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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『太平洋戦争 - 上 』 ( 東京裁判の不合理性確認 )

2021-11-20 15:28:20 | 徒然の記

 大畑篤四郎氏著『太平洋戦争 - 上』( 昭和41年刊 人物往来社 ) を、読んでいます。まず、巻末に書かれた著者の略歴を紹介します。

 「昭和4年、東京生まれ。」「早稲田大学文学部・西洋史科卒、現早稲田大学法学部助教授」「専攻、外交史」

 保守系の学者か、左翼系なのか、この履歴では分かりません。著作が出されたのは、まだマルクス主義が威を振るい、ソ連が大国と思われていた時です。歴史の匂いがする書き振りなので、紹介したくなりました。

 「現代の世界を二分している勢力は、アメリカを先頭とする、」「自由主義陣営 ( 西側  ) と、ソ連・中華人民共和国に代表される、」「共産主義陣営 (  東側 ) であると言われる。」「アジア、アフリカの新興勢力の発言権も、高まっているが、」「大雑把に言って、世界情勢が、」「この東西関係を軸に、動いていると言えよう。」

 ソ連崩壊以後、「マルクス主義は20世紀最大の失敗だった。」とも言われる時代となりました。世界は西側・東側でなく、米国と中国の二大覇権国を軸に緊張を高めています。大畑氏が著作に書いていた頃とは、様変わりの世界です。

 それなのに日本は、敗戦以来左右の対立が国論を二分し、不毛な政争を続けています。原因は敗戦と、連合国による復讐裁判ですが、76年が経過した今でも、私たちはこの裁判 ( 東京裁判 ) が乗り越えられません。国民が絶対多数を与えているのに自民党は、東京裁判の置き土産である「日本国憲法」を、改正する覚悟さえ見せません。

 私のブログも今年で11年目になりますが、「憲法改正」、「皇室護持」と、同じ主張をオームのように繰り返しています。

 書評に入る前に、「東京裁判」の不合理性の確認作業を、もう一度したくなりました。「温故知新の読書」の結果として、私はその作業の重要性を確信しました。

 満州進出を決めた時は、伊藤公に代表される反対派と賛成派の主張が生まれました。盧溝橋事件が発生した時も、そのまま日中戦争へ突き進んだわけでなく、陸軍内では、「拡大派」( 関東軍・朝鮮軍 ) と「不拡大派」( 現地シナ駐屯軍 ) が、激論をしています。

 同時に、英米との協調外交を唱える幣原氏の路線と、ドイツとの連携を主張する松岡・大島外交がせめぎあいました。そして、長引く戦争を収束させるため、仲介役をアメリカにしようとする者、ドイツに頼もうとする者、蒋介石と密かに話を進める者、ソ連に打診する者など、敗戦間際の日本は右往左往し、どこに政治の中心があるのか分からない状況が続きました。

 「東京裁判」の不合理性の確認作業のため、私が使おうとするのは、渡部昇一氏の著書『東條英機 歴史の証言』( 平成18年刊 祥伝社 )です。東京裁判における、東條英機元首相の「宣誓供述書」の解説書でもあります。

 「東京裁判は、ナチス・ドイツを裁いたニュルンベルクの、」「裁判所条例 (チャーター ) を、そのまま東京で真似たものの、」「日本には、ヒトラーはおらず、」「ナチスのような独裁政権もなかった。」

 東京裁判は、ニュルンベルク裁判を真似、日本にもヒトラーに似た独裁者がいて、戦争を指導していたと言う前提を持っていました。政権獲得から拳銃自殺するまでの12年間、ドイツの先頭に立っていた、ヒトラーのような独裁者がいなければ、世界を相手の戦争はできないと思っていたのです。裁判を始めて、独裁者のいない日本に彼らが気づいたと、渡辺氏が説明しています。

 「しかるにキーナン以下の検察側は、」「28人の被告の、全面的共同謀議により、」「侵略戦争が計画され、準備され、」「実施されたという、法理論を打ち立てた。」

 氏のいう28人とは、GHQが戦争犯罪人として逮捕し、A・B・Cの罪名をつけ巣鴨刑務所に拘置していた、東條元首相以下の政治家と軍人です。「全面的共同謀議」という法理論を主張しなければ、裁判自体が成立しませんでしたから、キーナンとウエッブ裁判長が協力しています。

 「起訴状にある、昭和3年から、敗戦の20年までの17年間、」「内閣は、16回交代している。」「しかもその理由は、主として、閣内の意見不一致によるものである。」

 日本に独裁者がいないだけでなく、「全面的共同謀議」もあり得なかった理由を、氏が述べています。被告人の一人だった荒木陸軍大将の証言も、紹介しています。

 「この被告席にいる、28名の中には、」「会ったことも、言葉を交わしたこともない人間が、」「半分ほどいる。」「顔も知らず、会ったこともない人間と、」「どうして、共同謀議などできようか。」

 しかしウエッブ裁判長は、荒木大将の証言を採用せず、「全面的共同謀議」の中心人物を東條元首相と決め、独裁者のイメージを作り上げました。アメリカに協力した裏切り者の第一号が、かの有名な田中隆吉少将です。諜報関係の責任者だった彼は、情報を漏らす代償として、自己の罪状を不問にされたといいます。

 東条内閣で大蔵大臣を務め、戦時経済を指導した賀屋興宣氏は、釈放後に次のように語っています。 

 「ナチスとともに、17年間、超党派で、」「侵略計画を立てたと、言いたかったのだろうが、」「そんなことはない。」「軍部は、突っ走るといい、政治家は、困ると言い、」「北だ、南だと、国内はガタガタで、」「おかげで、ろくに計画もできないまま、」「戦争になってしまった。」「それを共同謀議など、お恥ずかしい話だ。」

 現在では多くの資料が世に出て、東京裁判の不合理性と歪んだ実態が見えるようになりましたが、それでも多くの国民は、このことを知りません。

 「文句があるのなら、アメリカへ行って言え。」と、馬鹿な意見を言う人がいますが、文句を言う相手は、アメリカではありません。復讐劇でしかない捏造の裁判を、今も後生大事にし、国民をたぶらかしている反日左翼学者と、政治家と、マスコミです。日本に住みながら、現在も国を憎み続けている彼らに、怒りを覚えます。

 この事実を頭に入れながら、次回から書評にかかろうと思います。興味のある方は、「ねこ庭」へ足をお運びください。

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『中国との戦い』 - 11 ( 今井少将、歴史の証言 )

2021-11-18 18:18:12 | 徒然の記

 幕末以来、帝政ロシアの侵略を恐れていた日本は、祖国防衛のため、満蒙の地を支配下に置くことを考えていました。今回述べようとしているのは、だからと言って日本が中国を無視し、満州を侵略したのではないという事実です。

 この間の事情を、電気通信大学の藤本昇三氏が次のように述べています。

 「すでに辛亥革命前の、1907 ( 明治40 )年 1 月、 日本に亡命中であった孫文は、」「東京において行なった演説の中で、 三民主義を高唱して清朝打倒を説き、」「中国革命の目的は滅満興漢にあるが故 に、もしも日本が 中国革命を援助してくれるならば、」「革命成功の暁には 、〈満蒙〉を日本に割譲しょうと述べたと言 われている。」

 「第 一次大戦 までの時期における孫文は、 日本が中国革命を援助することに、」「大きな期待をしており、その関連において、」「 満蒙問題に関して、日本に対しきわめて妥協的であったといえよう。」「孫 文はこの時期においては、主として武力に頼り中国革命の成功を図ったのであり、」「日本が革命勢力を軍事的に援助するならば、 日本に満蒙の権益を譲ることはやむを得ないと、考えていたのである。」

 文書で取り交わした約束事でなく、口約束に過ぎませんが、孫文を支援していた政治家や大陸浪人が、本気になったのは間違いありません。清朝政府を倒すため、日本は孫文を支援し、同時に満州にも手を伸ばしていきました。
 
 孫文の死後、後を継いだ蒋介石は中国統一を進めるため、割拠する軍閥の掃討にかかります。軍閥の中には、日本と共通の敵もいたため、協力することもありましたが、地方の支配をめぐり、やがて日本との対立が深まっていきます。

 対立を深めさせたのが、毛沢東の指導する共産党でした。彼らは得意のゲリラ戰に住民を組み込み、各地で激しい抗日活動を展開しました。単なる抗議活動でなく、日本人の商店に放火し、住民を虐殺する暴力・破壊活動でした。

 共産党による日本人への迫害・虐殺行為は、満洲から次々と内陸へ波及し、それを追う日本軍の攻撃も拡大していきます。そうなれば、中国統一を目指す蒋介石と衝突することになり、「泥沼」の戦争へと向います。

 松井石根大将が、蒋介石との連携による「アジア保全の構想」を持ち、蒋介石との親交があったように、日本の中には数は少ないながら、同じ考えを持つ人物がいました。

 もしかすると、著者である今井氏もその一人だったのかもしれません。336ページの叙述を、そのまま転記します。

 「昭和20年7月、シナ派遣軍総司令部では、総参謀副長・今井武夫少将が、」「中国軍戦区で、会談を行うことになった。」

 「今井は非武装で中国服をまとい、日中両軍の戦線を越え、」「中国軍前線司令部へ行き、司令官何柱国大将と会談した。」「今井は条件として、国体の護持と国土の保全を絶対条件とし、」「これが入れられなければ、あくまで交戦する意向を告げ、」「先方の条件を打診した。」

 これに対し、何大将が次のように答えています。

 「現状においては、すでに日中単独和平は絶対不可能である。」「万一日本が、中国との和平を希望するなら、」「それは同時に、世界の和平実現でなければならない。」

 最初は日本軍を、中国統一のための協力者と見ていた蒋介石でしたが、戦域の拡大とともに連戦連勝する日本軍を警戒し始めました。日本軍は共産党同様の、中国統一を邪魔する敵となってしまいます。彼は支援を欧米に求め、国際連盟で「援蒋決議」までされていますから、この時点で日中戦争が世界戦争と化していました。何大将の言う通り、日中の意向だけで和平交渉ができなくなっています。

 私が注目しましたのは、何大将の次の言葉でした。

 「また中国は、日本が敗戦後滅亡することは決して望まず、」「むしろ戦後も、東洋の強国として残り、」「中国と手を携えて、東洋平和の維持に協力できるよう、」「全面的敗退に先立ち、国力を消耗し切らぬうちに、」「なるべく早く戦争を終結するよう、希望している。」

 「中国は、万一日本の要請があれば、日本の和平提案を連合国に取り次ぐに、やぶさかでない。」「特に蒋介石主席は、日本の天皇制存続に好意を寄せ、」「すでに各国首脳に、その意向を表明している。」

 今井少将は会談後南京へ戻り、総司令官今村寧次大将を経て、大本営に報告しました。大本営はこの情報に驚喜し、交渉が有利に展開するよう人事配置に着手します。

 「しかしこの件は、大本営と政府間の連携不良のため、」「政府に報告されなかった。」「そのため、終戦の端緒を見出そうと苦悩中の政府は、」「中国に仲介の意思なしと即断し、ソ連に依頼し、」「返って、ソ連参戦の好機を与える結果となったのである。」

 その後の動きについて叙述するのは、つらいものがありますので、著書にある昭和20年の年表から、事実のみを転記します。

  7月12日 近衛公、遣ソ使節を命ぜられる

  7月26日 ポツダム宣言、発表

  8月6日  広島に原子爆弾投下

  8月8日  ソ連、対日宣戦布告

  8月9日  長崎に原爆投下  ソ連軍、満州、北鮮、樺太へ侵入

  8月14日  終戦詔書発布

  8月19日  関東軍降伏

 次回からは、大畑篤四郎氏著『太平洋戦争( 上 )』を読みます。読書計画も、あと二冊で一段落します。

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『中国との戦い』 - 10 ( 昭和16年の「帝国国策要項」 )

2021-11-17 22:43:19 | 徒然の記

 日本が、中国に対し長期持久戦の覚悟をした頃、ドイツがヨーロッパで、急速な勝利を収めていました。日本はドイツの動きに呼応し、三国同盟、北部仏印進駐と、もう一つの駒を進めていました。251ページの、氏の叙述を紹介します。

 「しかし昭和16年に入ると、ドイツのイギリスに対する作戦が、」「思ったほど順調にいかず、イギリスがそれほど早く、」「ドイツに屈服しそうにない、形勢となってきた。」「ドイツに期待をかけていた軍部も、こうなると慎重にならざるを得なくなり、」「アメリカとの国交調整が始まった。」

 同じ時期に、中国内部で大きな事件が起こりました。昭和12年の国共合作以来、蒋介石の国民党軍の中に、「新四軍」と呼ばれる共産党軍の部隊が編成されていました。蒋介石は昭和16年の1月に、その新四軍に移動を命じて、途中で待ち伏せし、全滅させてしまいました。理由は、八路軍や新四軍が、抗日戦を進めるにつれ、次第に成長していくことへの恐れでした。

 「この事件のため、中国の二つの勢力である国・共関係が悪化し、」「国民政府は日本軍と戦う一方で、自国内の共産軍と戦わねばならなくなった。」

 その傍らで、アメリカとの国交調整を開始した日本は、野村大使とハル長官の間で協議を進めていました。4月には「日米了解案」が、次の内容でほぼ纏まりました。

  1. 日中間の協定によって、日本は中国から撤退する。

  2. 中国の満州国承認

  3. 蒋・汪両政権の合流

  4. 日本の南方資源獲得に対する、アメリカの理解

  5. 日中間の和平斡旋

 この案は、日本にとって受諾可能と思われていましたが、立ち消えになってしまいます。

 「外相松岡洋右は、このときヨーロッパを訪問し、」「帰路モスクワに立ち寄り、〈日ソ中立条約〉結んで帰国すると、」「〈日米了解案〉を大幅に修正した上、中立条約締結を提案したため、」「了解案は、葬られることになってしまった。」

 氏の説明だけを読みますと、松岡外相が邪魔をしたと思われますが、近衛公の戦後の談話 ( 『敗戦日本の内側』 )を読みますと、事情が変わります。

 「昭和15年の春に至り、ドイツは破竹の勢いをもって、」「西ヨーロッパを席巻し、英国の運命もまた、」「すこぶる危機に瀕するや、再び三国同盟の議が、」「猛烈な勢いで国内に台頭し来った。」

 「昭和15年7月に、余が第二次近衛内閣の大命を拝したる時は、」「反米熱と、日独伊三国同盟締結の要望が、」「陸軍を中心として、一部国民の間にも、」「まさに沸騰点に達したる時、であった。」

 三国同盟締結のおり、ドイツは日本に対し、ソ連との親善関係を仲介する約束をしていました。従って、首相だった近衛公の判断は、これにより英米に対する日本の立場が強固になれば、日中戦争の収束がしやすくなるというものでした。三国同盟にソ連を加え、同盟を強化しようという考えは、近衛公だけでなく、軍にもありました。

 ところが同年( 昭和16年 ) の6月、ドイツが突然ソ連と開戦します。「独ソ不可侵条約」を、ドイツが破りました。ドイツ駐在の大島大使から、情報は入っていたのですが、参謀本部は半信半疑でした。

 「まさかドイツが常識を破り、対英戦と対ソ戦の二正面作戦の愚を、するわけはあるまい。」と、判断していました。松岡外相が危惧して、リッペンドロップドイツ外相にメッセージを送ると。

 「独ソ戦は不可避であるが、戦争は二、三ヶ月で終結しうる。」という、回答でした。ここにおいて、政府と大本営は本気で対策の検討に入ったと言います。

 長い間、北方からのソ連の重圧に耐えていた日本にとって、独ソ開戦は絶好のチャンスでもありました。この際北辺の憂いをなくすべきという「北進論」と、仏印の石油・ゴム・スズを獲得するのが優先という「南進論」が激しく対立しました。閣内の意見不一致のため、近衛総理が総辞職し、同年10月に東條内閣が成立しています。

 昭和16年は、今から考えますと、世界にとっても、日本にとっても、分水嶺の年だったということが分かります。資本主義と共産主義の戦いと同時に、枢軸国と米英との戦争が同時進行し、しかもドイツが同盟国ソ連に宣戦布告しています。

 日本だけでなく、米・英・独・仏・ソが自国の存亡をかけて、なりふり構わない戦争に突入した年です。勝敗の決した現在から見て、日本の政治家や軍人を批判するのは簡単ですが、複雑に交錯する事実を知ると、それができなくなります。氏の説明によりますと、軍の内部は、大きく次のように分かれていました。

 参謀本部・・北進論  陸軍省・・南進論  海軍・・情勢を見極めて決める

 6月の独ソ開戦後、7月に開かれた御前会議で決定された、「帝国国策要項」を紹介します。〈  第一 方針  〉、〈  第二 要領  〉と分かれていますが、スペースの都合で、〈  第一 方針  〉のみの紹介とします。これだけでも、当時の日本が何を目指していたのかが、分かります。

 1. 日本は世界情勢がいかに移り変わろうと、大東亜共栄圏を建設し、世界平和の確立に寄与する方針を守る。

 2. まず、支那事変の処理に邁進する。自存自衛の基礎を確立するため、南方進出の歩を進める。北方問題は情勢の推移に応じて解決する。

 3. 以上の目的達成のためには、どのような障害も排除する。

 おそらく、近衛内閣の最後の御前会議での決定と思いますが、批判する気持ちはなく、むしろご先祖様の覚悟を尊いものとして受け止めました。「ネトウヨ」の言辞と憎む人もいるでしょうが、次回は、その理由を申し上げます。

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『中国との戦い』 - 9 ( 南京事件の再確認 )

2021-11-16 13:30:05 | 徒然の記

 「中国側が戦後発表した資料によると、数十万もの市民が殺されたことになっているが、」と、氏が説明しています。これは東京裁判で使われた、資料を指しています。米国と英国により作られたものです。

 東京裁判については、現在その実態が明らかになっていますが、南京事件については、まだ世間では事実が知られていません。南京で大量虐殺があったという学者の説は、ほとんどが東京裁判での資料をもとにしています。

 まず氏の著書に従い、南京事件に関する判決文の内容を、紹介します。

 「南京が占領された後、最初の二、三日の間に、」「少なくとも、一万二千人の、」「非戦闘員である中国人男女子供が、無差別に殺害され、」「占領の一ヶ月の間に、」「約二万の強姦事件が、発生した。」

 「また一般人になりすましている、中国兵を掃討すると称して、」「兵役年齢にあった、中国人男子二万人が、集団的に殺害され、」「さらに捕虜三万人以上が、武器を捨て、降伏してから、」「72時間のうちに、虐殺された。」

 「なお、南京から避難していた市民のうち、」「5万7千人が、日本軍に追いつかれて、収容され、」「彼らは飢餓と、拷問に会い、」「ついに多数の者が死亡し、」「生き残った者の内の多くは、」「機関銃と銃剣で殺された。」

 田中氏は松井大将と、攻略直後の南京に入っていますので、世間に溢れる学者たちの推測記事が、許せなかったのではないでしょうか。

 「鎌倉市より狭い南京城内に、日本の新聞記者やカメラマンが、」「約120人も、占領と同時に入城し、」「取材に当たっているのである。」「朝日、毎日、読売、日経など全国紙の支局や、」「地方紙や通信社も、南京に特派員を派遣している。」「朝日新聞の取材班は、約80名、毎日新聞は、約70名だった。」

 この説明を読み、私は驚きました。鎌倉に何度か行っていますが、南京がそれより狭い土地とは意外でした。その狭い場所に、占領と同時に120人の日本の記者やカメラマンが入っています。その後は、朝日と毎日だけでも、150名の取材陣です。それだけでなく、アメリカやイギリスなど外国の記者たちもいたのだと知りますと、意外感に打たれるばかりでした。

 東京裁判の判決の不当性を証明するのは、簡単な話で、報道記者たちの証言を集めれば良いのです。田中氏は、訪ねた彼らの証言を本の中で紹介しています。

 1. 原四郎  読売新聞上海特派員

  「私が、南京で大虐殺があったらしいとの情報を得たのは、」「南京が陥落して、三ヶ月後のこと。」「当時、軍による箝口令が、敷かれていたわけではない。」「なぜ今頃、こんなニュースがと、」「各支局に確認をとったが、ハッキリしたことは、つかめなかった。」「また中国軍の宣伝工作だろう、というのが、」「大方の意見だった。」

 2. 五島広作 東京日日新聞特派員

  「自分が南京戦取材を終えて、上海に帰り、」「しばらくすると、南京で大虐殺があったらしいという、噂を耳にした。」「驚いて、上海に支局を持つ、朝日や読売や同盟など、」「各社に電話を入れてみた。」「どの社も、全然知らぬ、聞いたことも見たこともないという。」「おそらく敵さんの、例の宣伝工作だろうというのが、」「オチだった。」

 3. 橋本登美三郎 朝日新聞上海支局次長 (元自民党幹事長)

  「南京事件ねえ。」「全然聞いていない。」「もしあれば、記者の間で、話に出るはずだ。」「記者は、少しでも記事になりそうなことは、」「互いに話するし・・」「それが、仕事だからね。」「朝日新聞では、現地記者ばかり集めて、」「座談会もやったが、あったのなら、」「そんな話がでるはずだ。」

 4. 足立和夫  朝日新聞南京特派員

  「私は、南京大虐殺なんて、見ていません。」「 (そして氏は、虐殺の目撃者として名乗り出ていた、同社の今井正剛記者については、こう語った。)」

  「あれは、自分で見て、記事を書く人でなかった。」「人から聞いたことを、脚色するのがうまかった。」

 5. 森山喬 朝日新聞南京特派員 今井正剛記者と南京で共に取材していた。

  「そんな話は、ついぞ聞いたことがない。」

 6. 佐藤振寿 東京日日新聞カメラマン

  「虐殺は、見ていません。」「虐殺があったと言われますが、」「16、7日頃になると、小さい通りだけでなく、」「大通りにも店が出ました。」「また、多くの中国人が、日の丸の腕章をつけて、」「日本兵の所に集まっていましたから、」「とても残虐な殺しがあったとは、信じられません。」

    「南京事件について聞いたのは、戦後です。」「アメリカ軍が来てからですが、」「昭和21年か、22年頃だったと思います。」「NHKに、真相箱という番組があって、」「それで、南京事件があったと知りました。」「その放送を聞いた時が、初めてだったと思います。」

 記者たちの証言は、まだ続きますが、省略します。120名以上南京にいたのですから、彼らの話が、一番の証言となるはずですが、田中氏の説明によりますと、東京裁判で、ウエッブ裁判長とキーナン首席検事は、彼らの証言を受けつけなかったそうです。

 マッカーサーがマスコミの統制をしていましたので、新聞もラジオも、彼らの証言を報道することは許されませんでした。そうしてみますと、今井氏の話はすっかり逆になります。

 「日本が情報統制をしていたため、国民が知らなかった。」というのでなく、マッカーサーが記者たちの証言を許可しなかったのです。

 南京を訪れていたのは、報道陣だけでなく、大宅壮一、木村毅、杉山平助、野依秀一、西条八十、草野心平、林芙美子、石川達三といった、著名な評論家、詩人、作家がいました。GHQという権力の前で口をつぐんだのは、無理もないと思いますが、日本が独立して以後も黙っているのが残念です。

 こういうところから、戦後日本の歪みが生まれているのだと思います。彼らが事実を語らないから、その後学者たちが次のように対立し、「南京事件」を国民の間に広がらせています。参考までに、転記しておきます。

  1. 大虐殺派・虐殺肯定派

    家永三郎   井上久士   小野賢二   江口圭一   笠原十九司

   高崎隆治   姫田光義    藤原彰   洞富雄    本多勝一

   吉田裕    渡辺春巳

   2. まぼろし派・虐殺否定派

   松尾一郎   阿羅健一   藤岡寛次   黄文雄    鈴木明

   石平     田中正明   富澤繁信   東中野修道  藤岡信勝

   水間政憲   山本七平   渡部昇一   百田尚樹

  3. 中間派

    板倉由明   北村稔    櫻井よしこ  中村    秦郁彦
 
    原剛     山本昌弘

 私はこのブログを、GHQやアメリカへの非難として書いているのではありません。日本の中にいて、日本を貶めている反日・左翼の人間たちへの批判です。いわば、彼らは戦後利得者であり、自分たちの利益団体を守るため活動しています。私たちがやるべきことは、3つです。

    1.    反日・左翼の政治家を落選させること。自民党内の自称リベラルも同様。

            2. 反日・左翼マスコミ新聞を買わないこと。テレビを見ないこと。

    3.   スポンサー企業の製品を、買わないこと。

 これだけでも、日本は変わります。

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『中国との戦い』 - 8 ( 南京事件・今井氏の誤解 )

2021-11-15 22:10:51 | 徒然の記

 106ページに、「南京占領」と言うタイトルで、占領時の状況が説明されています。

 「昭和12年の11月13日、朝になって場内の中国軍はほとんど逃げ去り、」「その後へ日本軍が入城し、残敵の掃討に当った。」

 氏はここで、戦車隊長・藤田実彦少佐の著作『戦車戦記』の一節を紹介しています。

 「歩兵隊の主力が、中華門から南京城に続々入場した時、」「付近の城壁上には、敵兵は一兵も姿がなく、」「雪崩撃って進撃する歩兵たちは、必ず城壁に登り、バンザイを叫んでいた。」

 「どの部隊にも、白い木綿の布で包んだ戦友の遺骨を、首から胸にかけている兵を見た。」「彼らは戦友の遺骨を、頭上高く掲げ、バンザイを叫んだ。」「その目には涙が光り、震える声で、バンザイを叫んでいる兵もいた。」

 氏はもう一人、南京攻略戦に参加した佐々木至一少将の著作、『南京攻略記』の一部も紹介しています。

 「守将が逃げた後に残された支那兵ほど、惨めな存在はないのである。」「彼らにはもはや退路がなかったので、死に物狂いで抵抗した。」

 「敗残兵といえども、なお伏して狙撃を続ける者がいた。」「抵抗する者、従順の態度を失する者は、容赦なく殺戮した。」「終日各所に、銃声が聞こえた。」

 「骸骨となった家屋の焼け跡で、各所で盛んに火勢が上がっている。」「住民は、一人も顔を見せない。」「痩せ犬だけが、無表情に歩いたり寝そべったりしているのである。」

 そして次の叙述に、私は驚きました。

 「戦後の国民はもちろん知らなかったが、南京占領当時の日本軍の行動は、」「南京虐殺事件として、早くも世界に伝えられ、」「伝統ある名誉を大いに傷つけた。」

 「事件の全容については不明の点が多いが、市民の被害は、」「死者一万数千人以上という者もあり、」「家屋の破壊、放火、略奪、暴行などが行われた。」「中国側が戦後発表した資料によると、数十万もの市民が殺されたことになっているが、」「これは正規戦闘よる戦死や、掃討戦による便衣隊の死亡も加えられているようである。」

 「日清・日露戦争当時に比較して、道義心が低下していたことは事実であった。」

 「戦争中は国内での報道が禁止され、国民は戦後になって初めてこれを知った訳であるが、」「戦争に伴って起きた、呪うべき非情な事実は事実として、」「深く反省しなければならない。」

 3年前の 1月に、田中正明氏の著書『南京事件の総括』を私は読みました。松井石根(まつい いわね)陸軍大将は、南京占領時のトップにいたため事件の責任を問われ、東京裁判 ( 極東国際軍事裁判 )で死刑判決を受け、処刑されました。

 一度ブログで取り上げましたが、今井氏の説明を読み、再度言及することにしました。著者の田中氏は松井石根大将の秘書を務め、大将と蒋介石の会談に同席した経歴の持ち主です。

 蒋介石の中国軍を撃滅すべしという、強硬論が大勢を占める中で、むしろ松井大将は、中国との連携が大事と考える少数派の軍人でした。蒋介石との連携による「アジア保全の構想」を持つ大将は、蒋介石との親交もありました。

 昭和3年に張作霖爆殺事件が勃発した時、首謀者である関東軍河本大佐の厳罰を要求しました。このため若手の将校の間では、頑固者扱され、敬遠する声も多かったと言われています。重複しますが、田中氏の著書から、引用します。

 「昭和13年 (1938年) 1月16日、近衛文麿首相の、」「蒋介石を相手とせず宣言 ( 近衛声明 )で、すべてが終わった。」「松井は、軍中央から中国寄りと見られ、考え方の相違から更迭され、」「2月21日に上海を離れて帰国し、予備役となった。」

 「3月に帰国し、静岡県熱海市伊豆山に滞在中に、」「日中両兵士の犠牲は、アジアにおける欧米諸国の植民地が、」「いずれ独立するための犠牲であったと考え、松井はその供養について思いを巡らせた。」

 「昭和15年(1940年)2月、日中戦争における日中双方の犠牲者を弔うため、」「熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建て、そこに住み込み、」「毎朝観音教を、あげていた。」

 松井大将を知る田中氏は、東京裁判で冤罪で処刑された大将の名誉を回復すると、心に誓います。GHQのいる間は本が出せないため我慢し、昭和62年に、氏が76才の時単行本で出版しています。私が読んだのは、死後の平成19年に、文庫本として再出版されたものでした。

 氏の著書『南京事件の総括』が出版されたのは、昭和62年と平成19年ですから、今井氏の著書が書かれた時は、まだ世に出ていません。氏が引用しているのは、下記二冊ですが、まずもって二冊の引用部分には、大虐殺のことが書かれていませんので、もし田中氏の著作を読んでいれば、今井氏の説明は変わっていたと思います。

  藤田実彦少佐の著作『戦車戦記』  佐々木至一少将の著作、『南京攻略記』

 田中氏の願いと、松井大将の冤罪を晴らすため、次回はもう一度「南京事件」の再確認をしたいと思います。皆様の「ねこ庭」へのご訪問をお待ちしています。

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『中国との戦い』 - 7 ( モグラ叩きのもぐら )

2021-11-15 12:31:10 | 徒然の記

 蒋介石や毛沢東と戦う日本軍について、列国はどのよう見ていたのか、123ページで氏が説明しています。

 「満州事変の最中に日本が脱退した国際連盟は、昭和12年9月に開会し、」「中国はその総会に、日中戦争問題を提起した。」「しかし連盟は、中国の無防備都市に対する日本軍の爆撃を、」「非難するにとどまった。」

 「同年12月にブルッセルで開かれた〈 9ヶ国国際条約会議 〉で、連盟は日中戦争に干渉しようとしたが、」「中国の期待する対日制裁決議は、成立しなかった。」

 しかしアメリカの対日姿勢は、満州事変以来悪化し、日中戦争突入後次第に深刻化していきます。

 ・昭和12年10月5日 ルーズベルト大統領がシカゴ演説で、日本とイタリアを侵略国と論難した。

 ・昭和13年6月   アメリカ国務相が声明を発表し、日本を「 9ヶ国条約」と「ケロッグ不戦条約」の違反者と断じた。

 イギリスは日中戦争の開戦当初は、不介入の態度を言明していましたが、上海・南京攻略中に、日本軍がイギリス大使の車を中国車と間違って射撃し負傷させた事件から、こじれました。さらにその後、南京に向かっていた米英軍の艦船を誤爆する事件が発生しました。

 「三カ月間の外交交渉の末、賠償金の支払いで解決したが、」「一度悪化した両国との感情のもつれは、」「もはや元に戻らなかった。」

 ・アメリカは、日中開戦当初から、政府所有船による日中向け「武器禁輸」を実施していた。

 ・昭和13年11月の、近衛総理の「東亜新秩序」の声明に対してアメリカは、直ちに「門戸開放原則」の厳守を申し入れた。

 ・昭和13年12月、 アメリカはイギリスとともに、蒋介石の「反日政策」を支援し、「援蒋借款」を与えた。

 ・昭和14年1月、国際連盟の名をもって、「援蒋決議」を採択した。

 アメリカとイギリスは、この時から蒋介石への本格的支援を開始し、これが後に日本軍を悩まし続ける「援蒋ルート」になります。反共のアメリカとイギリスは、共産党軍と戦う蒋介石を支援しつつ、同時に間接的な日本攻撃を始めました。

 一方で、共産党軍を率いる毛沢東は、コミンテルンに支援されています。

  「 1. 国共合作を推進すること。」

  「 2. 労働者・農民の武装化を進め、人民内の革命的勢力機構を打ち立てること。」

  「 3. 中国共産党が、革命の主導権を握ること。」

 三つの指示を受けた毛沢東は、抗日戦遂行への意思を堅くしています。

 「さらにアメリカは、昭和14年7月、突然日米通商条約の廃棄を通告してきた。」「これは日本にとって、まさしく青天の霹靂であった。」

 次第に悪化する米英との関係は、そのまま孤立する日本の姿を映し出します。誤爆問題に関し、イギリスとの交渉が難渋した理由を、氏が説明しています。

 「この頃日本が、日独伊三国協定を推進していた空気が、交渉を難航させる原因となっていたのである。」

 近衛内閣のブレーンの尾崎秀実が、政府の動きをゾルゲに伝え、毛沢東はコミンテルンから、日本の状況を知らされています。毛沢東の強気の背後に、この情報があると思えば、戦争の泥沼に引き摺り込まれていく日本の様子が、伝わってきます。

 「昭和12年末、中国大陸に派遣されていた日本の勢力は、」「すでに16師団にのぼり、50万人を超えている。」「戦えば必ず勝ち、多くの地を手中にしたのは確かだが、」「しかし実際には、鉄道沿線の大都市を連ねた〈点〉と〈線〉に限られ、」「常に中国軍のゲリラの脅威に、晒されていた。」

 氏の説明を読みますと、政府も軍も、楽観していないのだと分かりますが、事態は改善されません。

 「日本陸軍が仮想敵と考えていた、ソ連に対する戦備の充実はなかなか進まず、」「わずか5個師団を基幹とした関東軍は、四倍にのぼる優勢なソ連極東軍と、ソ連との国境で対峙していた。」「だから日本は、なるべく早く日中戦争を解決して、」「北方の不安を解消したいと、熱望していた。」

 日中戦争の解決を熱望していながら、近衛首相は「蒋介石を相手にせず」と声明を出し、軍部は徐州、広東、武漢を占領していきます。手薄になったソ連との国境で、ノモンハン事件が発生し、激しい戦闘が始まり、幸い外交交渉で停戦合意をしますが、紛争の火種が残ります。

 軍中央部では、戦争拡大派と不拡大派が激論を交わし、政府内では、森恪外務次官や松岡外相のような強気の人間と、幣原氏のような欧米協調路線の人物が、せめぎ合っています。本を読み、過去を知るほどに、大東亜戦争への評価の難しさを感じる私です。

 敗戦後、打ちのめされた日本を見て、戦前の軍や政府を断罪する反日学者たちへの疑問が、自然と湧いてきます。彼らは、アメリカ側の立場、中国側の立場、ソ連側の立場と、戦勝国の側に立ち、自分の国である日本を叩き続けます。マスコミも、彼らの日本批判と攻撃をそのまま報道します。

 戦後75年間このような状況が続いてきました。日本の国を思う保守の学者や、言論人の意見は、ほとんどマスコミが取り上げないため、国民には伝わりませんでした。「憲法改正」をできなくし、「皇室護持」をさせなくしているのは、今ではGHQでなく、日本の中にいる反日・左翼勢力です。もっと言えば、自民党の中にいるリベラル勢力です。

 私に対して、「文句があるのなら、アメリカへ行って言え。」と言う人がいますが、GHQもアメリカも過去の話です。現在の日本で、日本をダメにしているのは、日本人自身なのです。

 反日・左翼学者、 反日・左翼野党、 自民党内のリベラル議員、 反日・左翼マスコミ・・こういったいつものメンバーです。「モグラ叩きのもぐら」と、言いたくなるではありませんか。

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『中国との戦い』 - 6 ( 日本軍と中国軍と『持久戦論』 )

2021-11-13 17:14:17 | 徒然の記

 今井氏は、八路軍の紹介( 211ページ )で何を言いたかったのか。気になりますので、著作の中から、関連する部分を探してみました。

  1. 日本軍と中国軍の比較 ( 100ページ )  2. 毛沢東『持久戦論』続き ( 150ページ ) 

  何気なく読んでいましたので、もう一度転記してみます。

  〈 日本軍と中国軍の比較 〉 

  「わずか数日の滞在で、次の地点へ赴く日本軍兵士を、」「名残惜しく見送るのも、子供たちだ。」「列を離れて見送る子供を抱き上げ、別れを惜しむ兵士の姿など、」「まさに一服の図であろう。」

  「支那の兵士は、一体に鈍感で、ぼうとしているだけに、」「子供をあまり可愛がらないようである。」「うるさいと、本当に殴ったりするので、」「子供も怖がってあまり近寄らず、」「別れを惜しむなどということは、絶対にないそうだ。」

  「のみならず支那人は、好人不当兵 ( 良民は兵隊にならぬ ) と信じているために、」「敬して遠ざかり、軍隊が駐在すれば殆んど門戸をとざし、」「因縁の生ずるのを恐れて、子供も接近させないようにしているらしい。」

 おそらくこれは八路軍の説明でなく、地方に割拠し、互いに争っていた軍閥の兵士のことだろうと思われます。軍服を脱ぎ、小さな集団となって農村に入る八路軍の兵士は、やはり違っていたのかもしれません。

 日本軍の兵士が、子供たちを可愛がり、懐かれた事実を確認するのは、一つの安心であり救いでした。

  〈 毛沢東『持久戦論』続き 〉 

 「敵側は、中国の泥沼に落ち込んだ数十個師団の軍隊を、」「そこから、引き出すことができない。」「広範な遊撃戦と、人民の抗日運動とが、この大量の日本軍を疲労困憊させる。」「一方では兵を大量に消耗させ、また他方では、彼らの郷愁、厭戦の気分を反戦にまで発展させて、」「この軍隊を瓦解させるであろう。」

 昭和3年に出された毛沢東の『持久戦論』を初めて読みますが、中国の言う「情報戦」「神経戦」の走りであるような気がします。書が世に出された前年の昭和2年は、田中首相が東方会議を開催した年です。満蒙経営拡大論者の森恪外務次官が、強行な意見を述べていた時だと知れば、毛沢東の主張に、中国人の愛国心を認めずにおれません。

 「日本の中国における略奪は、絶対に成功しないとは言えないが、」「日本は資本が欠乏しているし、また遊撃隊に苦しめられているので、」「急速に、大掛かりに、成功することは不可能である。」

 「中国が独立国となるか、それとも植民地となり下がるかは、」「第一段階における大都市の喪失によって決まるのでなく、」「第二段階における、全民族の努力の程度によって決まる。」「この第二段階は、戦争全体のうちでは過渡的段階であり、」「また最も困難な時期でもあるが、しかしそれは、」「転換のための枢軸である。」

 日本にとって大東亜戦争の大義は、欧米列強とソ連の侵略から日本を守るための「自衛戦争」でした。朝鮮併合、満州国の独立と進展するにつれ、中国にはこれが、「日本の侵略」となります。

 私が知らなくてならないのは、三つの大義が衝突しているという事実でした。「日本の大義」、「毛沢東の大義」、「蒋介石の大義」です。三つの大義を引き起こした原点を辿れば、欧米列強によるアジアの植民地支配となりますが、この段階になりますと隠れてしまい、要因として意識されません。目につくのは、広大な中国に展開する日本軍の動きです。だから毛沢東が、国民に呼びかけます。

 「もし抗戦を維持し、統一戦線を堅持し、持久戦を堅持することができれば、」「中国はこの段階で、弱いものから強いものに変わっていくだけの力を、」「獲得するであろう。」

 先日のブログで、「中国共産党軍は弱いから、日本と正面切って戦えず、逃げ回っていただけではないか。」と、言いましたが、『持久戦論』を知った今、訂正しなくてなりません。彼らは、「弱いものから強いものに変わっていく力を獲得する」ための、努力をしていたのです。

 「中国抗戦の三幕劇では、全出演者の努力によって、」「最も精彩のある終幕が、見事に演出できるであろう。」

 毛沢東の『持久戦論』は、氏が紹介してくれた部分しか知りませんが、激しい戦争の中で「一筋の光」として、農村に展開する八路軍兵士の口を通じ、次第に中国国内に浸透していったのだと思います。

 次回は毛沢東と八路軍でなく、列強の中での日本についてご報告します。

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『中国との戦い』 - 5 ( 農事を手伝う兵士 )

2021-11-13 07:59:07 | 徒然の記

 今回は、北支方面軍・第二課に所属していた、北原竜雄氏の話から始めます。

 「昭和16年のことである。」「八路軍の小部隊が、上級機関の命令で、」「募兵工作を始めるという情報を掴んだ。」「私は八路軍の末端幹部と、連絡ルートを持っていた。」「彼らは平服を来て、こっそり北京にもやって来て、」「お茶を飲んだり、冗談を言い合ったりした。」「このようなルートを通じて、私は八路軍の募兵状況を観察する機会を得た。」

 詳しく書いてありませんが、氏の仕事は諜報活動で、簡単に言えばスパイだったのではないでしょうか。

 「指定された日に、指定された村へ、私は単身行ってみた。」「私については既に連絡済みらしく、大きな農家の家にいた八路軍の兵士たちは、」「特に私を警戒する風もなく、迎えてくれた。」「庭では、身体検査が始まった。」 

 せいぜい100人くらいだろうと聞いていたのに、庭に集まっている青年達は、150人ほどいて、前日から、近くの農家に泊まっている者もいたそうです。

 「身体検査は、身長や胸囲を測ったりしない。」「立って歩かせ、一度だけ大きな声を上げさせる。」「次に、簡単な体操をさせる。」「5キロの道を何十分で走れるかと、質問し、」「目と耳の具合を聞くだけである。」

 余計な描写をせず、事実だけを語っていますが、身体検査の情景が手にとるように浮かんできます。

 「次に一人一人について、ゲリラ戦や軍の手伝いをしたことがあるか、」「家庭の状況はどうかと、質問する。」「もし母親一人が残されるような場合、」「軍の手伝いをしてくれるのは歓迎するが、君はもうしばらく家に残って、」「お母さんと一緒に暮らしたまえ、などと諭される。」

 その他にも何らかの理由で、入隊を思いとどまらされる者が、3分1ほどいました。結局その日は、100人の青年が八路軍に参加することとなり、青年達の顔には喜びが溢れていました。

 簡単な入隊式が行われ、夕方から始まる学習や、翌日からの訓練の日課が示されます。それが済むと、古い兵士と新しい兵士が、夕暮れの中で軍旗を合唱します。

 「自分にとって、彼らは新しい〈 敵 〉なのに、訳のわからぬ、」「妙な感動が、私を襲った。」

 北原氏は日本軍の仕事をしているのに、八路軍の兵士たちへの敵意を失っています。こういう叙述を読まされますと、私も何か胸に迫るものがあります。

 「あれから24年経った今でも、私はその時の情景を、鮮やかに思い出すことができる。」「連日報道される、ベトコントの戦いを見るにつけ、」「私は、八路軍の精神的骨格の図太さについて、考えさせられる。」

 「あの日の農家の庭のように、少しの不自然さもなく、」「また、一時的な興奮によるものでもなく、」「ベトナムでも、〈 人民の軍隊 〉が作られているのだろう。」

 さらに氏は、「八路軍の行軍心得」の中身を紹介します。

  ・行軍中民家に宿泊するときは、自宅や故旧の家にきたような心やすさを抱くが良い。

  ・しかし農家は貧しくて忙しい。少しでも迷惑をかけてはいけない。

  ・食事を携帯するときでも、家人より豊かな食事をしてはいけない。

  ・ワラを借りて土間に寝なければならない。そのワラは翌朝、元通りの束にして返さなければならない。

  ・農繁期には、指揮者がよく状況を勘案して、許されるだけ農事を手伝わねばならない。

  ・戦争のため、損害を受けたを発見した場合は、できるだけ早く実情を調べ、上部機関に報告しなければならない。

  「ざっとこのような内容で、それが実に守られていた。」「人民の気質を、人民の軍隊が守るのは当然ですと、」「ある八路軍幹部が、私に語ったことがある。」「形式や外観を飾ることをしない八路軍は、」「歴史上に初めて生まれた、新しいタイプの軍隊だと、私は思った。」

 八路軍の募兵の、基本的なやり方も説明しています。

  ・一組10人くらいの兵士が、五組ほど平服を着て、農村へ散らばっていく。

  ・兵士たちは村に入ると、農事を手伝う。

  ・手伝いながら、戦争の状況をわかりやすく説明する。

  ・敵の兵力が強化されているから、こちらも兵隊を増やさねばならない。

  ・我々の部隊に参加したいものは、〇〇日、〇〇場所に集まってくれ。

  ・軍隊生活の規則はこれこれで、応募の条件はこれこれだと、三泊四日の間兵隊たちは村々の人たちに説明する。

  ・説明と訴えが終わると、兵隊たちはお礼を言って帰っていく。

 これが八路軍、現在の人民解放軍の原点です。日本の徴兵検査とは、大きな違いがありますし、他の国々の募兵方法とも違っているのだろうと思います。

 今井氏が、論評なしで北原氏の談話を紹介していますので、八路軍の特異性を伝えたいのか、日本軍との比較で何か言いたいのか。意図が掴めません。日本軍は現地人に愛されなかったが、八路軍は農民たち愛されていると、そんなことが言いたいのでしょうか。

 農作業を手伝った八路軍が、今では国民を弾圧する軍隊となり、天安門で若者を戦車で轢き殺します。一方で日本の軍隊は自衛隊という名前に変わり、尖閣の領海を侵犯されても、竹島を不法に占拠されても、黙って見ている集団となってしまいました。日本軍の少佐で、のちに少将となった今井氏は、そんなことが言いたかったのでしょうか。

 氏は、人間を武器として使い、国家のため一億人を消耗しても構わないという、毛沢東の『持久戦論』の紹介もしていました。

〈 持久戦論 〉

  ・戦争の勝利を得るのは、正規軍による戦闘だけではない。

  ・一般大衆を立ち上がらせ、これと組んでゲリラ戦をやることが極めて重要だ。

  ・人間そのものが武器であり、中国には億単位の武器がある。

  ・最終的には、中国の「人民ゲリラ戦」が必ず勝利を収める。

 頑迷な反共の軍人でないということは伺えますが、何を私たちに伝えようとしているのか、よく分かりません。分からないことは無理に理解しようとせず、いつか分かる日が来るだと、このままにしておくしかないのかもしれません。

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『中国との戦い』 - 4 ( 毛沢東の八路軍 )

2021-11-12 08:08:45 | 徒然の記

 210ページで、今井氏が軍人として、日本軍の弱点を語っています。

 「日本軍は、元々ソ連軍を仮想敵国として訓練を受け、」「速戦速決の決戦戦法を重んじ、正規戦に長じていたが、」「八路軍のゲリラ戦には、必ずしも適していなかった。」「装備の点で八路軍は、日本軍に劣っているが、」「何より有利な点は、どこの土地へ行っても自国の地であり、」「一般民衆も、自国民であるということだった。」

 「この捉えどころのないゲリラ戦に慣れない日本軍は、」「情報を得て討伐に行けば、敵影が無く、」「いくたび占領・占拠を繰り返しても、終局的な勝利につながらず、」「一つの作戦が、また次の作戦を生む結果となった。」

 私は軍人でありませんが、日本人の手による戦争の記述に、疑問を抱いていました。「敵を駆逐し〇〇を占領した」、「〇〇を陥落させた」、「〇〇を落とした」と、連戦連勝の書き振りですが、そのほとんどが、逃亡した敵が捨てた都市や陣地です。主力を撃滅させられず、敵はとっくに逃げています。

 広大な中国戦線で、日本は単に点としての場所を一時的に確保するだけで、時間が経過すると、中国軍は大挙して反撃してきます。ゲリラ戦だけでなく、中国軍の戦法そのものが、「引いては押し返す」戦いで、「速戦速決」でなく、最初から持久戦です。退却しても彼らは、敗北と考えておらず、兵士の消耗も恐れていません。時間をかけて取り返せば良いというのですから、発想が違います。

 毛沢東のゲリラ戦は、さらに徹底し、兵士だけでなく、土地の住民も戦闘要員に組み込んでいますから、無尽蔵な武器を持っていることになります。こうした戦い方が可能なのは、広い国土と多くの人口を持つ大国にしかできません。つまり、中国、ロシア、アメリカの三国です。

 中国の撃滅にそんなに長い時間を要しないと、日中戦争を決断した関東軍と朝鮮軍の将軍たちは、大陸での戦争の困難さをまだ気づかなかったのだと思います。今井氏がこの点につき述べていますので、関心を持って読みました。中国の人民解放軍が、昔は「八路軍」と呼ばれていたことも、合わせて思い出しました。兵卒として満州行った父や、叔父たちは、思い出話をするとき「八路軍」と言っていました。

 次の叙述は、八路軍の戦法に悩ませられた日本軍を語っています。

 「日本軍は常に兵力を集中させ、中国軍の拠点に向かい、」「正面攻撃を敢行するのだが、八路軍はこれに正面から衝突せず、」「常に分散して、日本軍の側面へ、或いは後方へと回ってくる。」「この分散作戦に対して、日本軍が小部隊編成で攻めれば、」「今度は主力を集中して、包囲・殲滅作戦に出てくるという具合だった。」

 日本軍は初めのうち、ゲリラ戦の価値を十分認識せず、軽視しがちだったと言います。ここで氏は、八路軍に詳しい北原竜雄氏の話を紹介しています。

 「昭和13年の暮れから約5年間、私は八路軍の観察をしたことがある。」「陸軍参謀本部からの依頼を受けて、北支方面軍の第二課に属した。」「私は軍人でなかったから、第二課の側面機関の一員だった。」「ここには私のような仕事をするものが、常時150人ほどいた。」

 「私が特に中共軍の研究を委嘱された理由は、かって明治から大正にかけて、」「社会主義運動にちょっと関係した経験を持っているからだった。」「マルクスを読み、大衆運動に参加した経験のない者には、」「中国共産党の戦術・戦略は、理解できないということを、」「軍の首脳部も知り始めていた。」

 北原氏の話はまだ続きますが、今井氏が結論だけを先に語ります。

 「しかし日本軍の首脳は、前後8年間も中国大陸で戦争しながら、」「ついに、ゲリラの本質を知らずに終わった。」「また、知ろうともしなかった。」

 この時の今井氏は少佐ですが、終戦前には少将となり、現地での終戦処理に当たっています。そういう氏であっても、軍首脳の頭の切り替えができなかったという事実を知りました。バルチック艦隊を全滅させた東郷元帥は、軍神と言われた人物ですが、航空機が出現した以降の海軍において、航空機の価値を認めず、巨艦主義でしか考えなかったと聞きます。

 巨艦が海戦を制するという固定観念が捨てられず、航空機を活用する近代戦への理解ができなかったそうです。輝かしい武勲を立てるほど、軍人は頑迷になり、人の意見を聞かなくなるという例でした。こういう指導者が沢山いて、今井氏や北原氏の意見を、まともに取り上げなかったのでしょうか。

 私にはなんの武勲もありませんが、それでも年をとるほどに頑固になっているので、他人事ではありません。次回は、北原氏が語る、八路軍の凄さをお伝えします。人民と共に戦う、人民のための軍人たちで、農民や労働者たちから尊敬されています。

 その八路軍が、今では中国国民を弾圧し、言論の自由も人権も無視し、党の独裁政治を支えているのですから、ままにならない世の流れが見えます。自民党でも、中国共産党でも、ここには変わらない法則があると教えられます。

 「長期政権は、腐敗する。」「淀んだ水は、腐敗する。」

 おそらく、人間がある限りついてまわる課題でしょうから、これには言及せず、次回は北原氏の「八路軍研究」について、ご報告いたします。

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『中国との戦い』 - 3 ( 日本政府と蒋介石・毛沢東 )

2021-11-11 18:00:00 | 徒然の記

 組閣後わずか1ヶ月で、盧溝橋事件( 昭和12年 )に遭遇したのが近衛内閣でした。そのまま氏の著書を転記します。

 「近衛内閣は閣議ののち、〈  政府は重大決意の上、華北派兵のための措置を行う。〉」「と声明を出し、国民の協力を求め、」「事件を〈  北支事変  〉、呼ぶことに決定した。」「するとその直後に、現地から、日中停戦協定成立の報告があったので、」「3個師団の動員は、延期することとなった。」

 ところが閣議における動員の決定が、なぜかたちまち中国全土に伝わり、中国側の態度を硬化させてしまいます。まず蒋介石が、民衆をあげて徹底抗戦するという談話を発表しました。不拡大方針で事件の解決に動いていた、冀祭(きさつ)政権の首脳もこれに追随する態度を取り、現地日本軍の交渉が再び困難になりました。

 日本軍の中で、拡大派と不拡大派が激論を戦わせている一方で、蒋介石もまた、国内の共産党勢力と戦っていました。共産党は日本と蒋介石に共通する敵ですから、現地日本軍首脳は、蒋介石と妥協したり、戦ったりしています。詳しい事情を知るほどに、戦後の左翼学者の単純化した説明の粗雑さが見えてきました。

 蒋介石は、国民政府の中から共産党勢力を追放し、その後「中共軍討伐戦」を4度も行い、彼らを四川省から陝西省へと追い詰めて行きました。10万の軍を率いる中共のトップに立った毛沢東が、有名な「八・一宣言」( 昭和10年) を出したのはこの頃でした。

 話が飛びますが、中国共産党の発展に注目したコミンテルンが、大正15 ( 1926 ) 年に、毛沢東に次のような指示を出しています。

  ・「国共合作」を推進すること。

  ・労働者・農民の武装化を進め、人民内の革命的勢力機構を打ち立てること。

  ・中国共産党が、革命の主導権を握ること。

 コミンテルンの指示は、毛沢東の率いる中国共産党に、はかり知れない励ましを与えたと言いますから、下記「八・一宣言」はこの線に沿って出されています。45ページの、氏の叙述から転記します。

  ・中国は今や抗日しなければ、民族が滅びるほかはない。

  ・あらゆる政党・政権は、政見や利害にどのような不一致があろうとも、一切の内戦を停止し、抗日連合軍を組織せよ。

  「毛沢東はこのように呼びかけ、最も敵視し、最後まで協調しようとしなかった、」「国民党をはじめ、各党各層に向って、抗日戦に同調するよう、」「活発に要求したのである。」

 先に中国国内から共産党勢力を駆逐し、その後抗日戦をするという蒋介石に対し、毛沢東は、日本軍を絶滅させる方が優先すると主張します。毛沢東は後にソ連共産党と仲違いしますが、当時は信奉者ですから、コミンテルンの指示を守っていたと思われます。

 昭和16年から17年にかけて、ソ連のスパイだったゾルゲと尾崎秀実が逮捕され、死刑になりますが、尾崎秀実は昭和12年から、近衛内閣のブレーンとなっています。そうなれば日本の重要政策は尾崎を通じ、ゾルゲに伝えられ、コミンテルンに届いていることになります。コミンテルンは、毛沢東に日本の動きを知らせているはずですから、すでにこの頃から、日本は大東亜戦争の泥沼に引き摺り込まれていることが分かります。

 「負けると分かっている戦争に、軍人たちが走った。」「無謀な戦争に、国民を駆り立てた政治家たちの責任を問うべきである。」という、戦後の学者や評論家の意見には、やはり馴染めないものがあります。

 「日本が戦争をやめようと思っても、火つけ強盗が火事を起こすから、引きずられてしまった。」

 正確には覚えていませんが、林房雄氏が、著書の中でそのようなことを述べていました。コミンテルン、毛沢東、そして蒋介石を支援する米英の反日勢などが動き、日本はすでに、抜けるに抜けられない戦争に引き摺り込まれていたと言えます。単純な図式にすれば、蒋介石と日本政府は、世界の資本主義勢力と共産党勢力の代理戦争をさせられていたという、一面が見えます。

 昭和13年の5月に、毛沢東が発表した『持久戦論』の背景には、複雑な国際情勢だけでなく、コミンテルンからの情報があったのではないでしょうか、

 〈 持久戦論 〉

  ・戦争の勝利を得るのは、正規軍による戦闘だけではない。

  ・一般大衆を立ち上がらせ、これと組んでゲリラ戦をやることが極めて重要だ。

  ・人間そのものが武器であり、中国には億単位の武器がある。

  ・最終的には、中国の「人民ゲリラ戦」が必ず勝利を収める。

 当時の中国の人口がおよそ13億人で、毛沢東は、一億人の人間を武器として消耗しても、国のためなら当然だと、考えていたと言われています。日本の人口が、7千万人くらいの時ですから、この点だけでも日本と毛沢東の物差しは違っています。 

 次回は、氏の著書から、毛沢東の共産党についてもう少し拾ってみます。

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