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黒曜石が日本の文化を生んだ

2015-01-25 00:01:10 | Weblog
NHKの「日曜美術館特別編」、
「巡る、触れる、感じる~井浦新"にっぽん"美の旅~」を見て、
温めていた「黒曜石日本文化を生んだ」を書こうと思った。

NHKの「日曜美術館特別編」は、井浦新さんが、「縄文王国」、
八ヶ岳山麓にある3つの考古館を巡って、芸術品に触れ、感動した。
「尖石縄文考古館」では、「縄文のビーナス」と、「仮面の女神」に触れ、
「井戸尻考古館」では、「神像筒形土器」(しんぞうつつがたどき)と、
半人半蛙文有孔鍔付土器」(はんじんはんあもんゆうこうふちつきどき)と、
双眼五重深鉢」(そうがんごじゅうふかばち)に感じ、
「黒燿石体験ミュージアム」では、「黒曜石」の鉱山を巡って紹介した。
八ヶ岳山麓は、縄文時代に、日本の美の頂点を極めた、文化の中心だった。

「縄文王国 諏訪」の和田峠・霧ヶ峰~八ヶ岳山麓一帯は、「黒曜石」の産地である。
その黒曜石は良質で、「矢じり」(石鏃)、「槍」、「ナイフ」、「石錐」(せきすい)を作った。
「矢じり」や「槍」は、「狩猟」に使われ、
「ナイフ」は、「調理」に使われ、
「石錐」は、穴をあける「工具」として使われた。

これらは、狩猟生活には欠かせない「生活必需品」で、
信州製の「狩猟具」、「調理具」、「工具」は、
縄文時代に、全国に流通した。

石鏃」(せきぞく)。「矢じり」のストラップ。おみやげ品。2014年。

長野県の長和(ながわ)町にある「黒燿石体験ミュージアム」で購入した。1,200円。

茅野市の「尖石(とがりいし)縄文考古館」へ行くと、
黒曜石の原石が前庭に置いてある。2011年撮影。

後方は「宮坂英弌(ふさかず)先生像」で、
八ヶ岳山麓の縄文遺跡発掘調査に生涯をかけた人。

尖石縄文考古館では、日本最古の国宝「縄文のビーナス」、

縄文時代中期(約5000年前)、
それと、土偶造形の頂点、国宝「仮面の女神」、

縄文時代後期前半(約4000年前)、
を見ることができる。

富士見町の「井戸尻(いどじり)考古館」の前庭にも、
黒曜石の原石が置いてある。2011年撮影。

表示板には「麦草峠産」(むぎくさとうげ)とあるから、八ヶ岳の「冷山」(つめたやま)になる。

井戸尻考古館では、重要文化財「神像筒形土器」(しんぞうつつがたどき)、

縄文時代中期(約4700年前)、
それと、重要文化財「半人半蛙文有孔鍔付土器」、
(はんじんはんあもんゆうこうふちつきどき)、

縄文時代中期(約4700年前)、
さらに、重要文化財「双眼五重深鉢」(そうがんごじゅうふかばち)、

縄文時代中期(約4700年前)、
を見ることができる。

尖石縄文考古館と井戸尻考古館の土器や土偶は、
どこぞから見聞したものを、マネしたものではない。
エジプトやメソポタミヤではない、インドや中国でもない。
オリジナリティだ。想像をめぐらし、創造したもの。独創である。
強い願いや想い、魂を込めた。そして、生命力にあふれた芸術品を生んだ。
これらの土器、土偶は、単なる入れ物ではない。
の「道具」、精神の「道具」といえる。
祭祀(さいし)に使われた。

信州は良質な黒曜石の産地で、
和田峠・霧ヶ峰~八ヶ岳山麓一帯から産出し、
加工した製品は全国に流通したが、このことは、
「黒燿石体験ミュージアム」へ行くときに、
新和田トンネル有料道路の北にある案内板、
黒耀石と男女倉遺跡群」に説明がある。

黒燿石は、ケイ酸という成分が多い粘り気の強いマグマが、
急激に冷えた場合できるといわれています」
霧ヶ峰から八ヶ岳の一帯は、本州最大規模の、
黒燿石の原産地として知られています」
「代表的な産地として有名な和田峠では、
直径100m~500mほどで、噴火口の頂点から地下数百mの深さまで、
続いており、今から約94~71万年前にできたと考えらています」

火山の噴火と黒燿石のでき方」を拡大した。黒燿石体験ミュージアム作図。

火山の右が、岩脈(火道)で、和田峠の例、
火山の左が、噴出岩で、八ヶ岳の「冷山」(つめたやま)の例、
さらに左のふもとでは、ふもとに降った黒曜石が流されて、
川に落ちた例、が描かれている。
旧石器時代には、川から黒耀石を拾った。
縄文時代になると、ふもとから山頂へと移っていく。

「天然ガラスの黒燿石は、およそ3万年以前の旧石器時代から、
狩りの道具や肉を切るナイフなどの石器の材料として利用され、
和田峠から全国へと流通していた事でも有名です」

「黒燿石」:常用漢字では「曜」の字となっていますが、
長和町では「耀」の字を黒耀石の特徴を示すものとして親しんできました。
長和町教育委員会

男女倉(おめぐら)遺跡群とは、
黒燿石の産地である和田峠の周辺に密集してある、
旧石器時代の遺跡の一つである。

青森県の「三内丸山遺跡」、
山梨県の「釈迦堂遺跡博物館」へ行くと、
黒曜石から作られた信州製の石器が、生活必需品の
「狩猟具」、「調理具」、「工具」として、全国に流通したことがわかる。

三内丸山遺跡の「石鏃」(せきぞく)の展示。青森県。2012年撮影。

縄文時代中期(約5,000~4,000年前)に、
長野県の霧ヶ峰で製造された「矢じり」(石鏃)が、
青森県の三内丸山遺跡に渡った展示。

霧ヶ峰産の「矢じり」を見ると、素晴らしい加工技術だ。
鋭く、突き刺さる、という実用性のほかに、しさがある。

長野県の霧ヶ峰から、よくもまァ、青森県まで渡ったものだ。
「陸路はなかった、それに危険だった。姫川を下って、
新潟県の糸魚川から、船で日本海を移動して青森県に着きました」
と、学芸員は説明してくれた。
山を越え、海を渡る長い道のりだ! それに、情熱にも驚く。
それほどまでしても、手に入れたかった「矢じり」(石鏃)だ。
「矢じり」は、今でいえば、銃の「弾」で、狩猟には欠かせない。

山梨県の釈迦堂遺跡博物館では、
長野県の和田峠・霧ヶ峰~八ヶ岳山麓の「矢じり」、「槍」、
「ナイフ」が、山梨県に流通した展示がある。
石器の交易」。釈迦堂遺跡博物館、山梨県。2011年撮影。

「黒曜石は、長野県の「和田峠」、「星ヶ塔」、「冷山」(つめたやま)から、
山梨県にもたらされたことが、科学的に証明されている」とある。

「和田峠」は霧ヶ峰で長和町(ながわ)と下諏訪の境界、
「星ヶ塔」は下諏訪町で霧ヶ峰、
「冷山」は茅野市で八ヶ岳山麓。
和田峠・霧ヶ峰~八ヶ岳山麓一帯では、
黒曜石を採掘して、「矢じり」を製造した。
そして、全国に交易をしていたことがわかる。

右端の⇒はヒスイで、新潟から山梨県の釈迦堂にもたらされた。
下の⇒は、伊豆七島の神津島(こうづじま)からの黒曜石で、
信州からの流通が減ったときに、もたらされた。
これは、旧石器時代の最寒冷期に、信州産の良質の石器が、
入手が困難になったため、暖かい神津島に求めた。

「黒曜石」の採掘は? 「矢じり」の製作は? 交易は?
和田峠にある「黒燿石体験ミュージアム」が教えてくれる。

東京からの学童(小学5年生)が体験学習をしていた。長和町(ながわ)。2014年9月。

和田峠・霧ヶ峰~八ヶ岳山麓一帯には、
黒曜石の採掘地点が20か所以上確認されている。
採掘する人、加工する人、交易する人が集まってきた。
旧石器時代~縄文時代にかけて、ゴールドラッシュならぬ、
黒曜石ラッシュ」だったに違いない。

縄文人は、黒曜石という土地の産物を採掘し、
加工、製造して「矢じり」を作るという産業を興した。
製品を交易するという、加工貿易のビジネス・モデルをつくった。

縄文時代は、発掘した「黒曜石」を割って、
「剥片」(はくへん)にして、近くの村に持ち帰った。
そして、「矢じり」ほかの製品に加工した。このことは、
村(加工工場)では、加工するときにできた割りクズが多量にあり、
製品は、そこで使う分しか出てこなかった、ことからわかる。
剥片を消費地まで、わざわざ運んで、消費地で加工することは、
クズも運んでいくことになるからムダだ。
できのいい製品だけを運べばいい。

縄文中期に、諏訪地域の人口が日本で一番だった理由がわかる。
ビジネスでうるおっているところに、人は集まり、
高い文化のあるところに、人はあこがれ、
さらに素晴らしい芸術品が生まれた。
日本の商業文化中心で、
今でいえば、東京や京都だった。

「黒燿石体験ミュージアム」の裏山は、
星糞峠」という黒曜石の産地。
「国史跡 星糞峠黒曜石原産地遺跡」とある。

「星糞」(ほしくそ)とは、黒曜石のこと。
「星糞」は、流れ星が降り積もったところ、とか、
加工するときにできた割りクズ、とかいわれている。

「星糞峠」の採掘跡を見に行くが、
「黒燿石ミュージアム」のスタッフは、
クマよけの鈴を貸してくれた。
腰につけて、鳴らしながら、キョロキョロしながら、
30分ほどの山登り、それから、採掘址を1時間ほど見学する。
「黒燿石体験ミュージアム」の学童は帰ったから、見学は一人だった。

第1号採掘址」。

シートで覆われた下に、黒曜石を採掘した竪坑と、横穴がある。

第1号竪坑」の説明が「黒燿石ミュージアム」にある。

「足場を残すかのように階段状に掘りすすんでいます」
「最後に大きな石につきあたったところでは、
黒燿石を多くふくむ地層をねらって、
横方向に掘っていたようすもうかがえます」

「竪坑の周辺では、おびただしい量の細かな黒燿石の割りくずが、
あたり一面に打ち捨てられていました」
「黒耀石を割るときに使った台石や敲石(たたきいし)も多数発見されています」
「石器の素材となる剥片(はくへん)も打ち割っていた可能性があります」
「石器づくりはそれぞれのムラに材料を持ち帰っておこなわれたと考えられます」

ゆるやかな「くぼみ」が、たくさんある。

⇒の白い球は、「くぼみ」を示す。
採掘したときに、掘った土が、周囲にが盛り上げられて、土手になっている。

ゆるやかな「くぼみ」の下にも、
第1号採掘址のような、竪坑が発見される。
旧石器時代の採掘と、後の縄文時代の採掘が重なることがある。

クマに遇うことなく、星糞峠の見学を終えて、
「黒燿石体験ミュージアム」にもどり、鈴を返した。
その「黒燿石体験ミュージアム」への行き方。

「黒耀石の原産地を探る」。黒耀石体験ミュージアム、新泉社から。
霧ヶ峰のビーナスラインの北側へ行くというイメージ。
左下の諏訪湖から、右上の佐久を目指した。
下諏訪から142号で和田峠へ ⇒ 新和田トンネル有料道路 ⇒
料金所を出て ⇒ 155号で白樺湖を目指す ⇒ 10分ほど走ると左に、
明治大学黒耀石研究センター」 がある。

明治大学が、霧ヶ峰一帯の黒曜石の研究を進めてきた。

そこを入ると、左に「黒燿石体験ミュージアム」がある。
「明治大学黒耀石研究センター」の奥は「虫倉山」、左の山が「星糞峠」。

「黒燿石体験ミュージアム」へ行ったなら、
和田峠・霧ヶ峰~八ヶ岳山麓一帯が、
日本の文化の黎明であり、中心だったことを感じることができる。
自然環境に恵まれ、狩猟生活の必需品の道具を作る黒曜石があった。

和田峠・霧ヶ峰~八ヶ岳山麓一帯は
旧石器時代は、日本の先駆けであり、
縄文時代は、日本の文化の中心であった。
人口は日本一、遺跡数が日本一である。
石器、土器、土偶は、実用性のほかに、
精神性の高い芸術品が生まれている。

岡本太郎は、「縄文王国」諏訪に血がたぎった。
諏訪は、渇仰(かつごう)の地」だった。
渇仰とは、あこがれである。
渇いた者が水を切望するような。

そして、諏訪を40回近く訪れた。
「諏訪に来て、芸術が変った」
「諏訪は、心のふるさとだ」

縄文時代に、日本文化の中心が、どうして八ヶ岳山麓だっただろうか?
どうしてだっただろうか? ではなくて。
食べ物が、山にあったから。
 クリ、クルミ、ドングリ、トチの実、山菜、キノコ、
 シカ、イノシシ、クマ、ウサギ、サル、鳥、川魚…。
黒曜石が、山から出たから。
 良質な黒曜石から、狩猟生活の必需品を作った。
 狩猟具、調理具、工具。これらを、全国に流通した。
☆山は、信仰の対象だったから。
 食料が獲れますように!
 安産でありますように!
 病気が治りますように!
 地震、噴火の天変地異がなく、
 また、陽が上がりますように!

八ヶ岳山麓では、
生活必需品の「道具」を作った。
そして、全国に流通した。さらに、
精神活動の心の「道具」を創造した。
芸術性に極めて優れたもので、国宝になった。

うるおいと高い文化に魅かれて、
八ヶ岳山麓に、人が集まってきた。
そして、造形美に優れ、精神性の高い芸術品、
「縄文のビーナス」、「仮面の女神」、「神像筒形土器」、
ほかを、1,500年にわたって生み出す、日本の文化の頂点であった。

八ヶ岳山麓の縄文美術について、これまでのブログも参考にしてください。
「縄文のビーナスは世界遺産に」。2011年12月25日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/2aec603cdd0df61da7138b616a42d8d1

「「縄文王国」諏訪を眺める」。2012年1月1日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/8e2df8d4be961bdcc6f41d43d7754090

「岡本太郎が縄文美術を発見した」。2012年1月15日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/67b4095dc85aa98e50496fc797dfa3d7

「仮面の女神が国宝に」。2014年3月23日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/a8194a1ab90005aefe42b78723a0e913

「国宝の土偶を見る」。2014年3月30日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/c13b392099cca94bf48b983952ebb9a9
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