ねこ庭の独り言

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『太平洋戦争 - 上』 -9 ( 学者もする、「説明しない自由」の例 )

2021-11-28 08:47:16 | 徒然の記

 113ページからは、日米開戦前の重要な事実が二つ述べられています。

  1. 日本の秘密電報が、アメリカに傍受され、解読されていたこと。

  2. 駐米日本大使館が、本国から受け取った対米最後通牒を、指定された時間に渡さなかった大失態があったこと。

 この二つの事実から、「アメリカを騙し打ちにした、卑怯な日本」と言うプロパガンダが作られ、「真珠湾を忘れるな ! 」と言う、米国民の怒りと憎しみが生まれました。現在では事実の背景が明らかになっていますが、多くの国民は知りません。

 「日本だけが間違っていた。」「日本だけが、悪い国だった。」と、終戦の日が来るたび、日本のマスコミがこのような報道を全国に溢れさせ、上記二つについては、何も伝えないからです。

 113ぺージに書かれているのは、野村大使がハル長官と交渉をしている時の有り様です。

 「ハル長官の手には、日本の開戦決意を示す電報が握られていた。」「その電報は、東京からベルリンの大島大使に宛てた、秘密電報である」

 「武力衝突により、日米戦争突発の危険があることを、」「ヒトラーとリッペンドルフに、秘密裏に伝えられたい。」「戦争の開始は、意外に早いかもしれない。」

 電報の内容はこのようなものでしたが、当然のことながらハル長官は、知っているとはおくびにも出しませんでした。しかし大事なのは、次の叙述です。

 「この電報ばかりでなく、日本の秘密電報はことごとくアメリカに傍受され、解読されていた。」「暗号解読機は、ワシントンの陸海軍省に一台、フィリピンに一台、」「英国に一台備えられていたのである。」「この解読された電報は、アメリカ高官の10名だけに配布された。」

 「ルーズベルト大統領、国務長官、陸軍長官、海軍長官、陸軍参謀総長、海軍作戦部長、陸海軍作戦計画部長、陸海軍情報部長などである。」

 118ページには、真珠湾に向けて秘密裏に出発した日本艦隊と、東京との交信の様子が詳細に叙述されています。もし真珠湾にアメリカの艦隊がいなかったらどうすべきか、真珠湾で確認された戦艦名など、電報が全て傍受されていました。

 ここまでの事実を述べながら、氏はルーズベルト大統領を擁護する説明をします。

 「日本からの最後通牒の電文は、日本時間の12月7日2時ごろ、日本大使館に届いた。」「それは同時にアメリカ側にも傍受され、解読が進められた。」

 日本時間の12月7日2時ごろというのは、アメリカ時間では、12月6日午前10時頃になります。氏の説明によりますと、ルーズベルト大統領は、12月6日午後9時半に電文を受け取り、叫んだと言います。

 「これは戦争だ ! 」

 氏の説明の間違いを、指摘できる人は沢山いるだろうと思います。ルーズベルト大統領は、12月6日午後9時半に電文を受け取り、初めて真珠湾攻撃を知ったのでなく、ずっと以前から知っていました。国民に知らせなかったのは、不意打ち攻撃を受けたことにすれば、戦争に反対しているアメリカの世論を戦争へと誘導できるからでした。

 大統領は、日本の攻撃を知りながら、真珠湾の艦隊を避難させず、日本の攻撃に晒しました。氏が著作を書いた昭和41年当時、こうした事実が明らかになっていたのかどうか知りませんが、それにしても理屈に合わない文章です。

 アメリカが秘密電報を解読しているとも知らず、日本は電波を発信していた、何と愚かな日本かと、氏の説明は暗に自分の国の指導者たちを蔑視しています。ここまで述べるのなら、真珠湾攻撃を大統領がとっくに知っていて、何も対策を取らなかった事実にも言及すべきでしょう。

 「国民に対しては、ABC包囲網が日本を囲い、」「経済的にも軍事的にも絞め殺そうとしいてると、敵対心を煽る宣伝をしながら、」と、近衛首相を批判するのなら、ルーズベルト大統領にも同じ批判ができます。

 「国民に対しては、〈卑怯な日本の不意打ち〉と、敵対心を煽る宣伝をしながら、」「大統領は、真珠湾に停泊する艦船と軍人を見殺しにした」と、なぜ批判しないのでしょう。

 今一つは、日本大使館の大失態事件です。

 朝日新聞が「慰安婦問題」の捏造記事を報道して以来、少女を慰みものにした日本軍として、世界の国々から批判と攻撃を受けましたが、日本大使館の大失態は、これに劣らない国辱事件です。彼らが本国の指令通りに最後通牒を届けていたら、「リメンバー・パールハーバー」の大合唱はなかったのです。126ページから、転記します。

 「アメリカ側が、既に解読を終えた最後の電報を、」「日本大使館が見つけたのは、その翌朝であった。」「9時頃登庁してきた、実松海軍武官補佐官が、」「郵便受けの蓋もできないほど、配達電信で詰まっているのを発見したのである。」「実松はすぐさま電信文を仕分けしたが、事務所にはまだ誰も来ていない。」

 「9時半ごろになって、館員がようやくやって来て解読にかかった。」「ところが解読したものをタイプに打つため、机に向かったのは、奥村書記官一人だけだった。」

 「この14通の覚書は、東京からの指令で、」「奥村以外のタイピストが、絶対に扱ってならないことになっていた。」

 「これが、最後通牒の手交時間を遅らせた原因になってしまったのだが、」「まさに外務省員の常識を超えたものだった。」「局面が窮迫した場合には、館員中の3名は夜勤をさせ、」「刻々送られる電文を徹夜で解読し、重要なものは夜中であろうと、」「閲読に回すのが、外交官の長い間訓育されて来たところであるはずだった。」

 こうして野村大使が、ハル長官に最後通牒を手渡したのは、本国の指令した時間を1時間20分遅れた、午後2時20分で真珠湾攻撃後50分が経過していました。氏の説明はここで終わっていますが、もう一つの情報をお伝えします。

 平成27年に、故渡部昇一氏が「本当のことが分かる昭和史」というシリーズの講義で、次のように語っています。長くなりますので、文章でなく、項目で列挙します。

  ・現地時間で昭和16年12月6日の朝、東郷茂徳外務大臣から駐米日本大使館に宛てて、「対米覚書を発信するので明日、本国からの訓令十四部が届き次第、アメリカ政府にいつでも手渡せるよう準備するように」、と命じる電報が届いた。

  ・ところが6日夜は、戦後に『昭和天皇独白録』を書いたことで知られる、寺崎英成一等書記官の送別会があり、大使館員たちは出払っていた。

  ・翌朝7時に最後の十四部が届いたが、大使館員は出勤しておらず、膨大な電報が届いているのを見つけた、海軍の実松武官補佐官が大使館員に連絡した。

  ・日本大使館には、最後通告をワシントン時間の12月7日午後零時半(日本時間の12月8日午前2時半)にアメリカ政府に渡すよう命令があった。

  ・そのあとで、30分繰り下げて午後1時に、アメリカ政府に渡すように変更指示がなされた。ハル長官に1時に会ってもらうアポイントを取った。

       ・暗号解読とタイプが間に合わないため、彼らは、とんでもない判断を下した。

  ・ハル長官に電話をかけて、独断で「面会時間を延ばしてほしい」と頼んだ。

  ・野村吉三郎大使と来栖三郎特命全権大使が、最後通告をハル長官に手渡したのは、1時間20分遅れの2時20分だった。

 平成時代になり、渡辺氏が初めて言い出したという話でなく、東京裁判の時から、東郷外相が、大使館員の不手際を責める証言をしていたと言いますから、危機感のない前夜の送別会を、大畑氏が知らないとは思えません。「報道しない自由」を駆使し、マスコミが世論を誘導するのと同じように、大学教授も、「説明しない自由」を使い、正しい事実を学生に伝えないことが、これで分かります。「学者が作る歴史」・・の見本でもあります。

 書評はまだ126ページで、前途遼遠です。

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