田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

初恋の妻に――。 麻屋与志夫

2021-06-06 07:32:06 | 超短編小説
超短編 23
初恋の妻に

 夜来の雨が降り続いている。
 せっかくみごとに咲いたのに、雨滴の重みで、げんなりとしてしまった。
 咲き誇ることにつかれはてたようにみえてしまう。
「バラの嘆きがきこえるようだよ」
 良平はキッチンにいる妻にはなしかけた。
 広い廊下に小さなテーブルがある。窓越しに朝茶を飲みながら庭を見ている。
 この季節に、妻がつくりあげたバラの庭をみるのが彼のたのしみだった。
 ふいにお茶を吐いてしまった。声がでない。
 邪悪な発作を妻に告げようと喉をふるわせているのだが――。
 ことばにならない。
「凛子……」
 叫んでいるはずなのに。
 声にならない。
 良平は夢中でテーブルを叩いた。
「お茶がこぼれたじゃない。あらあら、土平さんの湯飲み茶わんがわれたわ。これ高かったのよ――」
 そこで妻が気づいた。
「どうしたの。どうしたの」
 妻の金切り声。
 良平は目の前にあるノートに書いた。
 声がでない。脳卒中だ。漢字が浮かばない。かな書きだ。
 妻の反応は速かった。救急車を呼んでいる。

「あの白い花をつけているのがアイスバーク」
 バァゴラで咲き乱れている。
 白いバラの名前をおしえてもらった。
 いつのことだったろうか?
 初恋で結婚した妻にはバラの名前を幾種類もおそわった。
 シャポドナポレオン。
 シテイオブヨーク。
 紫雲。
 モッコウバラピーェルドロンサールモッコウバラスノーグースフレンチレースゴルドバニー
 ……頭はだいじょうぶだ。    
 バラの名前をこれだけ、いゃ、まだまだ思いだせる。
 ふいに襲ってきた発作の恐怖……とたたかいながら。
 絶望の淵におちこまないように。
 バラの名前を意識の中でとなえつづけた。
 アイスバーク、初恋初恋の凛子、初恋の凛子一緒になれてよかったしあわせだしあわせだ。
 救急車が家の前でとまった。
 複数の足音があわただしくきこえてきた。
 門扉がひらく。
 白い担架が庭をよこぎってくる。

 良平の意識はただ白い担架だけに向いていた。あれで病院に運ばれる。
 まだ意識のはっきりしているうちにかんがえることがあるはずだ。
 人生最期のメッセージとか。死に臨んでの辞世。とか――。 

 玄関に向おうとする隊員に妻が「こつちこっち」と呼びかけている。
 廊下に面したサッシュをあけた。切迫した妻の呼び声。
 アイスバークの花言葉は……。
 そこで良平の意識はプッリと途絶えた。

 妻の凛子が良平の顔をのぞきこんでいる。
 あわてて、だがうれしそうに枕元のナースコールを押している。
「意識がもどったのね。よかった。よかったわ」
 すこし老けたような妻。黒髪が白髪。顔にも皺。しわなぞなかったのに。
「わたしが、わかる」
「凛子だ。凛子」
 白衣の医師が「きせきだ」とつぶやいている。
「おとうさん。わたしよ。わたし、娘の雪見よ」


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