ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『 共同幻想論 』 - 10 ( 先崎彰容氏の解説 )

2022-01-11 14:02:06 | 徒然の記

 ネットを検索していたら、興味深いものを見つけました。昨年の1月から12月にかけて、NHKが放送していた、『100分de名著』という番組の紹介です。

 「一度は読みたいと思いながらも、手に取ることをためらってしまったり、」「途中で挫折してしまった、古今東西の“名著”。」「この番組では、難解な1冊の名著を、25分×4回、つまり100分で読み解いていきます。」

 「プレゼン上手なゲストによる、わかりやすい解説に加え、」「アニメーション、イメージ映像、朗読などなど、あの手この手の演出を駆使して、」「奥深い“名著”の世界に迫ります。」

 「案内役は、タレントの伊集院光さんと、安部みちこアナウンサー。」「偉大な先人の教えから、困難な時代を生き延びるためのヒントを探っていきます!」

 番組を一度も見ませんでしたが、この中で吉本氏の『共同幻想論』が取り上げられていました。ゲストとして出演していた先崎彰容 (  せんざき あきなか ) 氏の言葉も、別の場所で見つけました。

 左傾のNHKが、大きく取り上げている名著だとすれば、この本を評価するには勇気がいります。「盲蛇に怖じず」というべきなのか、NHKの賞賛にかかわらず、私は自分の問題意識に沿って、『共同幻想論』を批評しました。

 今回はそんな私との比較で、先崎氏の解説を、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に報告したいと思います。賛成・反対が難しいという、微妙な状況が見えますので、どなたのコメントも期待しないようにいたします。

 私が先崎氏の意見を紹介する意味は、氏が長男と同じ年であるというところにあります。経歴を見ますと、氏は昭和50年生まれの46才、日大危機管理学部教授、日本の思想家です。

 まず、氏による『共同幻想論』の解説文を紹介します。

 「人間は、自分の創り出したフィクションである、共同幻想に対して、」「時に敬意を、時に親和を、そして時に恐怖を覚える。」

 「特に、原始的な宗教国家ではこれは顕著である。」「その共同体で、触れたら死ぬと言い伝えられている、呪術的な物体に触れたら、」「自分で本当に死ぬと思い込み、心的に自殺すると言う現象も起こりうる。」

 「個人主義の発達した現代でも、自己幻想は、」「愛国心やナショナリズムと言う形で、共同幻想に侵食されている。」「共同幻想の解体、自己幻想の共同幻想からの自立は、」「現在でも、ラジカルな本質的課題であると、吉本は指摘している。」

 こういう意見が出てくるのは、「東京裁判」を肯定する反日学者の思考です。氏の意見が、私の中では次のように変換されます。

 「個人の思考は、愛国心やナショナリズムと言う形をとった、国の思考に侵食されている。」

 先崎氏の頭の中では、愛国心やナショナリズムという言葉が、日本の軍国主義や侵略主義を否定した、東京裁判の判決文とそのまま重なり、良くないものとして記憶されていることが分かります。

 「吉本は、血縁・氏族的共同体(家族)が、」「地縁・部族的共同体(原始的な国家)に転化する結節点として、兄妹・姉弟の対幻想に着目している。」「兄妹・姉弟の対幻想は、夫婦の対幻想とは違って、」「肉体的な性交渉を伴わない対幻想なので、いくらでも無傷に空間的に拡大できる。」

 「兄妹・姉弟の対幻想が、他家との婚姻と言う形で空間的に拡大しているため、」「国民は心理的な一体感を共有し、幻想としての国家が成立するのである。」「逆に言えば、原始的な国家の成立は、」「兄妹・姉弟の近親相姦が、自覚的に禁止されたときに求められる。」

 確かに氏は、このような意見を述べています。ここで想定されている国家は、現在のように、何百万、何千万という人間がいる大きな国ではありません。せいぜい何百人かの単位の、村落か集落の規模です。従って、考えを共有する、ある家族の兄弟姉妹が何世代かにわたり、その共同体内で、他家との婚姻を繰り返せば、同じ思考が広がります。

 その家族が強い絆と強い思考で結ばれていたら、百年、千年の時が経過すると、一体感のある「共同思考(幻想)」が生まれるという、理屈になります。

 氏が家族を、国家と個人をつなぐ結節点と考えている理由が、ここにあります。個人は家族という形を通じて、さらに大きな集団を作り、国と合体していきます。ヘーゲルが考えたのか、氏の着想なのか、知力の凄さを感じさせられます。

 「吉本にとって、高度な経済力や科学力を持っていた近代国家である、」「戦前の大日本帝国が、やすやすと天皇制と言う、」「宗教性の強い、古代・中世的な政治体制や、イデオロギーに支配されてしまったことは、大きな難問だった。」

 先崎氏が解説するような意見は、私が読んだ限りでは、『共同幻想論』の中にありません。他の著書や論文を読み、氏の意見を知り尽くしていれば、こうした解釈が出てくるのかもしれませんが、果たしてこれを、「わかりやすい解説」というのでしょうか。

 「吉本は、宗教・法・国家は、その本質の内部において、」「社会の生産様式の発展史とは、関係がないと主張し、」「政治体制が、経済体制に規定される(唯物史観)とする、ロシア・マルクス主義を批判する。」

 当然のことながら、こうした意見も、『共同幻想論』の中にありません。書かれていないことを説明するのは、読者をたぶらかすことでないのかと、私にはそう思えてきました。

 「その試みは、吉本にとってロシア・マルクス主義からの自立であって、」「少年期に、骨の髄まで侵食された、天皇制と言う共同幻想を意識化し、」「対象化し、相対化しようという試みでもあった。」

 ここまできますと氏の説明は、不動産屋の過大広告に似てきます。吉本氏の思考の説明ではあっても、『共同幻想論』の解説ではありません。こんな解説を読んでいるから、若者たちが惑わされます。

 「俺は、吉本の難解な本を理解した。」「吉本の言っている意味を理解するには、自分の努力がまだ足りない。」などという意見が出てくるのは、先崎氏のような学者が解説するところにも、原因があるのではないでしょうか。NHKまでが、『100分de名著』という番組で取り上げれば、なんとなくすごい本だという「共同幻想」が作られます。

 『共同幻想論』のブログを始めて、今日で10日が過ぎました。著書のさわりだけにしか触れていませんが、10回となりました。「吉本隆明氏とは、何者なのか」という疑問について、自分なりに理解しましたので、これ以上続けることに意味を感じなくなりました。

 kiyasumeさんのおかげで、息子との接点も発見できましたが、息子と私の問題は、今後の課題です。

 考えてみればこれは、敗戦後の日本人が背負ってきた宿題の一つです。国の歴史や文化を否定する「反日思考」と、自分の国を大切にしたいという「愛国思考」の対立でもあります。戦後77年間、政治家も学者も教育家も、法律家も本気で向き合わず、なんとなく避けてきた宿題が、やっと私たち個人のレベルまで波及して来たと、そんな気がします。

 吉本氏の言葉を借りて言えば、「個人幻想」と「共同幻想」が、結節点である「対幻想」のレベルで検討されようとしている・・と言うことでしょうか。これ以後は、ブログのレベルでなく、私個人の問題となりますので、本日でこのブログを終わりといたします。

 kiyasumeさんにはもちろんですが、訪問していただいた方々にも、感謝いたします。

コメント
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