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岡田啓介回顧録 - 2 ( 陸軍だけが悪者なのか ? )

2017-06-28 16:12:05 | 徒然の記

  張作霖爆殺事件についての叙述は、日本史そのものと言えます。当時の内閣、首相、陸軍、天皇が、どれほど真剣に対応したのか、どうして軍に押し切られたのか、一般庶民の知ることのできない内情が語られています。

 「事件の黒幕は、今では誰でも知っているとおり、」「関東軍の参謀、河本大作大佐だった。」

   「張作霖が日本の多年の恩義を忘れて、反抗的態度をとっているのを怒り、張を除いて、満州の政治を一新しようと考えていたところ、たまたま張が、北京から帰奉するという報があったので、張を葬り、混乱に乗じて意中の人物を擁立し、満州の統治を左右しようと図ったわけだ。」

 「後で分かったことだが、この事件は、河本大佐だけの所業ではなかった。計画を発意したのは、関東軍司令官村岡長太郎中将で、河本は始め反対したが、のち単独で、全責任を負って決行したというわけだ。」

 当時は蒋介石と張作霖が戦争をしており、政府は戦いが満州に波及することを警戒していました。田中首相は、帰奉する張作霖を待ち、彼を相手に満州問題を解決しようとしていた矢先でした。白川陸将も、当初は日本人がやったことをなかなか信じようとせず、自らが密かに知らべやっと納得し、田中首相に報告しました。

 「張の爆殺は、政府に大変な衝撃を与えた。中国の戦乱に対する、政府のそれまでの方図は水の泡になってしまった。」

 当時の元老西園寺公望公も、大変心配し、田中首相を呼んで言い含めたそうです。

 「事件の真相をいくら日本人にだけ隠したところで、舞台は満州であり、満人はもちろん、欧米人にまでこれを秘密にすることは不可能だ。今のうちに、責任者を厳罰に処してしまえば、息子の学良も、親の仇を日本が討ってくれたと納得するだろうし、世界も日本の公正を認めることとなる。」

 「うやむやにすれば、必ず将来に禍根を残すこととなる。どんな反対があっても、実行するように。」

 田中首相はその意を体し、重大事を陛下に奏上するため参内しました。犯人が日本軍人らしいことと、軍法会議に付することを申し上げると、陛下からは「軍紀は特に厳重にするように」という、お言葉があったと書かれています。

  「ところが、陸軍の元帥以下が猛烈に反対する。軍法会議の開催は、とてもできない情勢になってきた。閣内でも、ほとんど反対していた。与党である政友会も、軍法会議の開催に反対していた。」

 「それで田中は、初めの志と違って途方に暮れ、村岡司令官、河本大佐などを、行政処分にすることで解決し、あとはうやむやにしようというものだった。」

 田中首相は先に参内した時、厳重に処罰しますと言った手前、陛下にそのことを報告しなければなりませんでした。参内し拝謁を賜り、上奏文を読み上げていますと、陛下の顔色が変わりました。このあとは、本の叙述を紹介します。

 「この前の言葉と、矛盾するではないか。田中が読み終わるや否や、陛下がおっしゃった。田中は恐れ入って、そのことについては、いろいろご説明申し上げますと、申し上げると、説明は聞く必要がないと奥へお入りになったそうだ。田中はうちしおれて帰ってきて、閣議の席でこのことを話した。」

 「田中は、政友会の連中に励まされて、あくまでご説明申し上げようと、再び参内した。その時の侍従長は鈴木貫太郎だったが、気の毒そうに、お取り次ぎはしますが、おそらく無駄でしようといった。田中は辞職を決意し、内閣総辞職をした。」

 「それ以来田中は、楽しまない日を送っているようだったが、間も無く世を去ってしまった。世間の一部では、自殺したんじゃないかと、噂するものもいたが、そうではない。」「

 「私は葬儀にも出たが、持病の心臓病が悪くなったためだ。こんなわけで陸軍は、張作霖爆殺事件をもみ消してしまったが、真相を知らない者は、そういなかっただろう。」

  田中首相が陛下に詰問され、恐懼して退出したという話は、いろいろな本で書かれていますから大体は分かっていましたが、ここまで具体的には知りませんでした。まして辞職後、間も無く首相が亡くなっていたというのは初耳でした。

 ここには、私の知りたかった戦前の日本があります。陛下と首相の関係が、どんなものであったのか。陛下は、臣下の意見をほとんど取り入れられるが、盲従する愚昧な方で無く、納得のいかない案件にはうなづかれないこと。それも明確な言葉のやり取りで無く、互いに気遣いながら、ことが進められている様子が分かりました。

 西洋諸国の合理主義と異なり、婉曲的なやりとりが中心です。今の言葉で言いますと、「忖度 ( そんたく)」なのでしょうか。

 元老はいつも国政を考え、総理を呼びつける力を持っていました。私の解釈は間違っているのかもしれませんが、戦後の主流となっている「軍部の独走」「陸軍の横暴」という言葉が、果たして正しいのかと、そんな気がしてきました。

 張作霖を爆殺したり、騒乱を自作自演したり、陸軍の謀略には感心しませんが、この時代は日本だけで無く、それ以上のことを諸外国がやっていました。首謀者である村岡司令官と河本大佐の処罰に反対していたのは、陸軍のトップだけでなく、内閣の諸大臣、与党の政友会だったと、氏が説明しています。

 当時の満州は、日本防衛の最前線であり、希望の開拓地でもあり、未開の荒野でもありました。満鉄では、右だけでなく、左翼社会主義者も加わり未来図を描き、日本中が沸き返っていました。

 当時のことを書いた他の本でも、日本人は、無数の大陸浪人を含め、他国の領土であることを忘れ、思い思いの夢を語っていました。反対意見をいう者に対し、刀を抜いて脅したり、ひどい時には斬り殺したり、そんな軍人の横暴さは許せないとしても、なにもかも陸軍だけが悪いと結論づけるのは、正しい見方でないと思えます。

 元老の西園寺公にしましても、第一に考慮したのが諸外国、とりわけ欧米の反応でした。満州統治を目指す日本のやり方が、途方もない暴挙だったら、公は頭から否定したはずです。しかし公が異を唱えたのは、軍部の拙速な手段で、満州の統治そのものではありませんでした。つまり当時の国際情勢には、日本の満州進出を頭から非難・攻撃する風潮がなかったということが伺えます。

 陸軍だけを悪者にし、責任を転化して、過去を済ませようとするのは、敗戦後の日本人の自己保存エゴだと、そう言わずにおれなくなります。軍人だけを悪者にし安心しているようでは、日本人魂がなくなっています。

 戦前と戦後の日本を断絶させたのは、占領軍による七年間の統治です。この占領期間の思想、思考、思潮などを、私たち自らが再検討し、国民の共有認識としなくては、日本の戦後が終わりません。

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