当地でも8時15分に市のサイレンが鳴ります。75年は草木も生えぬと言われた惨状から75年目の夏です。コロナ禍の下規模縮小してとの発表でしたが、画面見ているに例年通りに見えます。あの広場に呼ばれている人が少ないのでしょう。中国新聞のコラムに、昭和20年8月6日8時15分、その年のうちに14万1千人が亡くなったこと、これは少なくとも広島に住む者には常識的知識だったがそれが失われていくとありました。昨今は日本がアメリカと戦争していたこと自体を知らない者が増えていると嘆く文章はもうずいぶん前から読むことですが、それは原爆の記憶にも同様です。斯く言う私も戦争を知らぬ世代です、日々話をする高齢者の経験談から知るしかないことですが、中国新聞はこの日は原爆話題で埋まります、新しい知識も得るわけです。その年のうちに14万人が亡くなった事実。多くは即死、熱傷(大火傷)や爆風による外傷死です。当初の一週間二週間でほとんどの方が亡くなったのでしょう。やけどや外傷で亡くなるなんて、なんて惨たらしい事かと思い遣ることです。治療の届かぬ中で、痛み悶え亡くなっていった多くの人たち。即死を免れても、その後は急性放射線障害死。生存者の手記によく見るくだり、生き残った者に対して運がいいと言うが、死んだ者は運が悪かったのか、と。そんなことで諦めろと言うのか?との憤りです。運というにはあまりに人為です、当然です。アメリカ憎しです。過ちは繰り返しませんから、の碑文です。銘々が、戦争を知らない世代が思いを致さねばならぬ、そう教えてくれる記念式典。の筈ですが、さてどう伝わっているのか。式典は粛々と、首長たちの原稿読みが続くばかりです。
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