マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

『最後の晩餐』そのⅡ・・・『人の子は去って行く。人の子を裏切る者は不幸だ。』

2016-03-23 23:01:27 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。

 四旬節の最終週の四日目。3月23日。
今日も、心静かに、心穏やかに過ごしました。静寂。

 庭のボケ2種。             『白花と赤花』
 

 両者は同じようで、まるで違います。

 白花は、枝に棘がいっぱい。外敵?から身を守るため?葉も全くない。よそ者を拒否です。
 赤花は、棘など全くない。柔らかい葉が沢山ついています。 よそ者を包み込んで迎えます。

   
    白花は、美しく。高貴な佇まい。          赤花は、可愛く。暖かな佇まい。 

今日・受難の水曜日・・・・花々を眺めています。
        
                 庭の花々・・・心のうるおいです。
神の造り給うたこの世の全ての被造物は美しく、同じようでも一つ一つがまるで違います。それがいと良し。

そして。
今日は3月23日。 受難の水曜日。

       イエスの愛は、大きさにおいても広さにおいても、無限です
      『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』ヨハネ15-12&13 
     
イエス自ら、人類のために御自分の命を捨てて、イエスの無限の愛を示しました。

       イエスは、全ての人の友であり、誰をも分け隔てをしません。 
 『もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。』ヨハネ15-15
   イエスは弟子たちを慈しんで、ご自分と12人の弟子たちと、親しい友情関係を結ばれました。

       イエスは、自ら弟子たちを選び、任命したのです。
  『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。』ヨハネ 15-16

   しかし。

     イエスにそれほどまでに愛されたイエスの弟子・ユダは、裏切りを企てます。

   『ユダは、祭司長たちや長老たちや群衆と、暗闇の中でもイエスを見分けられるよう、
 「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ。」と、前もって合図を決めていた。』
                                      
       
ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。』      
            
                                             イエスはユダを凝視。ユダはちょっと目をはずして。
     『イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。』
                                     マタイ福音書 26章47-50

そして。
受難の水曜日。
     『今日の福音 イエスの言葉』  イエスは裏切るユダに向けて最後の言葉をかけます。

      『夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。
       一同が食事をしているとき、イエスは言われた。
  『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

        「人の子は、聖書に書かれているとおりに、去っていく。
           だが、
人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれてこなかった方が、そのもののためによかった。」』
                                           マタイ福音書 26章20-24節


    人の子・イエスは、
    
聖書にかかれているとおり、神の御旨を成就するために・・・
    『主の僕』として去っていくことは、以前からご存じだったはずです
    ユダの裏切りがなくとも、『時』が来たら、自ら『主の僕』として、
去って行かれたでしょう。

        さて。

       『聖書に書かれているとおり』とは・・・  
          『主の僕・義なる僕・イエスキリスト像』 のことです。

   『乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。
    見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
    彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。
    彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

  彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、
  わたしたちは思っていた。
  神の手にかかり、打たれたから、彼はくるしんでいるのだ、と。

     彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、
     彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。

     彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、
     彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

   わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
   そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わされた。

      苦役に課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。
   屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に物を言わない子羊のように、
   彼は口を開かなかった。
       捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。』  
イザヤ書 53章1-8節

                    つまり。こういうことです。
   
           イエスは、いつもそうであるように、今回も、
  イザヤが預言した『神の御意志』を、誰の力を借りることなく、ご自分自ら実行なさるために、
        『人の子・イエスは、聖書に書かれているとおりに、去っていく。』のです。

            ところが。

           ユダは、
    そんな『主の僕・人の子・イエス』を裏切り、イエスを追跡者に売ったのです。

     
     神は、自らの似姿に造った人類に、『最高の贈り物・自由』を与えました。
   『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そしてすべてを支配させよう。』 創世記1-26

      
    『自由』は、善にも悪にもなる、神が人類に与え賜えた『最高の贈り物』です。
       
それは時として
    『わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行く。』のです。

   
   ユダは
   与えられた『自由』を、主・自分の師を裏切るという、『悪』に濫用しました。
      そして
   自分の『悪』に気づいても・・・再び間違いを起こしたのです。
       
   ユダは、
   イエスの死後も、再び、

   『幸せ』『不幸』の二つの前で、自由に、『不幸』を選んだのです。
『イエスに回心して許される道』  『イエスの許しに回心することなく絶望して自ら命を絶つ道』
            
言い換えれば、 『命の道』『死の道』
          二つの道の前で、『不幸の道』を選んだのです。


        
イエスは、人の幸せのみを望む方です。
   イエスは、ご自分が選び、そして愛したユダの二度の間違いにどれだけ悲しみ、
            ユダのためにどれだけの涙を流したことでしょう!

    イエスは、ユダの悲しい結末を知っていて、前もって言われたのではなかったでしょうか?
  『人の子を裏切るそのものは不幸だ。生まれなかった方が、その者のために良かった。』と。

   私達も、
   
ユダや、人類の全ての人々とともに『自由』が与えられています。
     そして
   日々問われるのです。「あなたは、『幸せの道』と『不幸の道』のどちらを選びますか?」と。
     
時として・・・
   『不幸の道』が『正しい道』に見え、『幸せの道』が『間違いの道』に見えたりするものです。

      日々・・・イエスに尋ねながら、清く正しく、『幸せの道』を進みたいものですね。

                            以上。今日の私の『御言葉の感想』でした。

皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
右か左か? 食べるべきか終わりにすべき? 言うべきか黙すべき? 走る?走らない? 等等。
人生は選択の連続です。 の選択の基準は『神任せ』で、間違いがない。
の選択の基準選びは、『自由』です。人それぞれ。 『自由』程難しいものはないですね。 

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今日・3月23日の走行距離:10㎞。

5時半。”母の声援を力に頑張って下さい!”と息子の応援ランだと思うと、母は走る!走れる!
息子は昨年大会に続き、今年の『全日本トライアスロン宮古島大会』が迫り、
猛特訓中。
御婦人が、一人で、早朝から、私が走る公道の草ぬきをしていらした。脱帽! 
は、シングルの腕を保つために、ゴルフお出かけ前から精神統一です。
   人生色々。人も色々。今日も、早朝から、それぞれの『自由な一日』が始まりました。
                    3月走行距離合計:140㎞