ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

ハウツウ中心の評論家

2022-01-01 19:18:15 | 徒然の記

 平成30年の12月に、ネットの動画で伊藤惇夫氏の意見を聞き、次のように書きました。

 「日本を愛する心もなく、信念のかけらもない、ハウツウ中心の評論家も、そのうち目覚めた国民から嫌悪され、消えていくはずです。」

 しかし令和3年の12月に、氏の講演記事を千葉日報が掲載しているのを見て、4年前の予想が外れ、氏が健在なのを知りました。『遠野物語』と『共同幻想論』の書評も大事ですが、伊藤氏の講演の批評も劣らない重要事です。この4年間、共同通信社を筆頭とするマスコミの体質が、いささかも変わっていないという事実の報告にもなります。

 「日本を愛する心がなく、信念のかけらもない、ハウツウ中心の評論家」とはどう言う人物なのか。再度氏の経歴を、紹介します。goo事務局から、「不適切表現」の警告を受けるのかもしれませんが、ここはぜひ「言論の自由」を尊重してもらいたいものです。

 「学習院大学卒業後、出版社へ就職した後、」「昭和48年、当時の田中総理に誘われ、」「自民党本部事務局に勤務。党では広報を担当し、」「平成元年からは、自民党政治改革事務局主査補として、」「政治改革大綱を取りまとめた。」

 「その後、自民党を退職し、」「平成6年末から、新進党総務局、平成8年12月から太陽党、平成10年1月に民政党、」「4月から、民主党の事務局に勤務。」「太陽党以後は、いずれも事務局長を務めた。」

 「新党の結成に、次々と立ち会ったことから、」「新党請負人の異名を持つ。」「平成13年、民主党を退職し、」「政治アナリストとして独立。」「執筆業の他、ニュース番組や、ワイドショーなどで、」「コメンテーターとして活動。」

 高給で雇ってくれるのなら、どこででも働く、「パート労働者」のような経歴です。こういう人物が、日本の歴史を変形させ、若者の思考を乱れさせます。私に言わせれば、「獅子身中の虫」ですが、このような人が金を稼ぐ格好の場所が、左傾マスコミの世界です。

 ついでなので、4年前のブログで紹介した氏の意見を、かいつまんで言いますと、「安倍総理の憲法改正は、単なる政権維持のためのポーズで、どこにも本気度はない。」・・と言うものでした。

 「憲法改正の発議をしたら、60日以内に国民投票をしなくてなりません。」「マスコミ各社の、世論調査のデータを見ても、」「改憲には、明らかに反対が多いのです。」「特に九条となれば、国民の抵抗が強い。」「国民投票で、ノーと出れば、」「内閣は、即時解散です。」

 柳田氏や吉本氏の話のような「分かりにくさ」が、どこにもなく、誰にでも聞き取れる普通の意見です。しかし同時に、日本という国を大切にする心が、どこにもない話です。

 「総理は、あと3年は、政治をやりたいと思っています。」「仮に国民投票で賛成を得て、」「改憲しますと、どうなりますか。」「やるべきことをやったのだから、総理を辞めたらどうですかと、」「周りから言われますと、辞めざるをえません。」

 「だから、安倍さんは、本気でやらない。」「やるとしたら、3年のギリギリの段階で、やるのではないでしょうか。」「私だったら、そうします。」「それまでは改憲を言い続けていないと、求心力が低下します。」「つまり、総理は、これを延命の武器にしていると、私は思います。」

 政治の世界を知り尽くした氏の言葉ですから、まんざら嘘ではないのでしょう。権謀術策の政界なら、こうした事実もあると思いますが、それが全てであるはずもありません。マスコミが安倍総理を集中攻撃していた時なので、氏の意見も、時流に乗っていました。ブログの世界では、庶民の意見がチェックされますが、マスコミに登場するハウツウ評論家はお咎めなしのようです。

 「憲法改正という、こんな大事な問題を、自分の政権の延命に使うのは、褒められた話ではありません。」「党内での議論も、十分せず、こんな総理のやり方はおかしいと、」「石破氏も言っています。」

 これが4年前の氏の意見でしたが、聞き終わると、不快感と憤りが残りました。このような観点からしか、総理の意見が語れない評論家の存在にも、失望しました。安部総理のことは別に置くとしても、国際社会における、日本独立の鍵が「憲法問題」にあることに触れず、日本の歴史とご先祖を否定する現行憲法について、氏は何も語りません。

 政治手法として、総理の延命策があるとしても、それがすべてであるように語り、国民に憲法問題を考えさせなくする評論家が、今の日本に必要なのでしょうか。まして氏の意見が、石破氏と同じというのでは、笑止千万ではありませんか。

 4年前のブログの紹介で終始し、令和3年12月24日の千葉日報の記事には触れずじまいになりました。ハウツウ評論家である氏が、どんなことを言い千葉県民を惑わせているかについては、次回といたします。

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『 共同幻想論 』 ( 分かりにくさの比較 )

2022-01-01 00:28:45 | 徒然の記

 『遠野物語』( 48ページ )と『遠野物語拾遺』( 119ページ )は、角川書店が出版した文庫本で、167ページの薄っぺらな本でしたが、読み終えるまで10日間かかりました。

『共同幻想論』は、河出書房新社が出した、立派な布装丁の単行本です。不動産屋の広告文と私が呼ぶ、よけいな解説がなく、吉本氏の文章だけが細かな文字で書かれ、257ページです。

 この本も分かりにくい文章なので、簡単に読み終わらないのでないかと思います。二冊の本の分かりにくさを、簡単に述べると、次の通りです。

  1. 『遠野物語』と『遠野物語拾遺』

   ・文章は平易ですが、書かれている内容が、何を伝えようとしているのか、理解できないという「分かりにくさ」

  2. 『共同幻想論』

   ・使われている言葉そのものに、著者の造語が多く馴染めないことと、著者独特の思考回路があり、理解に時間がかかるという「分かりにくさ」

 38ページまで読んだところで、この感想を書いています。kiyasumeさんは、氏を哲学者と呼んでいましたが、この「分かりにくい文章」は、なるほどそうです。「反日左翼」と決めつけない方が良いと、これもkiyasumeさんの忠告ですが、「社会主義リアリズム論」を批判しているところを見ますと、なるほどとうなづけます。

 「幻想」と言う言葉は、氏が独自に考案したもので、これを理解することが一つの鍵になります。氏の説明を簡単に述べてみますと、

  〈 全幻想領域 〉・・人間の思考全体

  1. 自己幻想 ・・芸術理論  文学理論

  2. 対幻想  ・・家族 セックス 男女関係

  3. 共同幻想 ・・政治 国家 法律 宗教

 氏はこの三つの幻想の内部構造と相互関係を考えると、世界の全てが理解できると主張しています。何年間かの思索と読書の積み重ねで得た、氏独特の思考体系ですから、簡単に分からなくて当然です。

 256~257ページが最終で、後記 ( あとがき ) となっていますが、興味深いことが書かれています。

 「私はここで依るべき原点を、初めから終わりまで、」「『遠野物語』と『古事記』の二つに限って論を進めた。」

 「また、当たりうる資料は、多ければ多いほど、」「正確な理解に近づくと言う考え方が、ありうるのを知っている。」「しかし私が選んだ方法は、この逆であった。」「方法的な考察にとっては、もっとも典型的な資料をはじめに選んで、」「どこまで多角的に、それだけを深く掘り下げうるかと言うことの方が、」「はるかに重要だと、思われたのである。」

 多角的に、深く掘り下げたとは思いませんが、 『遠野物語』は時間をかけて読みました。今となっては、この方法が適切だったような気がします。同じ本を読んでも、氏と同じであるはずがなく、どのような受け止め方をしているのかが、比較できます。

 1. 『遠野物語』

  ・原始的あるいは未開的な幻想の、現代的な修正の資料の一典型として読む。

   修正とは、その幻想が現代に伝承されていることからくる、必然的な修正

 2. 『古事記』

  ・種族の最古の神話的な資料の典型とみなす。

 分かったような、分からないような説明ですが、思考回路の異なる人の言葉なので、気にしません。次の文章で、私は意を強くしました。

 「『遠野物語』にも『古事記』にも、編者たちの問題意識の自然な表れとして、」「それぞれの方法が貫かれている。」「そしてこれらの方法は、私の問題意識とは違っているため、」「記載された内容について、重点の置き方が当然違っている。」

 「そのため引用に際しては、私の問題意識に沿って、」「要約や読解や、勝手な引用がなされた。」「ただし、改ざんされていることはない。」

 やはりそう言うことだったかと、納得しました。氏は編者の期待する解釈をせず、自分の問題意識に沿って解釈しています。それなら私が、自分の問題意識に沿い、別の解釈をしても許されるはずです。

 「私は終始、私にとって切実な課題が、」「私以外の人々にとって、切実でないはずがないし、」「私にとって現代的な課題が、私以外の人々にとって、」「現代的でないはずがない、と言う確信をいだいてきた。」「それがうまく、本書を読まれる人々に伝わってくれたらと、」「願うだけである。」

 哲学者や思想家と呼ばれる人たちには、このくらいの自信と気概が必要です。単なる学徒に過ぎない私でさえ、「私にとって切実な課題が、」「私以外の人々にとって、切実でないはずがない。」と、心の片隅で思っています。だからこうして飽きもせず、息子たちや「ねこ庭」を訪問される方々に向い、毎日ブログを綴っているとも言えます。

 12時を過ぎました。令和4年の元旦です。今年最初のブログになりました。

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