OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

古い本 その76 19世紀の日本の文献 3

2021年10月17日 | 化石
古い本 その76 19世紀の日本の文献 3

E 1899 吉原(重康) 「犀骨の發見」
 文章は短く、スケッチ等もない。文では、1899年3月に岐阜県を旅行していて見出した標本について記している。まず、「可児郡」戸狩(現・瑞浪市明世町戸狩)で獣類の歯を見つけ、周りを探してその歯の残りを伴う骨を見つけた、という。続いてそこから3里(12km)離れた可児郡羽崎(現・可児市羽崎)で類似の歯を発見したとしている。これは、サイの下顎歯で、インドのシバリック(Siwalik)のRhinoceros sivalensis に酷似しているという。R. sivalensis は、有名なFauna Antiqua Sivalensis (Falconer and Cautley, 1845)に出てくる種類。これに似ているとしても、サイの仲間の下顎歯は種類の判別が困難で、同種だと言えないだろう。戸狩は瑞浪の盆地、羽崎は平牧の盆地であるが、両者から出てくる哺乳類は共通のものが多い。この報告は瑞浪・平牧の化石の中で明治以降最も早い時期の報文(19世紀の和書に出てくるものがある)である。
 吉原(よしわら)重康(1874−1940)(=徳永重康)は、早稲田大学教授を長く務めた。脊椎動物化石について多くの論文がある。直良信夫との共著のも多数ある。第一次満蒙学術調査団の団長だった。吉原は旧姓で、1903年発行の論文以降は徳永名で著している。ネットの文献リストなどでは、別人扱いしているものもあるので注意が必要。

238 日本のサイ化石でおそらく最初に発見されたもの 京都大学標本

 この東濃地方のサイ化石について、徳永名で次の論文を書いている。
Tokunaga, Shigeyasu, 1926 Fossils of Rhinocerotidae found in Japan Proceedings of the Imperial Academy, Tokyo, vol. 2, no. 6: 289-291. (日本で発見されたサイ科の化石)
 この論文では、5つのサイ化石について述べている。最初のものは、1921年に(ちょうど100年前だ!)Matsumoto が新種Teleoceras (Brachypotherium) pugnatorとして記載したホロタイプの上顎部(当時東濃高校に保管)。

239 Matsumoto, 1921, pl. 2 Teleoceras (Brachypotherium) pugnator Holotype 上顎腹面

 論文は次のもの。
Matsumoto, Hikoshichiro, 1921 Descriptions of Some New Fossil Mammals from Kani District, Prov. of Mino, with Revisions of Some Asiatic Fossil Rhinocerotids. Science reports of the Tohoku Imperial University. 2nd series, Geology, vol. 5, no. 3: 75-91, pls. 13-14. (美濃地方の可児地区からのいくつかの新種化石哺乳類の記載と、アジアのサイ類の再検討)

 この種類は現在Brachypotherium ? pugnator (Matsumoto) として扱われている(Fukuchi and Kawai, 2011)。それ以前はChilotherium pugnator として扱われていた。瑞浪・平牧地方の多くのサイ化石もほとんどがこの種類のもので、ほかにPlesiaceratherium属(種未定)のものがある。ところで、種小名「pugnator」はラテン語で「fighter」の意味。戦うものというかむしろ戦闘機の意味で使われるらしい。Matsumotoの記載には語源は記してないし、文中にもそれらしいことは書いてない。ほかに同じ種小名の化石種が少なくともひとつあって、Porthocyon pugnator Cook, 1932 (1922とする文献もある。属はのちにBorophagusに変更された)というイヌ科の中新世の種がアメリカから提唱されている。イヌ科なら「戦うもの」というのもわからないでもない。
 このサイが記載された1921年に、名古屋市港区大江町にあった三菱重工業で日本最初の艦上戦闘機が完成した。零戦よりもずっと前、何と複葉機である。これが語源だろうか? そんな軍事的なことが一般に公開されていたのだろうか?? 
 Tokunaga,1926論文の2つ目の標本は上ノ郷産の左下顎である。上ノ郷は現在の御嵩町にあり、吉原,1899の羽崎(可児市)とは少し離れているから別の標本だろう。
 3番目の標本も左下顎で(瑞浪・平牧のサイ化石はなぜか左下顎が多い。)戸狩産。だから吉原論文に出てくる戸狩産のものと同一だろう。後で記すYoshiwara and Iwasaki, 1902論文で、大体の発見場所がわかる。これら3つの論文でほとんど記載してないし、写真やスケッチもない。産出地にしても記載がなく、ただ後の論文で(後出)「デスモスチルス産地から約半マイル(800m)」とする。この報文には、その歯の「含まれたる地層は十数丈の懸崖」(一丈は約3メートルだから、40メートルぐらい?の崖)の凝灰岩からとしているからこれを合わせると思い当たる場所がある。私が中学校一年生の夏休みに初めて瑞浪を訪れて化石採集をした場所だ。
 4番目の標本は山口県宇部の炭鉱から見つかったもので、五段炭層から18メートル下で発見されたという。五段(いつだん)炭層は宇部炭田の主要な炭層で、時代は始新世(約4000万年前というフィッション・トラック年代が得られている)でありTakai,1945 はサイの仲間のAmynodon watanabei の産出を報告した。
 5番目の標本は、鳳山炭田(現・北朝鮮)から発見されたもので、これについてはよくわからないが始新世のものだろう。
 瑞浪・平牧のサイ化石標本についてまとめた論文がないので、以上のところを整理する必要がある。1974年に亀井節夫・岡崎美彦は、「瑞浪層群の哺乳動物化石」と題して、その頃までに知られていた標本をまとめたが、その中でChilotherium pugnatorとして7個の標本を挙げた。ただし、羽崎と上ノ郷の標本を混同しているかもしれない。またさらに、土岐市妻木町産の標本を、これとは区別してRhinocerotid, indet. とした。

240 岡崎, 1977, plate 7

 上の二枚のfigs.は、のちにFukuchi and Kawai, 2011でPlesiaceratherium sp. とされたもの。美濃加茂市下米田産出の右下顎。左下の二枚はChilotherium sp. とされたもので、可児市菅刈(すげかり)産の左下顎。右下の二枚もChilotherium sp. とされたもので、可児市東帷子(ひがしかたびら)産の左下顎。
 さらに1977年に著者の一人岡崎美彦は、「瑞浪層群の哺乳動物化石 その2」と題して、サイ類では16個の標本を追加した(そのうちの一個はサイではないとのちに訂正された)。歯や顎の産出が多いが四肢骨もある。

241 産地不明(可児地方)のサイ左上腕骨

 さらに、私はこれらに掲載されていない標本をいくつかの大学の標本室で見ているから、合計点数は30点近くにのぼる。

242 Chilotherium sp. 未萌出の臼歯 ロシア産 鮮新世(参考)

 上の写真はロシア産のChilotherium 上顎臼歯。時代がずっと新しい。ソビエト(当時)の客人からのいただきもの。

2002年SECAD at Dunedin 出席 その13 オタゴの鯨化石

2021年10月13日 | 昔の旅行
Meeting of SECAD in New Zealand, 2002. Part 13. Cetacean fossils of Otago University

 会期中、時間が空くと参加者が標本を見たいとリクエストしていた。ニュージーランドを訪れるのは欧米の研究者にとって簡単ではないし、このころから古鯨類からヒゲクジラとハクジラがどのように現れたのかという問題についての豊富な標本がここに集まってきていたから、そういう標本にみなさん大きな興味を持っていた。約10年前から私は訪れているが、来るたびに新しく重要な標本が増えてくるのには感心していた。Dr. Fordyceは一部の重要な標本をポスター会場に展示して解説しておられた。いくつかのものは、当時未公表であったが、その後記載されたものが多い。

13-1 芦屋層群の鯨に近い種類 2002.12.10
A basal mysticete from NZ

 地下の処理室も公開されていて、時間の許す限り博士が解説をしておられた。ここでは情報公開が広く行われていたのだ。

13-2 鯨化石を解説する博士 2002.12.10
Explanation of fossils

 正面の大柄な人はM. Uhen博士、その左の若い二人は東工大でDNAのレトロポゾンをもとに系統をまとめている院生である。

13-3 鯨化石の討論 2002.12.10
Discussio of fossils

 ここでは、日本の研究者を中心に討論をしている。また、よその鯨化石レプリカも収集してある。

13-4 「セイウチクジラ」レプリカ 2002.12.12
Cast of Odobenocetops

 オドベノケトプスは、頭の先端から下方に出た牙が、顎の下を後方に向かって伸びるという、なんとも奇妙なクジラである。ペルーとチリの中新世の地層から発見され、1993年に記載された。写真は左にあるのが頭骨(右側面)で、写真の上が前方になる。そこから右に直線的に伸びるのが牙。写真では見えないが、外鼻孔は頭の先端ではなくやや後ろに下がった背側に開いている。

13-5 処理室 2002.12.13 
Room for fossil cleaning

 化石処理室も公開されていた。処理は高い技術を持つA. G. 氏が行っていた。残念ながら彼はこの後に不幸なできごとがあって、私が会ったのはこの写真の時が最後となってしまった。

Keywords: SECAD Dunedin Otago Cetacea fossil二次適応学会 ダニーディン オタゴ大学 鯨 化石

Abstract. Part 13. Cetacean fossils of Otago University.
The researchers in the meeting had interests on the basal whalebone whales and also basal toothed whales. On that problem, the Otago University had collected many important specimens at that time. Dr. Fordyce guided even treating rooms in basement floor. There was a cast of Odobenocetops. Miocene peculiar toothed whale with Walrus-like tusks, was displayed.

古い本 その75 19世紀の日本の文献 2

2021年10月09日 | 化石
 次は前回のリストの C 1896 値賀威一郎 第三紀層中より哺乳類の化石出づ.  JGSJ, vol. 3: 63-64.
 千葉県の「千葉から南半里(約2km)の曾我野から記事が始まる。この場所は現在の千葉市蘇我のあたりである。この記事が掲載されるよりも7年前(1889:明治22年)に曽我野村など6村が合併して蘇我野村ができた。1年後に蘇我町となり1937年に千葉市に編入された。しかし化石の発見されたのはそこではなく、千葉から東に「五六里」の土氣村の蔵見坂という坂道だという。曾我野の話は何だったのだろう?千葉の南西6kmほどのところに外房線土気(とけ)駅があり、そのあたりが千葉市緑区土気町(とけちょう)である。「蔵見坂」という地名も現在見られるが、ひらがな「くらみ坂」だったり、なぜか「クラン坂」とも言われるようだ。産出した地層は第三紀の黄褐色の砂岩で、サメの歯とともに大きな骨が出たという。鯨の可能性があると記されているが、発掘時に破壊されて「其骨は頗る大なりしものと思はる」とし、著者も見ていないようで、形については記録がない。海生哺乳類の化石として日本最初のものだろうか。

233 「クラン坂」(赤線) 千葉市緑区土気町

 値賀威一郎氏についてはよくわからなかった。岩石学関連の文がある。1900年5月の刊行物に悼辞があるからこの年に亡くなったらしい。「値賀」の読みは「ちが」か「ちか」。佐賀県にあった村名「値賀村」の場合は「ちか」。

 次は、D 1897 神保(小虎) 「信濃國第三紀の海獣」
 信州小縣郡青木村(現・長野県小県郡)のげんのう石産出から書き始めてある。玄能石は地名「トノド」及び「コウド」で見られ、トノドの「同岩中に背骨の包まれたるを」見出したという。同村の地形図を見ると、国道143号線の南に浦野川が東に流れ、その南にある東西方向の丘にある小谷に殿戸・越戸という地名が見られる、玄能石中に化石があったというのだろうか。玄能石は、やや低温の海底の堆積物中に生成された何かの結晶が方解石に置き換わったもので、フォッサマグナあたりの中新世の地層ではよく見られる。下の写真は私のコレクションで、正確な場所は不明。

234 玄能石 長野県松本付近産

 論文には図が添えてあって、明らかにイルカの頭骨である。著者もそのことは分かっていて、スケッチの周りに前・後・上の文字が見られる。(I)は左側面図、(II)は背面である。イルカなどの歯鯨類特有の左右の不対称性が見られる。化石スケッチで鼻孔の開口する方向が前を向いているのはちょっと変。吻部前方も後頭部も左右の側方も失われているから、種類を決めるのは難しそう。この類の専門家なら少しは絞ることができるだろう。

235 神保, 1897 挿図

 参考のため現生スジイルカStenella coeruleoalba の頭骨背面を示す(国立科学博物館:海生哺乳類図鑑:net)。

236 Stenella coeruleoalba 頭骨背面 海生哺乳類図鑑

 化石標本は、やや正中線のカーブがきつい。
 神保(じんぼう)という名で掲載しているがフルネームは神保子虎(1867−1924)。東京帝国大学の鉱物学教授を務めた。
 1936年に、Makiyamaはこの近くから小型の鯨類の全身骨格化石を報告し、Sinanodelphis izumidaensis (新属・新種)を提唱した。産出地は、上田市の西3kmほどにある泉田の近くで、神保の報告した頭骨の近くを流れる浦野川が谷から出て千曲川の合流するところに近い。産出層は中新世の別所頁岩である。

237  Makiyama, 1936 Fig. 1. Sinanodelphis izumidaensis Makiyama: Holotype スケッチ

 標本は京都大学に現存する。この種類はこれ以外の化石に使われたことはなさそう。私はホロタイプを見たことがあるが、写真の撮影は行っていない。
文献:Makiyama, Jiro, 1936 Sinanodelphis izumidaensis, a New Miocene Dolphin of Japan. Memoirs of the College of Science, Kyoto Imperial University. Ser. B (1936), 11(2): 115-134. (Sinanodelphis izumidaensis、日本の新種中新世イルカ類)
 槇山次郎(1896−1986)は、京都大学地質学鉱物学教室教授を務めた。ナウマンゾウの記載で有名。他に貝類など広い分類群の化石を研究した。私は大学時代に何度かお見かけした。

2002年SECAD at Dunedin 出席 その12 羊の数

2021年10月05日 | 昔の旅行
Meeting of SECAD in New Zealand, 2002. Part 10. Count sheep

 12月11日、自然観察ツアーに参加して、牧場をずっと歩いて岬まで来たが、その後砂浜まで降りるという。降りるということは登って戻らねばならない。

12-1 この砂浜に行くというが… 2002.12.11
Long walk to beach

 だからこの部分をパスすることにして、「私は車に戻って一眠りする。」と宣言して一人で一行と離れる。道は単純だから問題はない。

12-2 虹 2002.12.11
Rainbow

 天候はやや不順で小雨がぱらついていたが、バスに戻る頃には陽が差し、虹も出てきた。さて虹の出ている方角はどちらだろうと考えながら写真を撮る。バスに戻って一眠り。目をさますと一行が戻ってきていて、私に「眠れたか?」と聞くから、「周りにたくさん羊がいて、それを数えたから。」と答えたら少し受けた。

12-3 牧場の羊 2002.12.11
Sheep

 この後、ツアーは半島先端のタイアロア・ヘッドに向かい、アホウドリの飛行を見上げたり、黒鳥のいる湖を見たりしたが、はっきりとした記憶がない。

12-4 オタゴ半島の入海 2002.12.11
Inlet in the Otago Peninsula

Keywords: SECAD Dunedin Otago Taiaroa-Head 二次適応学会 ダニーディン オタゴ大学 タイアロア岬

Abstract. Part 12. Count sheep.
We observed a nest of seagull from top of a cliff, and going down to sand coast below the hill. I did not join this clime-down and up course, and returned to the bus alone, because I felt sleepy. When they returned to the bus, an attendant asked me, “Could you sleep?” and I answered, “ Yes, because I have counted sheep around me." After the farm, the tour visited the albatross colony or small lake with black swan.

2021年9月のアクセス数

2021年10月01日 | 今日このごろ
Access analysis of this blog: September 2021

9月の当ブログの状況をご報告する。

P:投稿数8。定期投稿(4日に一度)を行った。9月から、4日に一度の定期投稿に減らした。ご訪問の機会が減ったのだから、その総数がどのくらい減少するのか調べてみた。9月の閲覧総数と訪問人数は次の通り。カッコ内は3日に一度の投稿をした8月の数字。
月間閲覧数総計 6,737 (6,082) 月間訪問総数 4,312 (4,218)で、意外にも減るどころか増加した。
 現在「OK元学芸員」で検索すると最初に正しい当ブログの項目が出てくるようになった。「フォロワー一覧」「画像一覧」などの細目も検索画面で知ることができるようになっている。これと別に下の方に「ゆらゆら…」というようなサイトが出てくるが、当方とは関係がない。現在も検索で出てくる。不完全なコピーをしているのでアクセスしないように。もちろん当方は了解していない。当ブログの内容を参考に記述しているブログはたくさんあるようだが、大半は引用元が「OK元…」であることを引用していない。できたら参考にしていると書いて欲しいし、正確に記して欲しい。
 当ブログのアクセス数の統計記録をとっている。記録項目は、閲覧回数 訪問人数 同一プロバイダー中の訪問人数順位 同一プロバイダーにあるブログの総数 の各数字で、土曜日毎に一週間の集計もされている。なお「PV:閲覧回数」はその日のアクセス総数、IV:訪問人数は同一の方の重複を除いた数字。
PV:閲覧回数 224.3 (196.2)
IV:訪問人数 143.7 (136.1)
R:同一プロバイダー中の訪問人数順位 8,692 (7,974)
以上は平均値
TB:そのブログ総数(平均ではなく月末) 3,054,665 (3,045,590)
R/TB:訪問人数の順位比率平均値 0.285% (0.262%)

グラフ:先月のアクセス数。青:閲覧回数 赤:訪問人数
傾向線を記入した。

 9月の閲覧回数・訪問人数は8月と大きな変化はない。傾向線はやや下降気味だが大したことはない。7月の成績はかなり悪かったが、おおよそ6月の水準にもどった。

D:開設後の日数 4,241日
TP:投稿総数 1,425回 
TPV:総閲覧回数 1,359,275
TIP:延べ訪問人数 505,151 
投稿総文字数概算 1,481,262字
投稿総写真数概数 5,773枚

 「昔の旅行」ジャンルの2002年のNZ旅行の記録を掲載している。書籍に関する記事はまだまだ続く。どちらも今年中には終わらない。古い文献のところであまりたくさん書きすぎたから、掲載した時に読みにくいかもしれない。作成してある「在庫」は4日に一度の投稿に変更したので二か月ほど伸びて、来年3月初旬頃まである。ご時世でしばらく旅行はできそうにない。逆に外に出ないから記事を書きためる時間が十分にあるが、「ネタ切れ」の様相がはっきりした。
 皆さんがバックナンバーをずいぶん見ていただいているのが励みになる。皆さんのコメントを期待している。ご本名でなく私に分る程度の「ペンネーム」で記入戴くとありがたい。

2021年9月の記録:

スズメガ幼虫

クチナシに着いたオオスカシバ幼虫 志徳公団 2021.9.4 


どの植物を食べているのか?キイロスズメ幼虫 志井川ぞい 2021.9.12

 オオスカシバの方は、志徳公団の植え込みのクチナシで見た。毎年ここで見られるが、数日後にこの植え込みが剪定されたからどうなったか。
 キイロスズメの幼虫は色違いがあるからちょっとめんどう。ヤマイモを食べるそうだが、写真に見られる蔓植物はヤマイモのようには見えない。写真を撮影した12日の後、その場所では見かけなくなった。5センチ以上もあってどちらも芋虫嫌いの人には見せない方が良い。いつも思うのだが、スズメガの仲間の幼虫にはずいぶん大きなものがある。成虫の大きさよりも大分大きい。

ツマグロヒョウモン

ツマグロヒョウモン 志井川ぞい 2021.9.8

 数十年前に北九州に来た時に、最も見慣れていなかった蝶。私は名古屋・京都に住んだが、見たことがなかった。これはメスで、桜の落ち葉に止まったところ。行動としては、陽だまりで温まろうとしていたように見えたが、この日は暖かかったから、むしろ産卵ために食草のスミレを探していたのかもしれない。もう少し秋が深くなると、植え込みに侵入したヤブカラシの花にオスがたくさん来る。