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『仏教の大意』(読書メモ)

鈴木大拙『仏教の大意』角川ソフィア文庫

鈴木大拙が昭和天皇に御講義されたときの講義録。なかなか難しく、陛下もさぞかし苦労されたことだろう。

一番印象に残ったのは「業(ごう)」の問題。

「人間である限りは業を離れるわけに行かぬということは、人間は元来業そのものだからです。人間の在るところ行くところには、業は必ず影の形に添うようについて行きます。しかし人間が業を離れ業を超えることのできるのはまた実に業につきまとわれているからです。普通に申しますと、われらは業繋(ごうけ)のゆえに苦しむのでありますが、この苦しみはかえって人間をして人間自身の上に超出せしめんとする霊性的衝動となるのです。キリスト教的にいえば、自らを洗い浄めて神に近づかしめんとの自省・自督の途に進むことになるのです」(p. 51)

キリスト教では、自分の罪に気づき、それを何とかしてもらいたいからこそ神にすがろうとする。そこが出発点なのだが、仏教も同じなのだろう。

では、どうやって業から離れるのか?

「業が人間の生命そのものだとすれば、業を免れるということは死するという義にほかならぬのです。しかし業繋苦からの解脱がないと霊性的生活はないのです。(中略)自覚のうらに霊性的なものがあるのです。それがないと業繋苦ということそのことが無意味になるのです。これが矛盾なところです。死んで生きなければならぬということ、業に繋がれていながらこれを離れること、ここに人間の運命の不可思議があるのです」(p.49-50)

業から離れるためには、業をもったまま業を自覚しなければならない。つまり、罪を自覚することが罪を離れるスタートになる。では、それからどうしたらいいのか?

「業苦の繋縛が解消するということは、それ故に、業を業とまともに認覚すると同時に、われら存在の根源そのものはそれで縛られていないということを自覚することです」(p. 56)

このへんからよくわからなくなってきた。仏教の二大支柱は「大智」と「大悲」である、ということが語られており、大智とは知性を使って理解することで、大悲とは感じることのようなのだが、どうもこの「大悲」にヒントがあるらしい。左脳だけではだめで右脳も使え、ということだろうか。

すっきりとしないが、「業」「大智」「大悲」がキーワードであることがわかったので、これでよしとしたい。





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