NHKの7時のニュースの晴山さんの顔色がよくなった。数年前、電力不足かなんかでNHKがスタジオのライトを絞ったとき明らかに顔色が曇ったのだが(ライトの威力は大きい)、このところライトが元に戻ったのだろう。顔色がよくなり、美しさがいっそう映えるようになった。まっこと、お天気キャスターにぴったりの名字であらせられる。この晴山さんは、今後、どういう方面に行かれるのだろうか?
と言うのも、晴山さんの大先輩であるN某さんは(20年前にお天気キャスターを務められ、絶大な人気を誇り、紅白にお出になられた)、お天気キャスターの後、女優になり、更に右派の論客となって今に至った例があるからである。
この「左右」について、最近、へーと思ったことがある。私の出身高校がどっかのテレビで取り上げられたのだが、そこにOBの「なんとか先生」が登場し、さかんに「○○生はこうなんです」(○○生=その高校の在学生及び卒業生)と決めつけて言うのだが、私は、その「こうなんです」にことごとく合致しておらず、まるで、もぐりのような肩身の狭さを味わったのだが、その「なんとか先生」がびっくりすることを仰った。それは、「(当該先生の在学中)先生にも生徒にも左翼がいた」ということである。え?そうだったの?「なんとか先生」は私の二個上だが、私の在学中は、まったくそんな感じはしなかった。私が知らなかっただけだろうか。
思えば、当時は学生運動が下火になった時期。右翼の学生運動って聞いたことがないから、学生運動は左派の専売特許であった。そして、学生運動は、大学がメイン舞台だったが、その後高校にも飛び火した、って話を聞いたっけ。「なんとか先生」は、その時代の最後に在学されていたのかもしれない。
私の頃は、左翼はいなかったが(気付かなかったが)、過激な応援団はあった。それは入学式の時であった。式の途中で、いきなり応援団に属する上級生数人が壇上に駆け上り、そこにいた先生をわきに追いやってアジ演説を始めた。途中何度も「○○生なら返事をしろー」と怒鳴って聴衆の相槌を強要した。そして、新入生は放課後に応援団主導で校歌及び応援歌の練習をするべしと勝手に決めつけて実行した。先生方は見て見ぬ振りだった。しかも、指導する応援団員が音痴で、メロディーがよく分からなかったので、多分、こうなんだろうな、と思いながら歌ったものである。
今から考えると、パワハラ以外の何物でもない。かりに、あれがいやで退学した生徒がいて、その生徒が高校を訴えたなら、今なら高校(県立高校だからイコール県)が敗訴するのは明らかである。だが、なにせ半世紀前のこと。どうなっていたかは見当がつかない。
さあ、そこで、さきほどの「左右」の話である。当時、あの応援団が右か左かなんてことは思いもよらなかった。以下は、今思えば、という話である。「校歌を歌え」は「国歌を歌え」と似てるから右っぽい。だが、「なんとか先生」の話を聞いて、ふと思った。もしかして、応援団の強権ぶりはその数年前まで高校にも飛び火していた学生運動の残り火だったのではないか?つまり左だったのではないか。
そもそも、右と左のどっちが怖いか、と言って、早急にどっちだとは言えない。各人の体験(怖い思いをした体験)によって違ってくるだろう。右派の街宣車に拡声器で怒られたことがあれば怖いのは右だし、左派の集団に囲まれてコールを受けたら怖いのは左である。そういう怖さは、選挙においても現れるものである。
わが母校の応援団は、そんな具合だったから、当初、私の印象は最悪だった。これに対する新入生の態度は二分。反感を持つ者がいる一方で、そんな応援団に入団して「偉ぶる側」に回ろうとする者。私はもちろん前者である(世の中で一番嫌いのモノ=上から目線)。だが、校歌と応援団の「指導」について私のクラスの担当だった応援団員がえらくソフトな人で「応援団に反感を持たないでね」と言っていて、ちょっと印象が変わった。それどころか、後に、吹奏楽部と応援団でタッグを組んで野球部の応援をしたときなどは、まあ、メンバーの主流が私と同学年になっていたこともあるが、随分仲良くやったものである。思えば、あの入学式の怒号が「過激な応援団」「学生運動を引きずった応援団」の断末魔だったのかもしれない(当ブログも、初稿が一番過激で、第2稿、第3稿と直していくうちにかなりマイルドになる)。
聞いた話では、最近は母校も学校の側の力が強くなり、学力アップを最優先にする学校に成り下がった聞く。そんな環境ではかつのような応援団は存在しえないだろう。それもまた面白い話ではない。
因んだ話その1。現在、世界的には政界における右派の躍進が甚だしい。いっとき、左派が強くなった反動だろうか。だが、フランスでは、右派政権誕生か!ってところまで行ったが決選投票の末、右派は失速したらしい。
その2。わが国のかつての官制においては、左大臣は右大臣の上である(今放送している大河ドラマで、道長が貴族のトップに立ったときは右大臣だったけど、その後左大臣になったんだっけ?)。この官制は明治の初め頃まであったということは、大久保利通公が暗殺された跡地(清水谷公園)に建つ公の碑に掘られた「右大臣」で知ることができる。