暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

車で四国遍路・・・(9)足摺・金剛福寺と補陀洛渡海

2019年09月11日 | 車で四国遍路

  足摺岬・白山洞門・・・この海の彼方へ向かう「補陀落渡海」があったという

つづき)
5月25日 晴れ 
第6日目(5月24日)の行程
ネスト・ウエストガーデン土佐~第38番金剛福寺~白山洞門~第39番延光寺~第40番観自在寺~第41番龍光寺~第42番仏木寺~西予市の親戚宅(泊)


その昔(もしかしたら今でも・・・)、お遍路さんは深い悩みや生老病死の苦しみを抱えている人がほとんどでした。帰る家もなく、仏の慈悲を願いながら亡くなるまで遍路を続ける人もいたと聞いています。

足摺岬の断崖に建つ第38番金剛福寺は、蹉跎山・補陀洛院・金剛福寺(さださん・ふだらくいん・こんごうふくじ)といい、御本尊は三面十一面観世音菩薩です。
院号に補陀洛院とあるように、足摺岬から「補陀落渡海」が行われていたと聞いたことがあります。
以前から「補陀落」とは?「補陀落渡海」とは? わからないまま不思議に思っていたので調べてみました。

補陀落(ふだらく:Potalakaの音写)はインド南海岸にある観世音菩薩の住処(浄土)のことで、平安時代に観音信仰が盛んになると、補陀落に擬された場所が各地に存在するようになりました。
日本では紀州の熊野那智、高知の室戸岬や足摺岬などが有名で、補陀落信仰の聖地となっています。


     金剛福寺の山門

金剛福寺は、補陀落の東の入口として、嵯峨天皇の勅願により弘法大師が建立したと伝えられています。
かつてここから観音浄土への往生を願って、帰らぬ覚悟で小舟に乗って海へ出かける「補陀落渡海」が僧行として行われていたという。
平安時代から江戸時代末まで行なわれ、全国で56例の記録・文献が残っています。そのうち熊野那智からの渡海が一番多く28例、高知足摺からの渡海は7例が記されていました。


大きな池(海?)のある浄土庭園が新しく作られていました・・・金剛福寺にて


足摺からの「補陀落渡海」の記録の一つに後深草院二条(正嘉2年(1258年)-没年不詳)が嘉元4年(1306年)に記した「とはずがたり」があります。
以下に讃岐屋一蔵氏の古典翻訳ブログより「とはずがたり 現代語訳 巻五4」の一部を転用させて頂いた。

4 足摺
・・・(前略)・・・
その岬には一宇の堂がある。本尊は観世音菩薩でいらっしゃる。
垣根もなく、また坊の主もいない。ただ修行者や行きずりの人が集まるだけで、身分の上下もない。
「この堂にはどのような縁起があるのですか」
と尋ねると、次のように語った。

 むかし一人の僧がいた。この地で修行していた。を一人使っていた。
そのは慈悲を第一とする志を持っていたが、どこからともなく一人の法師がやって来て、朝食と午後の食事をするようになった。

はいつも自分の食事を分けて食べさせていた。坊の主は注意して、
「一度や二度ならまだしも、いつもそのように分け与えていてはいけない」と言った。
法師は翌朝も食事の時刻にやって来た。
「私は食べさせてあげたいと思いますが、坊の主がお叱りになるのです。今後はおいでにならないでください。今回限りです」と言って、また自分の食事を分けて食べさせた。やって来た法師は、
「あなたのかけてくださった情けが忘れられません。どうか私の住み家へおいで下さい。さあ、参りましょう」と言う。はその言葉に誘われてついて行った。

坊の主が怪しく思ってこっそりあとをつけると、二人はこの岬にやって来た。
そして一艘の舟に乗り、棹をさして南の方へ行く。坊の主は泣きながら、
「私を見捨ててどこへ行くのだ」と言うと、は「補陀落(ふだらく=観世音菩薩の浄土)へ参ります」と答えた。
見るとと法師は、二体の菩薩になって舟の舳先と船尾に立っている。

坊の主はつらく悲しくなって泣きながら、足摺りをしたということだ。そこでこの岬を足摺の岬というのである。
岩にはの足あとが残っているのに、坊の主はむなしく帰ってしまった。
それ以来「分け隔てする心があるために、このようなつらい目に遭うのだ」と垣根も設けず、身分の上下もなく人々が集まって暮らしている。


 『法華経』に、「観世音菩薩が三十三通りに姿を変えて現れ、教えを垂れて衆生をお救いになる」とあるのはこのことかと思うと、まことに頼もしい。






選ばれて或いは自ら志願して観世音菩薩の住処へ導かれる「補陀落渡海」へのあこがれと、この世に残り生きることの意味を問い続ける坊の主・・・どちらもそれで良かったのだと思いたい。

金剛福寺にはもう一人、ゆかりの女人がいらして気になるものがありました。
大好きな和泉式部です。
平安時代に和泉式部が自ら黒髪を埋めて供養したという逆修塔(生前に死後の冥福を祈って自ら建てる墓)があるはずです。
案内板もなく、運よくお寺の方にお尋ねして教えて頂きました。


  和泉式部逆修塔・・・向かって右の石塔

後深草院二条と言い、和泉式部と言い、この最果ての金剛福寺を訪れ、何かを強く願い、逆修塔まで建立する情熱に圧倒され、ちょっぴりエネルギーを頂いたように思います。
そのエネルギーをお裾分けしたくって、お土産のお守りをたくさん買い込みました。  


   車で四国遍路   次へつづく   前へ戻る   この項のトップへ



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。