みどりの野原

野原の便り

1月22日 日本書紀講座 天武天皇 「のろし台」 蘇民将来

2021年01月22日 | Weblog

日本書紀講座

他の都合などと重なって、過去1回しか行っていない「日本書紀講座」講座は進んでいて、今回は「天武天皇 3年~4年」
講師と共に読み進みながら細かい解説を聞く。今日は1ページを読んだ。
むつかしくて、聞いているので精いっぱい。なかなか理解とはいかなかったけれど・・

*この時代(天武天皇の頃)にも百済や新羅の他、舎衛(しゃえ インドにあった国?)(知らなかった)・堕羅(たら 西域 ペルシャ)などから来朝した人々が、朝廷に仕えて貢献したり、貢物をしたりと、たくさんの外国人がいたこと。
*この頃、対馬で初めて銀が産出して献上されたこと、などがわかって、自分なりに成果があった。

そして、近日のニュース「高取で見つかったのろし台跡」について。
*「佐田タカヤマ遺跡」聞いたことがないなと思っていたが、調べたら、今回のろし台が見つかって命名された遺跡名とわかる。
*のろし台は皇居のあった飛鳥を守るための施設だったようで、白村江の戦い以降、日本・飛鳥もだいぶ緊迫した状況だったらしい。内陸にある飛鳥で外国の脅威を感じていたとは。
*のろし(烽(のろし とぶひ)・狼煙・狼火)は、敵の攻撃を知らせるのが目的。
養老律令の「軍防令(ぐんぼうりょう)に記載されている」とのことで、帰ってから調べてみたら・・
66条~76条までに記載があった。
夜は火、昼は煙で知らせたらしい。材料はヨモギやわらや生柴など。
うまく次へ伝達できなかった場合は徒歩で連絡に行き、伝わらなかった理由を国司に報告すること。
他、細かく規定されていることがわかった。
*そして、ただ伝えるだけではなく、燃やす材料や燃やす順序・燃やし方など、煙の量や色などにより複数の情報(敵の数の多少 など)を伝えることができたとのこと。
ただの合図だけではなかったのね。すごいな。

蘇民将来 
以前に、確か三重県を歩いていた時、家の表札の横に、うちのあたりでは見かけない「蘇民将来之子孫・・」の札があり、何だろうと調べたことがあったのだが、その説話は釈日本紀の「備後国風土記逸文」に載っているらしい。
神仏習合の話なども聞くことができた。

疫病コロナが蔓延している今、我が家にも、他のお家にも「蘇民将来・・」のお札が欲しいところだ。

すごく詳しい講師のお話。ちょっとむつかしくはあったが、上に書いたように、私なりにわかったこともあり、行った甲斐はあった。

コメント (2)
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