みどりの野原

野原の便り

7月15日 うちの庭 イチビ果実 オニユリ タマサンゴ

2016年07月15日 | Weblog
 
                    イチビの花と果実

 
  オニユリ(小さいムカゴが付いてました)             タマサンゴ


          メハジキ

 
       花時の葉はこんな切れ込み        ロゼット葉は別物のよう。

何年も前、このロゼット葉を見て、何だろうと植えてみたのがメハジキだった。
こぼれ種で毎年生えて花を咲かせる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7月15日 飛鳥稲渕 棚田 稲作にまつわる話 *一部訂正しました。

2016年07月15日 | Weblog
地元のボランティアガイドさんによる稲渕の案内で、稲渕の棚田や飛鳥川や稲作にまつわるお話を聞いた。


前から謎だった勧請橋近くの木のモニュメント
これは飛鳥川上流にある飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(あすかかわかみにますうすたきひめのみことじんじゃ)のご神体の山にあった杉で、平成10年の台風で倒れたものを、神木として栢森とここ稲渕の2か所に分けて祀ったものと判明。
ここから吉野への道は持統天皇が31回の行幸と3回の行啓された道といわれる。

  
 飛鳥川に架かっている男綱  右)雄綱あたりから取水して左岸の棚田を潤す「下井手」(しもいで)
調べると「井手」とは水をせき止める井堰とのことだが、そこから田へ流す水路のことも含むのかな・・

ここから上流は神奈備といわれる神宿る地。飛鳥川の源流もある。奥飛鳥といわれる。
ここ稲渕には「男綱」、上流栢森には「雌綱」といわれる勧請縄が架かる。男綱は下流からの邪悪なものや疫病などの侵入を阻み、上流からの福をせきとめ五穀豊穣、子孫繁栄、無病息災を願う。


棚田を望む。(撮影位置が悪かった)
今、飛鳥川左岸には棚田が広がっているが、飛鳥時代には棚田はなく、峠周辺には朝風千軒といわれる渡来人の集落や寺院もあったらしい。

そこがなぜ棚田になったのか。
それは井手が作られ、水が確保できたことによる。
宇須多伎比売命神社下の飛鳥川から水を取り入れて作った大井手(おおいで)という水路は棚田の上部を通り、祝戸迄の距離は約5㎞弱にも及ぶらしい。どんなに大変な工事だったろう。

大井手が出来、水が確保できたことで日当たりの良い左岸の斜面は稲作ができるようになり、集落は右岸に移ったらしい。

棚田は過疎化と高齢化で維持が困難になって荒廃していったが、21年前「棚田オーナー制」を取り入れ、町の人を呼び込んで活性化した。
町の人が喜んで棚田に来ることで、地元の人たちも自分の住む村の良さを見直し、元気になったそうだ。

奥飛鳥の人々の暮らしと文化的景観は 国選定 「重要文化的景観」に指定されている。
オーナー制を始めて21年、今高齢化で人手不足が現状だという。

石橋の方に下りていく。
 
右岸の田に水を入れる「前田井手」と「坂田井手」

 
万葉歌碑の建つ右岸から石橋を渡る。上の小橋は耕運機などが通るために作られたもの。
飛鳥川にはいくつもの石橋が架かっていたが、雨で流されるなどして今完全に残っているのはここともう1か所のみだとか。「ここは昔のままの石橋で国宝級です」


石橋を渡ったところに1本のネコヤナギの木がある。「これが大事な木なんです」
昔は川を渡るには石橋しかなく、藪入りで実家に帰るお嫁さんが渡れず、お舅さんがおぶって渡したといういいお話も聞いた。

集会所に移って稲作にまつわるお話を聞く。

水口祭
苗代に籾を蒔く時、先のネコヤナギの木に大日講の人たちが作る「牛王寶印」のお札を挟んで水口に刺し、水口に神仏を勧請する。 季節の花を挿したりする。   
水口祭という言葉は初めて聞いたが、苗代の横に花など供えてあるのを見たことはある。  

さなぶり(早苗饗)
地域全体が田植えが終わったところでさなぶりの祝をする。柿の葉寿司やさなぶり餅(つぶし小麦ともち米半々で)
昔は家も兼業農家で、小麦餅を食べた記憶がありなつかしい。

稲妻という言葉があるように、雷と稲作も関わりがあるそうだ。
雷が落ちると稲がよく育つといわれる。雷により化学反応を起こした空中の窒素が雨に溶けて肥料になるとか。

風日待(かぜひまち)
こんな言葉も初めて知った。
台風シーズンに風の神を鎮める行事らしい。

風切鎌
屋根に鎌の飾りをつけるのも風から守るお守りらしい。

雨乞い
水は稲作にはなくてはならないもの。
今も天気はままにならず、神に祈る他ないが、昔、大干ばつの時、皇極天皇が膝まづいて祈ると、一天にわかに掻き曇り雨が降り続いたらしい。
南無天踊り(なもでおどり)という雨乞いや願いが成就した時にもおどる伝承芸能が伝わる。

殺牛儀礼
雨や晴れを祈る時、雨を祈る時は黒牛とか黒馬、晴れを祈る時には白牛とか白馬を生贄にして祈願するという中国の思想も入ってきた。
後に、生贄の代わりに馬の埴輪をささげるようになり、その後には板に描いた馬(絵馬)を奉納するように変わっていったとか。
テルテル坊主が白いのも晴れを祈る白馬と関係あるそうだ。

鉄火起請(てっかきしょう)
手に焼けた鉄を乗せ、持った時間で水の配分が決まる、といった恐ろしい話。
ここではおこなわれなかったようだが・・まさに水の確保は命がけだった。

地元で暮らすガイドさんならではの地元愛あふれるお話は興味深く勉強になった。

午後からは、飛鳥で生まれ育った会員さんのお話や紙芝居があった。


    豊年橋の謂れ 紙芝居

もっと聞いていたいところ、夕方から出かけるので残念ながら途中退席。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする