光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

よくある、そぞろな気持ち

2007-10-02 19:09:39 | 散策
  きのうだったか、今日だったか、もうそれも少しはっきりしないが、朝に、ここのあるところから、少し遅れてビッシリ生えてきたヒガンバナを見て、これは花を見るのではなく、その茎の数を見るほうがいいのではないかとふと思った。
  ヒガンバナの密集して咲いている写真を、ここの書き込みでも見ることが出来るが、それこそ少し分けて欲しいくらいの数が咲いている。一つの茎に、どのくらいの花が咲くか正確に数えるわけでもないけれど、これも何かを暗示するようにも思えてくる。
  ここにはもう一箇所、ヒガンバナが咲くところがあるが、これは木の下側であってはっきり見えない。あーあるなで、いつも済ませている。
  それで、少し遅れてかなりの数のヒガンバナの茎が出ているが、これは、昔からここに棲んでおられた方の分身とも考えられて、こうゆう風な考え方もあってもおかしくはないのではないかと思う。
  自分のご先祖様については、これは、お墓には元々いなくて、それは自分の遺伝子の中にいる。一応、そうゆう風に思っている。まーそれでも、お墓参りに行くときは行く。それで、そのご先祖様だけど、私の父方の祖父母までは、はっきりとわかっている。何しろ、何度も会っているし、ちゃんと見送りもした。でも、祖父母のその一つ前の世代となると、これがもう怪しい。はっきりしない。
  それを知る人が高齢になり、父のようにアルツハイマーなどと診断されると、もはやそんな話しは出来ない。それでも、かなり昔に、なんとなくではあるが、祖父母の一世代前のご先祖様の話しは聞いた。それも、しかし子供の時で、そんな話しは、その時までである。
  それで、私には父と母がいる。また父方のことに付いて書いたけど、母にも父と母がいた。こうして、昔の人をたどってゆくと、ずいぶんとたくさんの人間がいないと、自分は存在しないことになり、なんとなくではあるが、ちょっとおかしい気もする。昔のほうが、人口が多くなければならない、そうゆう気がするのだ。
  無論兄弟がいる。姉も妹も兄も弟もいる。これらの方は、同じお父さん、お母さんを持っている。だから、自分のご先祖様が、兄弟のご先祖様でもあって、なぜか少し安心するが、それでも、やはり母と父がいて、そのそれぞれに、やはり、母と父がいなくてはならず、問題の本質はなかなか、はっきりしない。
  そぞろな感じの話しで、大体この程度のことを、ヒガンバナを見て考えたということである。これ以上、難しい話しは特に望まない。
  秋の虫の姿に、これまた、人との関係を無理やりくっ付けたい気もするが、それは置いておいて、舗装された道を歩く、色は茶色の、それもやはりお腹の大きいカマキリを見る。このカマキリが余り元気がない。舗装された道路をのそのそ移動するアオムシもときどき忘れたころに見る。舗装された道に虫は多い。先ほどは、蜘蛛の巣に捕まって、ずいぶんと時間がたったと思われる、糸トンボのようなものを見た。夕暮れに、まだ明るかった、か細い胴体に翅だけはほどほどの大きさを持つ物質と化した糸トンボを見て、そういえば、カミキリムシも、この蜘蛛の巣に絡まって、そのまま長い間ぶらさがっていたことを、思い出した。

  今日も、少し暑いと思える時があって、汗をかいた。しかし、その後の天気はやはり秋のものである。一昨日か、雨が降って草に水滴が付いていたが、その中のちょっと細い草で、それゆえ、その水玉もずいぶんと小さく、この様子を撮ってみた。



  これは、どちらかといえば、少し奥まったところで合焦している。それゆえ、より小さな水滴がそこに見えた。



  こちらは、表面の草に合焦。最初のものよりも拡大もしているし、水滴も大きいようである。まずまずな気もするが、いかがでしょうか。

心地よく、だまされる

2007-10-02 07:20:15 | 散策
  朝の天気、曇り。小雨が混じるが、道路は濡れていない。風は弱く、穏やか。室温20.5℃、まーまーこんなもんだな。
  本格的な秋で、なぜか敏感になっている。今までは暑いの一言ですんでいたことが、それで終わらない。どっちがいいかわからなくなってくる。
  テストというのがあるが、それもほとんどのは紙でのテストだが、それを受けなくなってどれくらいの時間がたつか、最後の紙のテストはいつどこでなんのだったか、思い出せない。
  テストには、何年何組の誰々ですとか、受験番号を書き、名前も書かないと、いくら100点の解答を書いてもだめである。このことを教える先生もなかなかいない。また、次の問題のうち、2問を選択して答えよというものもあって、だが実際は問題は3問印刷されている。これに昔見事に引っかかって、名前だけ書いてはだめなことも経験した。
  テストというと、これに答えればよかった。これに対する恨みは今はあらかた消えているが、今思うのは、これを採点する先生も大変であるということ。また、問題をつくるという大きな仕事もあって、しかしさすがに学生の時はそこまで考えなかった。この観点からゆくと、例えば何々について説明せよなどという問題が出たとして、それがまったくわからず、適当に文を作りそこに書いておいて、なぜかその結果が、判定が、Aであってもおかしくない気がする。
  ものを書く仕事をされている方は大変である。よくあんなことが出来るなと常々感心する。それも、乗り物の中で、あるいは、酒場で、カウンタで、あるいは、レストランで、さらさらとやる。最近は、カタカタかも知れない。このカタカタが、そこはかとなく静かな夜の空間に振動すると、他にも同様の仕事をされている方がいて、そこにハーモニが生まれるかも知れない。一人の方は、電脳の辞書を使い、一人の方は紙の辞書だ。
  それで、芸術をお仕事としている方の書き物を読んでいると、いよいよ本番という時のその心境が、ホンの少し紹介されていて、これがなかなか面白い。テストを受けるというのは、これと、芸術家がいよいよ本番を前にしている心境と比べると、天国にいるようなものだ。どうしても、トイレに近くなるという。これなんかは、私はほかの事で経験している。お腹が痛む。これはほとんどない。芸術家の方は、やはり、その時の心境を芸術的に語る。ここに、しかし演技の要素が盛り込まれるのは仕方ないと思われる。これこそが、芸術家であることの証明になるから。
  それで、私はすでにそのところを読んで、さらに、もう最後までその書き物を読んだ。それで、夜になると、なぜか、きのうは暖かかった布団が嘘のようにウスッペラに思える。それで、そのトイレというものにやけに近くなったりする。これが、書き物の影響か、自分の老化現象か、今のところ、それを解明する決定的なものはない。