ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

どういう頭の中身をしているんだか

2011-12-11 00:39:47 | 社会時評
すいません、櫻井よしこのブログの記事があまりにどうかと思うので引用します。

> 「 国民と共にあるお姿が皇室の特色と実感させてくれる美智子さまのお言葉 」

2011年10月29日
皇室

『週刊ダイヤモンド』   2011年10月29日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 909


皇后陛下美智子さまが77歳のお誕生日に宮内記者会の質問に答えておられる。皇室が本来の日本の国のかたちと日本人のよき姿を体現してくださっていることを実感させる内容である。

美智子さまは今年を「悲しみの多い年」と振り返られ、東日本大震災と内外の災害に言及された行間には、被災者すべてへの深い想いが満ちる。
大震災について、「こうした不条理は決してたやすく受け止められるものではなく、当初は、ともすれば希望を失い、無力感にとらわれがちになる自分と闘うところから始めねばなりませんでした」と、率直に吐露しておられるが、それはご自分を災害の外に置かず、被災者と自らを同化させておられるゆえの悲しみや絶望である。

「このような自分に、はたして人びとを見舞うことができるのか」という不安の中で、「苦しむ人びとの傍に行き、その人びとと共にあることをご自身の役割とお考えでいらっしゃる」陛下と共に美智子さまは被災地に向かわれた。

そして被災地でこう感じ取られた。

「災害発生直後、一時味わった深い絶望感から、少しずつでも私を立ち直らせたものがあったとすれば、それはあの日以来、次第に誰の目にも見えてきた、人びとの健気で沈着な振る舞いでした。非常時に当たり、あのように多くの日本人が、皆静かに現実を受け止め、助け合い、譲り合いつつ、事態に対処したと知ったことは、私にとりなににも勝る慰めとなり、気持ちの支えとなりました」

日本人の心情と振る舞いが美智子さまにとっても慰めと支えになった。正に日本人が心を一つにしたのがあの大震災だった。そこからの復興を実感なさったきっかけも、よき日本人の姿、人もまばらな道で「一人ひとり宛名の人を確かめては言葉をかけ、手紙を配」る被災地の郵便屋さんの姿だった。

「自分の持ち場で精一杯自分を役立てようとしている人」「その場その場で自分の務めを心を込めて果たすことで、被災者との連帯を感じていたと思われる人びと」「こうした目に見えぬ絆が人びとを結び、社会を支えている私たちの国の実相を、誇らしく感じました」という美智子さまのお言葉が、責務を果たすことで社会の一隅を照らし、誰かの役に立ちたいと願い、実践する日本人の誠実さをあらためて思い起こさせ、私たちを励ましてくれる。
ご自身のご体調の優れないことについてはこう述べておられる。

「その多くは耐えられないといったものではないのですが、日程変更の可能性を伴うときは症状を発表せねばならず、そのつど人びとに心配をかけることを心苦しく思っています」

国民は皆、お二人のご健康を気づかい、過密日程を心配している。けれど、そんなことへの不満は微塵もなく、逆に人びとに心配をかけることを心苦しく思われている。そんな現在のご皇室の姿に、私たちはよいお手本を示してくださっていると感謝したいものだ。

「陛下も私も」「少ししんどい年令」としながらも、「人びとのために尽くすという陛下のお気持ちを大切に」していきたいと、美智子さまは結ばれているが、国民への想いに溢れるこの皇室の姿は、日本の歴史そのものである。

民への想いは聖武天皇のお妃、光明皇后が悲田院、施薬院を作られたところから明確なかたちを取ってきた。国民のために祈り、尽くすことを存在の根本とする皇室は、福祉という言葉もなかった時代から、民のために役立ってきた。近代ではハンセン病の啓蒙活動のために作られた藤楓協会がある。藤は大正天皇の皇后、貞明皇后のお印、楓は明治天皇の皇后、昭憲皇太后のお印で、皇室が中心になってハンセン病への偏見を取り払う努力を重ねてきた。

日本の皇室の「国民と共にある姿」が、現在もなお、皇室の特色なのだとしみじみと実感させてくれる美智子さまのお言葉だった。

(引用ここまで)


・・・(失笑)。

どういう時代錯誤な文章を書いているんでしょうかね。あきれたもんです。

だいたい現天皇は、レイシストであり歴史修正主義者である櫻井みたいな人物を個人的には嫌っているんじゃないの? 彼が櫻井に知識があるかどうかは知りませんが。

「皇室」のタグのその前の記事も、これまたひどい。

>「 日本の価値観を最も鮮明に体現された天皇、皇后両陛下 」

2011年05月14日
東日本大震災 皇室

『週刊ダイヤモンド』   2011年5月14日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 886




藤原正彦氏が『日本人の誇り』(文春新書)で日本文明の価値を、欧米人が至高の価値とする「自由」や「個人」の尊重と対比させて、「秩序」や「和」に求め、こう書いた。

「(日本人は)自分のためより公のために尽すことのほうが美しいと思っていました。従って個人がいつも競い合い、激しく自己主張し、少しでも多くの金を得ようとする欧米人や中国人のような生き方は美しくない生き方であり、そんな社会より、人びとが徳を求めつつ穏やかな心で生きる平等な社会のほうが美しいと考えてきました」

「実はこの紐帯こそが、幕末から明治維新にかけて我が国を訪れ日本人を観察した欧米人が『貧しいけど、幸せそう』と一様に驚いた、稀有の現象の正体だったのです。日本人にとって、金とか地位とか名声より、家や近隣や仲間などとのつながりこそが、精神の安定をもたらすものであり、幸福の源だったのです」

東日本大震災は、こうした特質と価値観が東北の地に現在まで脈々と息づいていたことを示した。その日本人の姿を、日本に対して決して友好的とばかりいえない国々さえも賞讃した。

もう一つ、日本の価値観を最も鮮明に着実に、誰よりも早く体現されたのが天皇、皇后両陛下だったことも明らかになった。皇室の祈りと実践こそが、日本人のあり方や事象の根源にあると実感するゆえんだ。

月刊『文藝春秋』に川島裕侍従長が書いた震災直後からの両陛下の思いと行動は、日本の国のかたちを考えるうえで非常に貴重であり、読者の皆さんにもぜひ一読をお勧めしたい。

震災から6日目の3月16日、史上初めて、天皇陛下はビデオでお言葉を発せられたが、それは、皇室が常に国民と共にあり、国民のために祈り、励まし、精神的支柱とならんとしていることを示している。お言葉の一部はこうなっている。

「現在、国を挙げての救援活動が進められていますが、厳しい寒さの中で、多くの人々が、食料、飲料水、燃料などの不足により、きわめて苦しい避難生活を余儀なくされています。その速やかな救済のために全力を挙げることにより、被災者の状況が少しでも好転し、人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずにはいられません。そして、何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています」

国民の姿を雄々しいと表現されている。和に基づく秩序とともに雄々しくあらんとすることは日本を貫く重要な価値観である。大東亜戦争に敗れ、史上初めて他国の占領下に入ったとき、昭和天皇は国民に向けてこう発信された。1946年の歌会始でのことだ。

降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ

厳しい寒さの中に、凛として青々と立ち続ける松の雄々しい姿こそ、国民の姿であれと詠われたのだ。和と絆で支え合う日本国民は国難に直面するや最も雄々しい人々となる。課題に正面から向き合い、闘い、励まし合い、必ず立ち直る勁(つよ)い人々である。日本国民はそうして生きてきたのであり、常にそうあらねばならない。立派な国民であれ、雄々しくあれと詠われた。

政治が機能停止に陥っていても、日本では暴動も集団強盗も発生していない。中央政府の力強い施策を待ち望みながらも、地方自治体はいち早く、首長を軸に日常生活を取り戻す努力を始めた。そうした国民全員を天皇、皇后両陛下は、77歳と76歳の御身で毎週被災地を訪れ、励ましておられる。

戦後65年、最も大切な日本の価値観は失われてしまったのかと憂いてきたが、日本の根源的な価値観は残っていた。東日本大震災からの立ち直りに大いなる希望を持つゆえんである。

(引用ここまで)


いったいどういう時代錯誤な(以下省略)。

それにしても、藤原正彦氏の本が登場してくるのも興味深いですね。藤原さんもねえ、前はこんな無内容な説教をする人物ではなかったんですけどね。

櫻井という人は、死ぬまでこんな文章を書き続けるのでしょうね。それで産経新聞みたいなところが賞を与える(こちらの記事参照)。どうしようもないとはこのことです。
コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミャンマーの旅 2011年 夏 (74)

2011-12-11 00:39:06 | 旅(ミャンマー)



葡萄を売っていました。葡萄を売っている露店はほかには見かけなかったかな。



これは電話屋さんですかね。このような露店ではなく、2005年にブリュッセルに行った時、店舗の電話屋がたくさん固まっているところを歩いたことがあります。そこは、ほんと白人が歩いていませんでした(ていうか、見渡すかぎり白人がいませんでした)。移民や出稼ぎ労働者の住む地区だったんでしょうね。私も白人じゃないけどね。





これらはデモの際に活躍するバリケードなんですかね。市庁舎や最高裁判所に近いところだったので、こういったものも設置されていたのかもしれません。





ほんとはこういったところで食事すべきなのかもしれませんが…。







教会付属の語学学校でしょうか。







ヤンゴン市庁舎です。



(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする