暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

ブータンの旅 (2)  峠を越えて

2010年09月23日 | ブータンの旅-2010年9月
ブータンは面積38394平方km(九州の0.9倍)ですが、
険しい山岳と急峻な渓谷によって分断され、
山間にある谷ごとに多様で複雑な文化を持つ村々があると言われています。
主要幹線道路は東西に伸びていて、どこへ行くにも山(峠)越えをしなくてはなりません。

空港のある「パロ」から隣町の「ハ」へ行くにはドチュ・ラという峠を越えるのですが、
この峠(ラ)は標高3800m、富士山より高い峠越えです。
長時間のフライトで疲れている上に、曲がりくねった山道を約3時間、
高山病と車酔いで、二人ともふらふらになり吐いてしまいました。
ホテルにやっとたどり着き、夕食をキャンセルしてひたすら眠ることに・・・。

翌日は元気になり、「ハ」の町で弓の試合を見学しました。
アーチェリーに似たブータン式の弓(ダツェ)は国技だそうで、
3チームが130mほど離れた的を両側から射合っています。
射終ると、勇者をたたえるようなダンスがあり、興味深く観戦しました。

近在の農家の人たちが集まるという野菜市場を覗いてから、
「ハ」の古刹、ラカン・カルポ(白寺)へお参りしました。
私たち以外に観光客の姿はなく、若い僧侶が本堂へ案内してくれました。
サンスクリット語で書かれた古く貴重な経典が積まれていて
ちょっと三蔵法師になった気分です。
70人の僧侶がここに住み、修行をしているそうです。
ここで初めてブータン式の参拝の仕方を習いました。

              

再び、恐怖(?)のドチュ・ラ越えで「パロ」へ戻りました。
途中、ドチュ・ラ(峠)で1分だけ車から降りてみると、
白いチョルテン(仏塔)のある峠から山頂(4100m)へ向って
おびただしい数のダルシン(経文を書いた幡)が立ち並んでいます。

風が強く、とても寒かったのですが
数人の女性たちが新しい幡を建てている様子が一瞬のうちに見て取れ、
その山や峠が信仰対象の聖地であることがわかりました。
急に眩暈を感じたので、あわてて車へ戻りました。

             

             

「パロ」へ戻り、ダショー西岡氏を記念する西岡チョルテンへ行きました。
ブータンへ出発直前に、茶友Iさんのご主人が西北ネパール学術探検隊(1958年)で
西岡氏と一緒だったとお聞きし、Iさんご夫妻に代ってぜひ訪ねてみたい・・・
と思っていたのです。

1964年、西岡京治氏(1933-1992)は三代国王の元、
近代化が始まったばかりのブータンへJICA(国際協力機構)から派遣され、
里子夫人と赴任しました。
2年の任期でしたが、ブータン側の要望もあり、1992年に現地で亡くなるまで
その滞在は28年に及んだそうです。

その間、近代的稲作技術の導入、野菜栽培、ジャガイモやリンゴの栽培など
農業の近代化と振興に情熱を注ぎ、多くの功績により、
1980年四代国王よりダショー(貴族・高官に贈られる爵位)の称号が贈られました。
里子夫人は帰国後、織物などブータンの工芸品や伝統文化を紹介し、
ご夫婦でブータンと日本の友好に尽力されたのです。

西岡チョルテンの周りには丹精されたバラやコスモスが咲き、
今も香華(バターランプ)が絶えることがありません。
毎日、堂守のお婆さんが来られ、祈りを奉げているそうです。

              


その日は眩暈や吐き気がなかなか治らず、二人とも昼食をキャンセルし、
明日のタクツァン僧院への山登りに備えて早目にホテルへ入り、休みました。

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   写真は上から
     「ラカン・カルボ(白寺)のかわいい僧侶」
     「弓の試合会場」
     「日本に似ているパロ谷風景」
     「パロ谷の黄金の稲田」
     「ガイドのキンレイさんと堂守のおばあさん・・西岡チョルテンにて」