつも今頃か、あるいは年に一回程度思い出すことがある。夜行性動物がいる。だから夜行性の人もいるかというと、どうだろうか。最近はなるべく早く起きるようにするが、そのためには早く眠ることになる。早く眠るのがカッコウが悪いと思う人もいるようで、それでも朝の3時とかにTV局に入る方もいるのだろう。恐ろしく短い睡眠時間である。
昼夜逆転の生活は夕方に起きて、というとちょっとひどく、しかし朝方の4、5時まで起きてというと、昼ころには起きられる。そうゆうことは若いと可能である。これ以外に、学生の夏休みに、まったく夜中は起きていて、大体夏休みとかで人もいない。するとやたら静かで、勉強はどうか忘れたが、いい時間を過ごすことが出来たが、いざ何とかの試験があるというとき、一体どうしてその逆転した生活を戻したか、まったく記憶にない。大体、逆転はするが、もう一度逆転して、夜中に起きている生活を昼に起きるものに、朝から起きるというわけだが、戻すのもむつかしく、また自然と一回転して、朝方になる、あるいはごく普通の生活になるのも、むつかしい。
人はどのくらい眠っていられるか、これにも限度がある。健康という方で、眠っていないといけないというのは、苦痛である。増して、ここの中にいないといけないという、外出禁止令というのもかなりというか、相当苦しいことの一つでもあって、これでは心身ともにおかしくもなってしまう。孤立した感じと不自由さは、簡単に人の体調やら、心のあり方を崩してしまう。なるべくなら、そうはなりたくもない。
こう考えると、朝も日も出ているので、起きると決めると起きられる。ずっと眠ってというのは苦しい。外に出てはいけないというのも耐えられない。
きょうも少しだけ暖かい外を歩くことが出来た、幸いかなという感じである。
青空にカエデも、時間がたってしまった。似たようなものが必ずある。時間差を作る。すると、へたすると1週間くらいして出てくる。
非常にあっさりとした、アヤメ。まるで背景とは異なるようで、またこのアヤメは、手書きのような印象も受ける。この不思議さ。
これだと、合成した、花と背景は別々という感じは薄まる。もちろん、一枚の絵であるが。
なかなか、かわいいとも思えるシジミチョウも止まってくれない。でも、きのうの、ツマグロハナカミキリと思える虫より、花アブはかわいいと思う。
晴天の黄色いバラ。どうしても光が強いと色が飛ぶ。花の色の一番いいのは、やっぱり曇り空かな。
ヒゲナデシコは、みなこの色で、ほかのものは、咲きそうで咲かない。きょねん、咲いたその株から、またことし出て来たもの。
今日は雨の後の、晴れ間でもあるから、まことにまぶしく、その明るさは初夏に戻った。朝だと、4時ころ薄明るい。もうすぐ、薄明るいが明るくなって、そのうち、太陽が睡眠を妨げるようにもなる。その場合でもしかし、日の当たるほうを見なければ眠れるもので、しかしある時間たつと、日はまだ出ていないが、暑すぎて眠れなくもなる。それがもう近い。カレンダ、日記、手帳、それから時計に、新聞を見ても、もう五月も後半で、それも18日とある。太陽の位置もまだ高く、それから日の沈む位置が、あーあの辺りが夏至のときの日没の位置である、というところに近づく。
日の出の時間と日の入りの時間は12時を基点としてまったく対称かというと違うような気がしている。さて夏至に近いと、朝が早い、つまり日の出の時間が早くて、日の入りの時刻は、12時から、朝の値を引いた時間かというと、そうではなく、はたして、どちらが12時と離れているのか、これは朝の方が、早く、夕刻はそれよりは、同じように少し早い。全体に朝にずれ込むような感じがあるが、どうだろうか。どちらでもいいような気がして、それも太陽の南中の時間というのが、どうゆうわけか、12時に至らないからである。これもどうでもいいような感じである。
やけに、夜が明るいと、これはさほど問題はないようで、なぜかというと、人の起きている時間が、午前より午後の方が長いような気がするからで、しかし朝方の人、夜も更けて元気な人は、起きている時間は午前が長い。夜型といっても起きているのは午前で、この辺りは健康人間という気もする。
朝起きてというと大体眠く、さて山に行くには早起きが一番でもある。これが出来なくなるときがあるもので、もう気力がない。だめだろうと思うといつまでたっても起きることも出来ない。そうゆうことがあった。
それからこんなことも書く気ではなかったが、昼夜の生活が反対になった、ということもある。これは何度か書いていて、しかしいつも今頃か、あるいは年に一回程度思い出すことがある。夜行性動物がいる。だから夜行性の人もいるかというと、どうだろうか。最近はなるべく早く起きるようにするが、そのためには早く眠ることになる。早く眠るのがカッコウが悪いと思う人もいるようで、それでも朝の3時とかにTV局に入る方もいるのだろう。恐ろしく短い睡眠時間である。
昼夜逆転の生活は夕方に起きて、というとちょっとひどく、しかし朝方の4、5時まで起きてというと、昼ころには起きられる。そうゆうことは若いと可能である。これ以外に、学生の夏休みに、まったく夜中は起きていて、大体夏休みとかで人もいない。するとやたら静かで、勉強はどうか忘れたが、いい時間を過ごすことが出来たが、いざ何とかの試験があるというとき、一体どうしてその逆転した生活を戻したか、まったく記憶にない。大体、逆転はするが、もう一度逆転して、夜中に起きている生活を昼に起きるものに、朝から起きるというわけだが、戻すのもむつかしく、また自然と一回転して、朝方になる、あるいはごく普通の生活になるのも、むつかしい。
人はどのくらい眠っていられるか、これにも限度がある。健康という方で、眠っていないといけないというのは、苦痛である。増して、ここの中にいないといけないという、外出禁止令というのもかなりというか、相当苦しいことの一つでもあって、これでは心身ともにおかしくもなってしまう。孤立した感じと不自由さは、簡単に人の体調やら、心のあり方を崩してしまう。なるべくなら、そうはなりたくもない。
こう考えると、朝も日も出ているので、起きると決めると起きられる。ずっと眠ってというのは苦しい。外に出てはいけないというのも耐えられない。
きょうも少しだけ暖かい外を歩くことが出来た、幸いかなという感じである。
青空にカエデも、時間がたってしまった。似たようなものが必ずある。時間差を作る。すると、へたすると1週間くらいして出てくる。
非常にあっさりとした、アヤメ。まるで背景とは異なるようで、またこのアヤメは、手書きのような印象も受ける。この不思議さ。
これだと、合成した、花と背景は別々という感じは薄まる。もちろん、一枚の絵であるが。
なかなか、かわいいとも思えるシジミチョウも止まってくれない。でも、きのうの、ツマグロハナカミキリと思える虫より、花アブはかわいいと思う。
晴天の黄色いバラ。どうしても光が強いと色が飛ぶ。花の色の一番いいのは、やっぱり曇り空かな。
ヒゲナデシコは、みなこの色で、ほかのものは、咲きそうで咲かない。きょねん、咲いたその株から、またことし出て来たもの。