ねこ庭の独り言

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『 共同幻想論 』 - 7 ( 聖テレサと巫女の比較 )

2022-01-08 15:15:52 | 徒然の記

 98ページ、「巫女 ( みこ  ) 論 」を読んでいます。氏がこの本を書いたのは44才の時で、当時は自信に満ちた思索家だったことが伝わってきます。

 「ある種の ( 日本的な ) 作家や思想家は、よく西欧には一神教的な伝統があるが、」「日本には多神教的、或いは汎神教的な伝統しかないなどと、」「安っぽいことを流布しているが、もちろん、」「でたらめを言いふらしているだけである。」

 この文章を読み、私は例えようのない不快感を覚えました。常識と思われていることを辛辣な言葉で否定されると、若者は心を奪われます。権威と思われているものを、遠慮なく否定する氏が、痛快な代弁者に見えたりします。

 よく読めば、安っぽいのは氏の方で、でたらめを言いふらしている張本人も氏だとわかります。西欧に一神教の伝統と文化があり、日本には多神教の伝統と文化があるのは一つの事実ですし、日本の作家や思想家が、「日本には、汎神教的な伝統しかない」と、断定している意見を私は聞いたことがありません。

 もし、「日本には、汎神教的な伝統しかない」と断定する作家や思想家がいたとすれば、彼らは二流三流の人物で、少数派でしょう。本来の日本的作家や思想家は、そんなつまらない断定をしません。多神教と汎神教は根本から違っていますし、誰もがその区分を知っている訳でもありません。

 日本は八百万の神が存在する多神教の国ですが、汎神教の国ではありません。強いて汎神論を探せば、親鸞が説いた浄土真宗の教えの中にあります。

 こういう言葉遣いの粗雑さを見ていますと、私の心は、氏から離れていきます。何度も言いますが、博識な氏が、魂のない、知的遊戯を楽しんでいるのかと、思えてきます。続く文章をなどは、氏の才が、言葉の遊びで若者をたぶらかしているとしか思えなくなります。

 「一神教的か多神教的か、汎神教的かということは、」「フロイトやヤスパースなどが、よく使う概念で言えば、」「〈 文化圏 〉のある段階と、位相を象徴するものではあっても、」「それ自体は別に、宗教的風土の特質を表すものではない。」

 「〈 神 〉がフォイエルバッハが言うように、至上物に押しあげられた、自己意識の別名であっても、」「マルクスの言うように、物質の倒像であっても、この場合はどうでも良い。」

 フロイト、ヤスパース、フォイエルバッハから、マルクスまで出てきました。フォイエルバッハの言う、「至上物に押しあげられた自己意識」とは、何を言っているのか。息子たちのため、説明しておきます。

 「犬や猫や豚や馬は、神を拝まない。」「神を拝むのは、人間だけである。」「そして人間が拝んでいるのは、自分の中にあるものである。」「自分の中にないものは、信仰の対象にならない。」「つまり人間は自分の似姿を拝んでおり、それを神だと思っている。」

 学生時代に読んだ時の記憶ですが、キリスト教の世界においては、きっと画期的な、と言うより、衝撃的な意見だったのではないでしょうか。説明をしないままこうした哲学者の名前を、「巫女論」のなかで、わざわざ取り上げる必要性がどこにあるのでしょう。

 「僕にとってこの本は、現代社会を読み解くために必読の書だと思われた。」

 「眼の前のことに一喜一憂することなく、吉本隆明の言葉に取り組んでみては、どうだろう。」「抽象的に思える文章のなかに、意外なほど、現代へのヒントを見つけられるかもしれないのだから。」

 『共同幻想論』の読者の感想の一つですが、不思議な気持ちになります。この人物は、氏が「東京裁判の復讐判決」を肯定し、日本の歴史と文化を否定していると分かっているのでしょうか。

 たくさんの哲学者の名前を挙げた後、氏は続けます。

 「ただ神が、自己幻想か或いは共同幻想の象徴にしか過ぎないと言うことだけが、重要なのだ。」「人間は、文化の時代的状況の中で、言い換えれば、」「歴史的現存在を前提として、自己幻想と共同幻想に参加していくのである。」

 「歴史的現存在」「可能的現存在」とは、簡単に言いますと、「人間」のことです。カントが使った言葉だと記憶していますが、哲学書にはそれなりの哲学用語あるのですから、それを知らない人間が、氏を過大評価しているのではないでしょうか。

 「聖テレサの心的な融合体験が、『遠野物語拾遺』の〈 みこ 〉譚よりも、」「高度だと考えられる点は、少なくとも二つある。」「一つは、この〈 聖女 〉の性的な対幻想の対象である〈 神 〉は、」「極めて抽象化された次元に、存在することである。」「この〈 神 〉は、祭壇に祀られた実在の神像とは遥かに隔たった、」「抽象である。」

 聖テレサは、スペインのローマ・カトリック教会の尼僧であり、神秘体験者として有名で、修道院改革に尽力した殉教的人物です。

 「『遠野物語拾遺』の〈 巫女 〉は、託宣を受け取るため、」「数珠や呪詞や、オシラサマしかいらないとしても、」「そこに現れる〈 神仏 〉は、実在の観音像や堂内に祀られている仏像の模写を、それほど出ていない。」

 聖テレサの方が、日本の巫女より高度であると、氏は言いたいようです。二つ目については、文章は面倒なので箇条書きにします。

  ・聖テレサが自己喪失の状態で経験するのは、〈 恍惚 〉である。

  ・この恍惚状態は、自己性愛と共同性愛との二重性を含んでいる。

  ・巫女が自己喪失の状態で経験するのは、〈 面白さ 〉である。

  ・幻想の性的な対象が、〈 面白さ 〉しかないのは、未熟な対幻想に固有のものである。

 かって、イギリスの人類学者エドワード・タイラーは、多神教は一神教への発展中途にある信仰だと述べていました。時代遅れの説として、タイラーの意見は重要視されなくなっていますが、多神教より一神教を上位に置く、吉本氏の比較論を読んでいますと、タイラーを思い出します。

 「知の巨人」と言われていますが、こうなると私には、「単なる西洋かぶれ」の一人にしか見えません。読み進むほどに、自分の気持ちが離れていくとは、思ってもいませんでした。現在は100ページですから、後半に期待し、氏との接点を見つけたいと思います。

 〈  お詫びと訂正 〉 聖テレサを聖母マリアと勘違いしていましたので、取り急ぎ訂正しました。申し訳ありません。

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