大阪城公園出発。桜ノ宮駅までハイキング。
大阪城
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/d3/972dabc9c11db01291854c0a41048265.jpg)
大阪城南外堀を回って天守閣へ。石垣の規模もすごい。
右)天守閣は昭和6年に再建された3代目の天守閣らしい。
豊臣の、徳川の大坂城はどんなんだったのだろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/52/9c02129bff8da4599d86ef23634b004a.jpg)
刻印石広場 石垣造りを命じられた大名たちが集めた石。藩の家紋や模様が刻まれている。
右)御座船 内堀を20分で巡る観光船 極楽橋近くに発着場がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/81/9f4b37129dfd4c19b4acaee7c8449d51.jpg)
川崎橋 自転車・歩行者専用の橋 大川を渡る。
何か良さげな煉瓦造りの建物。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/9e/e370ca8b4b52d3c7638a5ecbd5b6f8dd.jpg)
中の階段を登る。「煉瓦造りの階段塔」著名な建築家 武田吾一の設計だそうだ。
造幣局で見学時間があった。 警備詰所で番号札をもらって付ける。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/5e/0efd37325cab0eac407ae6de1cb74a98.jpg)
『造幣局は、近代国家としての貨幣制度の確立を図るため、明治新政府によって大阪の現在地(大阪市北区)に創設され、明治4年4月4日に創業式を挙行し、当時としては画期的な洋式設備によって貨幣の製造を開始しました。』(造幣局ホームページ)
造幣博物館
3階(主に貨幣の歴史を展示)から1階へと見学 記事は順不同
金属貨幣ができるまでは貝貨だった。
右)古代中国の貨幣 魚・刀・楽器の形など。
清の始皇帝が初めて丸い通貨を作って今に至る。
この形が日本にも伝わって拡がっていった。
我が国での最初の貨幣は683年(天武12年)「富本銭」(なぜか撮影禁止)
以後「和同開珎」から始まる「皇朝12銭」といわれる貨幣へと・・
「皇朝12銭」とは、708年(和銅元年)から963年(応和3年)にかけて日本で鋳造された12種類の銅銭のことらしい。
渡来銭(中国、宋銭が輸入され流通)、模造銭(中国貨幣を真似た)
760年(天平宝宇4年)わが国初の金貨ができる。
大判・小判・1分金・丁銀 豆板銀・・時代劇で見る包金、地方だけで通用する貨幣・・
銭函 千両箱等の展示
明治に発行された「太政官札」が紙幣のはじまり。
そして、戦後、黄銅貨幣の材料として「薬莢」が使われたという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/7a/a4ee54e8044611aeffe7aa06aa67f95f.jpg)
五百円玉の偽造防止策 模様の中に微細点・微細線・斜めギザ・潜像加工 まったく気づいていなかった。 右)製造機械
貨幣製造当初『その頃我が国では、機械力を利用して行う生産工業が発達していなかったため、大型の機械設備は輸入するとしても、貨幣製造に必要な各種の機材の多くは自給自足するよりほかなかったので、硫酸、ソーダ、石炭ガス、コークスの製造や電信・電話などの設備並びに天秤、時計などの諸機械の製作をすべて局内で行っていました』(造幣局ホームページ)後で調べて改めて知った。すごい!
造幣博物館、面白かった。3階で熱心に見過ぎて、時間不足で2階はチラ見・1階はほぼ素通り。
後で聞けば「千両箱を持ち上げたりできた」という。あ~残念。
造幣局を出て、「泉布館」へ。
「旧桜ノ宮公会堂」
「旧造幣寮鋳造所正面玄関」を移築保存した建築物。国指定の重要文化財。
創建当時の姿に復元して、戦後「桜宮公会堂」となったもの。
現存の近代建築としては、日本で最も古いもののひとつ。
今はレストランや結婚式場として利用されているらしい。
「泉布館」は隣にあったらしいが、上の建物の周りを回り、立派な近代建築だったので、てっきりこれが「泉布館」かと勘違いしていた。結局、「泉布館」は見ずじまいという失敗。
大川沿いに北へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/b7/129e6279188897411461774f371847a5.jpg)
桜並木の紅葉がまだきれいだった。
淀川はたびたび洪水による氾濫をおこすため、明治中期に大改修が行われ毛馬付近から西へ流れる新らしい淀川が作られた。
そのため新淀川が本流となり、旧淀川本流「大川」は天満・大阪中心部を経て大阪湾に注ぐ支流となる。
「毛馬の閘門」に到着。
「閘門」は『水位差により困難となる船舶の通過をスムーズにさせるための設備』
大川に流れる水量を調整する役目、大川の水を強制排水するための機能を備えている。
新淀川側、大川側に水門がある。
水位の高い淀川側の水門から船を入れ、閘門内の水位を徐々に大川の水位まで下げて、最終大川側の水門を開けて船を通す。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/b9/52078106754e1704c00c1d077cedfc0e.jpg)
ちょうどタイミングよく中に砂利運搬船が数隻入っていた。だんだん船が沈んでいき(水位低下)赤信号が青に変わって、大川側の水門が上がって、船は大川へ出て行った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/6a/542896a57467805746d34fa16d079597.jpg)
大川 向こう左へ「新淀川」が流れる。 ホシハジロの群れがいた。
毛馬の閘門 前にここを船で通ったことがある。(h25.11.07ブログ)
その時は「淀川舟運三十石船」という企画で、八軒屋浜から現代の三十石船に乗って、毛馬の閘門・赤川鉄橋・わんど・豊里大橋・鳥飼大橋などをくぐり枚方で下船
途中で舟唄の披露もあるいい旅だった。
歩いて水道記念館の見学と毛馬の閘門を見に来たこともある。(h24.2.5)
その時は今日見たものと別に第1閘門や洗堰というのも見ている。
再訪できてよかった。
泉布観を見損なったのは失敗。又の機会に。
大阪城
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/a9/3c9f176e5475b5f85944e70dc943a7be.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/d3/972dabc9c11db01291854c0a41048265.jpg)
大阪城南外堀を回って天守閣へ。石垣の規模もすごい。
右)天守閣は昭和6年に再建された3代目の天守閣らしい。
豊臣の、徳川の大坂城はどんなんだったのだろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/c3/450267783793ead2d812b1af9d20b0c7.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/52/9c02129bff8da4599d86ef23634b004a.jpg)
刻印石広場 石垣造りを命じられた大名たちが集めた石。藩の家紋や模様が刻まれている。
右)御座船 内堀を20分で巡る観光船 極楽橋近くに発着場がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/7b/690705cf1343e4978087a2ea774b7456.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/81/9f4b37129dfd4c19b4acaee7c8449d51.jpg)
川崎橋 自転車・歩行者専用の橋 大川を渡る。
何か良さげな煉瓦造りの建物。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/9e/e370ca8b4b52d3c7638a5ecbd5b6f8dd.jpg)
中の階段を登る。「煉瓦造りの階段塔」著名な建築家 武田吾一の設計だそうだ。
造幣局で見学時間があった。 警備詰所で番号札をもらって付ける。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/5e/0efd37325cab0eac407ae6de1cb74a98.jpg)
『造幣局は、近代国家としての貨幣制度の確立を図るため、明治新政府によって大阪の現在地(大阪市北区)に創設され、明治4年4月4日に創業式を挙行し、当時としては画期的な洋式設備によって貨幣の製造を開始しました。』(造幣局ホームページ)
造幣博物館
3階(主に貨幣の歴史を展示)から1階へと見学 記事は順不同
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/73/e6e79868b1f9d809163d328f55885ec6.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/6f/4162d5588acc505feaf121e487ff2d27.jpg)
金属貨幣ができるまでは貝貨だった。
右)古代中国の貨幣 魚・刀・楽器の形など。
清の始皇帝が初めて丸い通貨を作って今に至る。
この形が日本にも伝わって拡がっていった。
我が国での最初の貨幣は683年(天武12年)「富本銭」(なぜか撮影禁止)
以後「和同開珎」から始まる「皇朝12銭」といわれる貨幣へと・・
「皇朝12銭」とは、708年(和銅元年)から963年(応和3年)にかけて日本で鋳造された12種類の銅銭のことらしい。
渡来銭(中国、宋銭が輸入され流通)、模造銭(中国貨幣を真似た)
760年(天平宝宇4年)わが国初の金貨ができる。
大判・小判・1分金・丁銀 豆板銀・・時代劇で見る包金、地方だけで通用する貨幣・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/14/d1b988b77a3f26a234d7efe3b8373192.jpg)
銭函 千両箱等の展示
明治に発行された「太政官札」が紙幣のはじまり。
そして、戦後、黄銅貨幣の材料として「薬莢」が使われたという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/73/7f7d7440b07247ce82e3147312c27456.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/7a/a4ee54e8044611aeffe7aa06aa67f95f.jpg)
五百円玉の偽造防止策 模様の中に微細点・微細線・斜めギザ・潜像加工 まったく気づいていなかった。 右)製造機械
貨幣製造当初『その頃我が国では、機械力を利用して行う生産工業が発達していなかったため、大型の機械設備は輸入するとしても、貨幣製造に必要な各種の機材の多くは自給自足するよりほかなかったので、硫酸、ソーダ、石炭ガス、コークスの製造や電信・電話などの設備並びに天秤、時計などの諸機械の製作をすべて局内で行っていました』(造幣局ホームページ)後で調べて改めて知った。すごい!
造幣博物館、面白かった。3階で熱心に見過ぎて、時間不足で2階はチラ見・1階はほぼ素通り。
後で聞けば「千両箱を持ち上げたりできた」という。あ~残念。
造幣局を出て、「泉布館」へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/93/c1723327635914f89df9744ac9e49d03.jpg)
「旧桜ノ宮公会堂」
「旧造幣寮鋳造所正面玄関」を移築保存した建築物。国指定の重要文化財。
創建当時の姿に復元して、戦後「桜宮公会堂」となったもの。
現存の近代建築としては、日本で最も古いもののひとつ。
今はレストランや結婚式場として利用されているらしい。
「泉布館」は隣にあったらしいが、上の建物の周りを回り、立派な近代建築だったので、てっきりこれが「泉布館」かと勘違いしていた。結局、「泉布館」は見ずじまいという失敗。
大川沿いに北へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/b7/129e6279188897411461774f371847a5.jpg)
桜並木の紅葉がまだきれいだった。
淀川はたびたび洪水による氾濫をおこすため、明治中期に大改修が行われ毛馬付近から西へ流れる新らしい淀川が作られた。
そのため新淀川が本流となり、旧淀川本流「大川」は天満・大阪中心部を経て大阪湾に注ぐ支流となる。
「毛馬の閘門」に到着。
「閘門」は『水位差により困難となる船舶の通過をスムーズにさせるための設備』
大川に流れる水量を調整する役目、大川の水を強制排水するための機能を備えている。
新淀川側、大川側に水門がある。
水位の高い淀川側の水門から船を入れ、閘門内の水位を徐々に大川の水位まで下げて、最終大川側の水門を開けて船を通す。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/90/2c5ce9362d4b9dfc5fffb2b3ab09848e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/b9/52078106754e1704c00c1d077cedfc0e.jpg)
ちょうどタイミングよく中に砂利運搬船が数隻入っていた。だんだん船が沈んでいき(水位低下)赤信号が青に変わって、大川側の水門が上がって、船は大川へ出て行った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/94/01c3b2c29aa0296116e55dd69a7b4dfd.jpg)
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大川 向こう左へ「新淀川」が流れる。 ホシハジロの群れがいた。
毛馬の閘門 前にここを船で通ったことがある。(h25.11.07ブログ)
その時は「淀川舟運三十石船」という企画で、八軒屋浜から現代の三十石船に乗って、毛馬の閘門・赤川鉄橋・わんど・豊里大橋・鳥飼大橋などをくぐり枚方で下船
途中で舟唄の披露もあるいい旅だった。
歩いて水道記念館の見学と毛馬の閘門を見に来たこともある。(h24.2.5)
その時は今日見たものと別に第1閘門や洗堰というのも見ている。
再訪できてよかった。
泉布観を見損なったのは失敗。又の機会に。
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